イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

愛の行動(1)

2009-05-31 | 第七章「光と復活体」

 カリタス・カウンセリングの勉強会で人間観に触れた時、愛とは何ですか?と訊かれたりする。哲学的な定義や、意外とあっさりした「生き甲斐の心理学」での定義、様々な先人の言葉を話しても、何かピンとこないことが多い。

 さて、今の自分にとって何が一番ピッタリするかと考えたが、ちょっと変かもしれないが、「愛を信じると見えてくるものが愛」といった再帰的なものかもしれないと感じている。

 そして、自分にとっての愛が見えてきてから、だんだんと愛に繋がる行動と、手ごたえのない行動の差が見えてきた。

 例えば6年前サラリーマンを辞める頃は、身近な人を本気で助ける活動は、愛と繋がっていると感じた。一方、利益追求の日々で明け暮れるサラリーマン生活は、ここ一つ空しさを感じ、実際に独断と偏見もあり辞めた。

 そして、介護・福祉の仕事をしたりボランティアをしたり、NPOの教育事業をしたりした。何年かして、いくつかの気づきがあった。

 一つは、表看板は兎に角、個々の細かい仕事や行動の中に、愛と繋がる行動が隠れていて、それが重要だということである。看板が人間愛に充ち溢れていても、内実は違うこともある。その反対のこともある(長いサラリーマン時代でもあった)。

 例えば、有名な話はグラミン銀行など、発想がちょっと違うだけで本当に重要な活動をされている。また昨日知ったのだが、日本でも賀川豊彦氏の先進的な素晴らしい活動(労働運動、消費者運動、教育、福祉・・・)があった。マザーテレサの死者の家の活動も、やり方次第で著しく違う仕事かもしれない。

 ・・・

 先ほど、愛は再帰的なものという生意気なことをいってしまった。

 そうは言っても、大切にされた経験が、そうした不思議な愛の世界への突破口になるのは間違いはない(私も実にそうである)。

 自己肯定、他者肯定のスタンスの中、本当に大事なことを身の丈に応じて、やっていけたらと思う。

<愛と行動 2/4>

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ブーゲンビリアの植木鉢!

2009-05-29 | 第七章「光と復活体」

 小学生のころからお世話になり、昨年お亡くなりになったBさんが、母に以前プレゼントしたブーゲンビリアが美しい。今ごろから咲きはじめ、夏を越して、ずっと咲き続ける。

 その立派なブーゲンビリアを見ると、素敵なBさんが今にも現れるような気がする。雰囲気が実に似ているのだ。

 Bさんには、50年近くいろいろお世話になった。そして、私だけでなく、自分の娘にまでいろいろ気を掛けてくれた。

 Bさんは、今考えると、学校の道徳の時間で取り上げられるような人ではなかったかもしれないが、実に愛の人であったと思う。

 愛の行動とはどういうものか、愛の人とは何か、しばらく考えてみたい。

<愛と行動 1/4>

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感情を感じる!

2009-05-28 | 第七章「光と復活体」

 自分の本当の感情を把握するのは、日常生活の中で意外と難しいものだ。悲しいはずの時に、悲しみの感情が掴めなかったり、本当にうれしい時に、うれしさを実感できなかったりする。

 感情は考えるものではなく、あるいは、とらえようと緊張すると、かえって捕らえにくくなったりする。砂漠の蜃気楼のようなところもあるかもしれない。

 昨晩映画を観ていると、不思議なところで、悲しい感情が現れたり、恐怖を感じたりする。あるいはトキメキを感じたり、幻滅を感じたりする。映画で何か(生育史等)に触れて、ある感情が呼び覚まされるようだ。

 先日、パッと目に入った日本庭園のサツキ。期待もなにもない時にふと出会ったサツキの美しさに、はっとする。サツキ自体も興味はあるが、自分のサツキへの感情も興味がある。

 サツキを観ての瞬間の感情。それはいったい自分にとってどういう意味があるのだろう。

 愛と感情というテーマで考えてきたが、まずは感情を感じること。そこからすべてが始まるのだろう。感情を大切にしていきたい。

<愛と感情 4/4>

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愛の感情(2)

2009-05-27 | 第七章「光と復活体」

ご聖体を口に入れた時、眩暈のような感じを受けた。自分の心が過去か未来か判らないが、何となくふらふらとしていたのが、現実の「今ここ」に引き戻されるような感覚である。何の準備もしていない、場違いと思われるような自分が、そのままで何か(Something Great)と対峙する不思議。

想像するに、ご聖体を頂くことで、五感が研ぎ澄まされたことも一因かもしれない。眼をつぶると青い光のようなものが見え、そしてそれまでの人生で味わったことのない統合された明るい感情を感じ嬉しくなった。

思わず、「声を掛けてください」と祈ったが、何も聞こえず、かつ見えなかった。ただ、その時、これからの人生の方向性(信徒として等)が定まったように思った。

想いだしてみれば、その数か月前にNHKの教育テレビで、遠藤周作氏の思い出を井上洋二神父が語っていたが、その時、聖霊の話をされていた。それがとても印象的であったように記憶している。その聖霊の話が、その場で無意識の中で繋がったのかもしれなかった。

全体の流れの中で、プロセススケールから見ても、全体的に低の状態から高に短時間で変化し、合理化や知性化で固まっていた防衛機制も解放された。アイデンティティも聖霊の話などが統合され、現実吟味力も正常に働き、自分の自己実現の方向が見えたともいえる。

現代心理学の「生き甲斐の心理学」から考えると、以上のような経緯になると思うが、何故そのような出来事が、そのタイミングでおこったかは科学の領域ではなく、宗教や哲学の領域になるのだろう。

宇宙ができて137億年。生命が地球に生まれて40億年、現世人類がアフリカを旅立ち世界に散らばったのが5万年前。様々な不思議の中で、自分が今ここに存在する。こうした不思議が存在しても、少しもおかしくないのかもしれない。

深い感謝の念が湧いてくる。

<愛と感情 3/4>

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愛の感情(1)

2009-05-26 | 第七章「光と復活体」

 愛とは何か、愛されるとは何か、愛するとは何か、愛の感情とは何か・・・このような馴染みにくいテーマをずっと考えている。

 自分にとって、愛の感情とは何かと言われると、1999年1月3日に味わった感情のように思える。それまでの人生で一度も味わったことのないような明るい感情である。

 この感情を何故味わうことができたかを思索すると、生き甲斐の心理学で学んだ、様々な勉強が役に立つようである。

 仏教では、例えば「牛に引かれて善光寺まいり」という言葉があるが、それと同様な宗教体験かもしれない。W.ジェイムズの心理学の「宗教的経験の諸相」など、心理学的に分析した本もあるので、心理学の一分野で研究もされている。

 1999年1月3日の出来事を以下、若干の説明(生き甲斐の心理学の理論を踏まえ)をしながら振り返ってみたい。

 当時は、それまでの人生でなかったような苦悩(自分の力を遥かに超えた障碍に向き合う。はっきり自覚はしていないものの罪悪感をもっているなど)の中にいた。正月で実家に集まり、楽しい食事をした後だった。

 母から「イグナチオ教会が改築したので見に行ったら・・・」と言われた、母は若い頃に洗礼を受け、子供(私を含む)は幼児洗礼授かっていた。当時私は、苦悩の中で仏教やキリスト教、哲学の本やテレビを良く見ていたが、教会はとても縁遠くなっていた。

 しかし、母からそう言われ、幼いころから親しんでいたイグナチオ教会でもあったため、防衛機制をちょっとづつ外されるようにして、妻(クリスチャンではない)と一緒にいくことになった。

 11時のミサで、周りは外人ばかり。かえって気楽に神父様がいらっしゃる祭壇から離れた、後部座席に座る。やがて、2000年の歴史を誇る聖体拝領(パン(ホスチア)を信者は頂く)の時間となる。

 私は、はじめから聖体拝領をしないつもり(全く準備ができていないと思っていた)であったが、普段は祭壇の前に信者が行き神父様から拝領するだけだが、その時は修道士の方がいらっしゃり、後部座席のほうの信徒を配慮して、神父様を後部座席の方にお連れしてくださった。

 近くに神父様が来られ、しかも妻から「あなたは信者だから拝領したら」とおされ、聖体拝領をした。次々と防衛機制を外され、聖体拝領という思いがけないプレゼントを貰ったようであった。

 その時・・・(次回に続く)

<愛と感情 2/4>

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