イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

親しい人ほど難しい関係になるのは?(愛の舞台 10/10)

2011-05-31 | 第十章「今ここでの恩寵」

 還暦をすぎて、今までの人生を振り返ってみると(論文を書かなければならないこともあるので)、様々な人との出会いや、その後の山あり谷ありのことなどを思い出す。

 特に幼いころの、出会いや様々な人間関係。あるいは、人生の中で激しい感情を伴った個人的には大きな出来事。そんなことが原因なのか、分かっちゃいるけど止められないような挙動を時にとってしまうことがある。

 これは、プロセススケールの7番目にある、<関係の仕方>での深層心理の問題だ。

 過去の人間関係で、うまくいって幸せだったのに、ある時突然ひどいめにあってしまう。そんな経験故に、幸福になりそうなとき(人間関係が良好になりつつあるとき)に、その親密になることを拒否するような行動にでてしまう(無意識に?)。

 よせばいいのに、何であんなことをしたのだろう?

 先日は、Aさんの問題なのに、自分の理想に固執したためであった。親しい関係であればあるほど、こうした自他混合もあるが、やはり<関係の仕方>の問題が私の場合は出てくるようだ。

 人間関係でへんなことがある場合。この<関係の仕方>を思い出そう。そして、へんな固執や、へんな恐怖感を産み出す自分の殻(成育史)を遠くから眺めてみよう。

 今日は1500万年前に人類から別れたオラウータンから見ると、どうだとか?

  

愛の舞台 10/10

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集団の中で自分の問題と向きあう!(愛の舞台 9/10)

2011-05-30 | 第十章「今ここでの恩寵」

 2ケ月前のある会合で、原発の東電や政府の対応について心配し、熱く語り合った。その中で、Aさんがぽつりと言われた。「何故、現場では問題を察知していたはずなのに、こんなことになったのだろうか?」。

 そして、現在、原発問題の真の原因は何かという議論も出はじめているようだ。マスコミは、華々しい意思決定に焦点を当てがちだが、意外と地味なところを勇気をもって予防活動をしていれば、事態はこれほど酷くならなかったのではと思う(素人の戯言かもしれないが)。基本的には、先のAさんの発言が的を得ているのでは。

 この問題を、臨床心理学的に考えると、誰にでもある、眼の前の問題からいつのまにか逃げ出す傾向(不健全さ)が気になる。本人と問題の関係がへんなのである。

 こころの仕組みで、フロイトが発見した14の防衛機制がある。逃避して、その問題に眼をつぶったり、みんなで渡れば怖くないという同一化の防衛機制もある。甘えの構造は日本文化の特長とも言われているが、そういった傾向も深く絡んでいるのではと思う。

 さて、原発はとにかく、今ここでの自分の問題を考えてみた。自分の問題の関係がへんなケースだ。

 自分を取り巻く問題(理想と現実のギャップから生じる不安感を伴う)は、それこそ数え切れないくらいある。

 ただ、①何のために生きているのか?②生き甲斐は何か?③自分(身体、成育史、魂)を大事にしているか?以上の3つの問いに大きく関わる自己実現の問題から、日々生まれ消える瑣末な問題まで幅広いレンジがあるので。まずは、気になっている自己実現の問題に手をつける。

 人の心は、ある問題に関しては、大きく分けて3つのレベルがある。

 (底辺)問題を認識もしないし自分を変えようともしないというレベル

 (中辺)責任をとることが増大する。ただ自分を変化させる事を怖がるというレベル

 (高辺)問題を外部対象物として見なくなる。問題のある側面に生きているレベル

 そして、健康であれば、ある問題に対しても底辺から中辺、高辺に向かう方向に動いていく。、

 いつものことではあるが、「生き甲斐の心理学」の普及活動。どのような不安感があり、どう行動するか。原発ではないが、自分の問題を意識してみたい。

 愛の舞台 9/10

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それぞれの愛・・・愛の多様性を解釈する意義!(愛の舞台 8/10)

2011-05-29 | 第十章「今ここでの恩寵」

 この年になり、源氏物語を読んだり、あるいは古代史の女帝(持統天皇、称徳天皇・・・)に関する小説や歴史に興味を持つようになった。

 年表と系図。これが、必携のツールで、様々な登場人物を味わう。若い頃にはなかなか理解できなかった、人のこころの機微に触れられるのだ。さらに、「生き甲斐の心理学」を学んでいることも影響している。エリクソン等の人格形成論の知識や、愛の原形に関する知識は多様な人を暖かく見る上で役立つ。

 さて、古代を妄想するのではなく、今ここの現実を考える上で、人それぞれの愛の原形を意識することは、とても大切だ。自分の殻(身体や成育史から形成された自我?)の中だけの狭い愛のイメージだけでなく、殻の外の愛に触れる喜びに繋がる。

 「あなたの愛の原形は何ですか?」などの質問をしなくても、何となく、その人の眼差しや言動のなかに、感じるものがある。

 妻や娘、母など身近な人でも、当たり前だが、自分の愛の原形と異なる。自分のアイデンティティが定まると、そうした他者の愛もより感じやすくなるのだろうか。そして、他者の愛がより感じられるようになると、世界が一段と楽になっていく。

 話は変わるが、最近、テレビで動物の話を二晩続けて見た。ひとつは上野のパンダの飼育に関するお話。そして昨日はヒョウやライオン、ツンドラのラリブーの映像を楽しんだ。人とパンダのように、種が違っても、これだけのエネルギーが生まれるのか。これは、単なるこころの仕組みである、投影や置き換えと違っているのでは。

 最近、多摩動物公園に良く行く。そして、その中でみる動物たちの様々な行動。チンパンジーの愛。チータの愛・・・人類ではないが、同じ想像もできない40億年の苦難の生命の歴史(DNA的にみれば同類)を、共に生き抜いてきた友の愛を感じているのかもしれない。

 蛇足だが、他者の瞬間瞬間の愛をどう柔軟に解釈するか。これも心の健全性と関係が深い。私は動物園で愛の訓練、健康体操をしている!

 愛の舞台 8/10

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本心を主張して生きる!(愛の舞台 7/10)

2011-05-28 | 第十章「今ここでの恩寵」

 父が亡くなって、今年の夏に20年目の法事をする。そんなこともあってか、父が亡くなる直前に私に病床で、「この本はいい本だよ、読むならあげるよ。」と貰った本を手にしている。

 「上海の長い夜」(チェン・ニエン著 原書房)である。外資系の会社の経営をしていた御婦人が、中国の文革の時代に無実の罪で囚われ、ひどい追求や拷問まがいの中で、自己の主張を曲げず生き抜く。そういうストーリー(手記)であるが、いろいろなことを学んでいる。

 カトリックの信仰をもつ著者であるが、ふとしたことで、本心を曲げないで主張することの大切さを知り、それを貫くのだ(大半の人は、追求の中で、自分のしていないことをしたと認めされ、意外にも精神的に崩れていく)。

 父も当時は病床に有りながらも、社会的な責務もあり悩んでいた。そんな中で、どのような想いでこの本を読んでいたのか、聴きたいところであるが、もう聴けない(天国で聴きたいことの一つではある)。

 さて、個人的な想いはあるものの、今回の「本心を主張する」ことは、「生き甲斐の心理学」からみてどうなのだろうか?

 <自己の伝達>について、41頁に次の一節がある。

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(1)心の奥深い本心を自分にも他者にも正直に伝達する必要がある。つまり自分にも他者にも嘘を伝達すると全ての人が幸福になれない。

(2)本音を伝達しないと人は成熟するチャンスを失い、結果として自分も人をも不幸にする。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 これはひとつの理論であり、また現実吟味力の中で、言えないケースもあるが大切なところだと思う。特に、自分も他者も幸福にする主張は、独断と偏見であっても大切にしたいと思う。それは、ひょっとしたら魂の声かもしれない。

 愛の舞台 7/10

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動物のように一致して生きる!(愛の舞台 6/10)

2011-05-27 | 第十章「今ここでの恩寵」

 先日、雨の中であったが、時間があり多摩動物公園に寄り道をした。雨の日なので昆虫館でもと思ったが、その日はアフリカ園に行った。時間帯もあったのだろうか、あるいは雨のせいだったのか、いつもと違い動物たちが寄り添うように集まっていた(いつもは、思い思いの場所で勝手に行動しているようだったが)。何かを感じて、統一的な行動をとっているようだった。

 さて、今回の大震災で感じたことは、特に震災後一ヶ月くらいの間に経験したことは、自分の人生に大きな影響を与えたようだ。八王子に住んでいる私にとって、地震や津波の影響を直接受けたわけでもなく、また、放射能の影響も心配ではあるが、決して致命的ではない。

 それにもかかわらず、普段使っていた交通や電気等のインフラ関係の影響で、現代的なものの儚さを、五感体感で少しは経験したためなのだろう。

 自分のこころの奥に隠れている、魂と言ったらよいか。その魂が実感できるような経験であった。

 生き甲斐の心理学では、よく深層での想いと日常の言動の一致を大切にする。世の中の倫理道徳や、ちょっとした自分への思い込みで、それが乖離することがある。思えば、私の20才台のころは、そういう時期だった。当時は病院に行ったりしなかったが、不安神経症的な病的な経験もした。

 一言で言えば、青春時代から引きずった、屈折した解釈(自虐的な)がどこかにあった。それが、身体では拒否しているのに、無理をすることで病的になった。若いとは言え、人のこころは意外にもろい。

 今回の震災で何かを垣間見た。それは何だろう。自分の日常の言動。それを、どのように自分の内部と一致させるか、のんびり考えていきたい(こころの世界は無理をしては良くないので)。

 愛の舞台 6/10

 

 

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