イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

爪木崎海岸から石廊崎(伊豆5)

2006-02-28 | 2006年度(1/13まで)
 マーガレットはまだだが、水仙は見ごろとの地元の方の言葉を信じて、御用邸がある爪木崎に行く。海岸いっぱいに水仙が咲いていたが、駐車場料金として500円徴収されやや幻滅。石廊崎でも、灯台近くにいくため、駐車しようとしたが、昔ながらの老朽化した駐車場料金もやはり500円。人もまばらなのに、周りの国道沿いの駐車スペースが無料なのにも係わらずである。非合理さ、俗っぽさへの反感がむらむらおこる。

 高校、大学時代はちょうどエリクソンによれば、忠誠心(アイデンティティ、自己混乱感)がテーマの時代であったが、時折行った東伊豆は父との関係もあり、反感を覚える場所であった。そして、その反感は、静かにリルケを読み「なぜなら、貧しさは内部から謝す偉大なかがやきだから。」(世界文学大系 手塚 富雄編
筑摩書房)などの言葉に感動するように導く。この時期、私は好んで石廊崎から西海岸に向けて友達と旅行をしたりした。

 その時の思いは、就職と共に半分忘れていたように思える。

不思議な同一化の原型(伊豆4)

2006-02-28 | 2006年度(1/13まで)
 東伊豆、今井浜で思わぬ父の親心を発見したが、9歳ごろから12歳ごろの私は、建設会社に勤める父を見習い、追いつこうと格闘してきた時期であったように思う。八歳ごろはパイロットになりたかったが、やがて科学者に、そして12歳ころには、父や祖父と同じ建築屋を希望するようになった。
 
 7歳のときにアラスカの異文化に触れたのは良かったが、日本に帰って一年下のクラスに編入され、しばらくは浮いた存在であった。帰国子女は、海外に行って変わった経験をするだけでなく、日本に帰ってからも変わった経験をする。しかし9歳以降は日本にもなじんできた。

 小学校、私は父や祖父のように人物・学業ともに優秀な人間でないと思いしらされ、劣等感をもっていた。落ち着きが無いと、通信簿にもよく書かれていた。そんな、10歳ごろ、突然父を越えた几帳面な生活を始めた。当時、三畳の自分の部屋を貰ったが、布団のシーツを皺一つなくかけ、父から、将来どうなるのかと心配された記憶がある。今から考えると、とても背伸びをしていたように思えるが、そのころ得た自信、尊大感は不思議であった。私は、父のようになった気分であった。

 この同一化の原型は、大学を卒業し、一人前に会社に勤め、妻をめとり子供を育てるという40代前半ごろまでは空気のように私を支えてくれたように思う。ただ、この防衛機制は、私の果たすべき重要な宿題を先々にのばしする、元凶でもあるように思える。伊豆の旅は、それを確信させる旅でもあった。
 

東伊豆の今井浜の印象(伊豆3)

2006-02-27 | 2006年度(1/13まで)
 2月25日伊豆高原、夜明け前に眼が覚める。空には三日月と明星が、まるでアラブ諸国の旗のように寄り添って見える。悪天候と思っていたのに、何たる幸せ、美術館にでも行く予定を急遽やめて、伊豆一周のドライブを断行することにした。

 晴天の国道135号線を石廊崎に向かって南下する。熱川をとおり、河津桜で混み始めた河津をとおりすぎ、今井浜を通る。
 今井浜は私にとって思い出深いところで、小学校3年ごろ、両親に連れられて海水浴にいったところである。旅館に到着してから、父と回り将棋をしたが、そのルールをめぐって口論になり、父に叱られて、悔し涙を流した記憶がある。その翌日、海水浴に家族でいき、私は飛び込み台のそばを浮き輪で海面を漂っていた。丁度台風が近づいてきたこともあり、高波が来て、浮き輪がひっくり返り私は、材木で組んだ飛び込み台の海面下の材木に引っかかり危うく水死するところであった。偶然、父が気がつき、水中に決死の覚悟で泳ぎ来て助けてくれた。父は命の恩人でもあった。

 その恐ろしい記憶は、父との回り将棋の記憶とともに抑圧されたのか、その後殆ど忘れていた。しかし、確実に父のイメージを歪める結果を招いていたように思える。そして、今井浜は、私にとって二度といきたくないところであり、溺れかけた翌日に台風の高波で飛び込み台が無残に波打ち際にひっくり返っていた景色とともに暗いイメージとなった。

 その父は今から14年前に他界した。

 今井浜を国道135号線から眺めた。すばらしい海岸で、今までの悪いイメージが消し飛んでしまった。ふと、当時仕事一途であった父が親心から、今井浜を選んだ経緯を想い感謝の念を抱いた。

尾形光琳の紅白梅図屏風(伊豆2)

2006-02-26 | 2006年度(1/13まで)
 2月24日、小雨の中熱海のMOA美術館に立ち寄る。レンブラントの自画像、野々村仁清作の色絵藤花文茶壷などすばらしい展示であったが、やはり、尾形光琳の紅白梅図屏風が圧巻であった。

 屏風の中央の川は、黒地に金色の曲線で描かれたすばらしい水流を感じさせる絵で、抽象的ではあるが、本当にリアルであった。川・水は不思議である。死と再生、光と闇こうしたテーマを自然に感じさせる。紅梅、白梅の木も不思議である。ただ、在る中で安定している。美術館のご配慮で、屏風の前に、ゆっくり座れる椅子が用意されており、そこでしばらく見入っていた。

 中学生のころの、美術の時間で、尾形光琳のこの屏風について学んだが、装飾性を強調されており、実物をみたいという気にはならなかった。しかし、実際にこのように見てみると、高い精神性を持つ芸術であることが理解できる。
  

トーナビと国道129号(伊豆1)

2006-02-26 | 2006年度(1/13まで)
 2月24日から25日の夜まで、伊豆半島をドライブした。このことを、これから7回にわけて書いていきたい。伊豆半島は、父が30代から40代にかけて仕事で駆け回った舞台であり、私も父に連れられて旅行に行ったこころのふるさとでもある。

 25日の夜、妻と400Kmの伊豆のドライブを終えて東名高速道路の厚木インターについた。帰宅に厚木インターが便利と友人に教えられて、今回初めて厚木インターで降りて129号線を北上し八王子に戻る予定であった。厚木インターに到着したときは妻が運転し、私がカーナビの替わり?にトーナビを受け持ち、地図を片手に左だ右だと指示していた。厚木方面という不思議な表示板に指示されて、国道129号線に出た。休日の夜であり渋滞していた。その時、暗がりで北か南か判断しにくい状態であったのにも係わらず、手持ちの地図から129号線の南方面の車道に出たと勘違いし、129号をいったん離れて、逆方向に向かわねばと考えた。

 妻は八王子方面に向かっているのではと言っていたが、私は南進を確信し、少し南下したところを左折し、東(実は西)に向かった。川を渡ったので一瞬変だと思ったが。そのまま進み、129号線と平行に走っていると思われるとおりを左折する。そして、東名の高架(実は小田原厚木道路)をくぐりまっすぐ進むつもりが、T字路となっており、びっくりする。妻より昨日きた道に出たと指摘され、錯乱してしまう。そして、ようやく間違いに気づく。危うく、ドンキホーテよろしく、T字路を直進してしまうところであった。

 カール・ロジャースのパーソナリティ理論の第二命題「有機体は、場に対して、その場が経験され知覚されるままのものに、反応する。この知覚の場は、個人にとって実在(Reality)名のである」を思い出した。
 私にとって、129号線の勘違いは、誕生以来お世話になってきた父に対する認識を物語っているように思う。伊豆半島の小さい旅行を基に、もう一度父と私の、こころの旅を見直してみたい。