イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

電子出版のとらえ方・・・(思考 9/10)

2016-11-30 | 第一章「意識と知覚」

 縄文中期というのは、一つの環境問題が浮き彫りになる時代だったように思う。

 メソポタミアではギルガメシュ叙事詩に何となく書かれているが、薪を使って金属の精錬などを行うことにより、森が消滅し、その一方で都市国家が繁栄していく。こうした西アジアの動向にどの程度連動しているかは何とも言えないが、日本でも私の妄想では中里遺跡などに見られるように水産加工所のような産業が生まれ、当然ながら薪などを使うことになる。しかし、日本では金属精錬という森を破壊するような行動まで行くことはなく、黒曜石や硬度の高い蛇紋石などを使い続け金属導入に至らなかった。

 世界の中で、今でも日本は森を大事にしている。そして、燃料や資源は他の国から買って加工するので、今でも森はヨーロッパなどと比べるとかなり残っている。

 まあ、こんなことを、この1年考え続けていて、最近どうも縄文感覚になってしまったのか、日本の消費文化が気になるようになってしまった。そして、この一ヶ月くらいは出版とかで何十冊か自分で作った本を仕入れたりしていたのだが、紙の本が一段落した今、電子出版のKin**の作りこみを始めた。二三年前に一度検討したことがあったが、最近はペーパーワークも激減し(米国の税金免除)、さらに便利なツールもできて、縦書き本も私にでも簡単にできるようだ。

 さらに、紙の本ならばいくらオンディマンド印刷で便利になったと言っても、在庫を持つ必要も生じ、出版者の要求に従って仕入れていたらお金もそうだが、紙、森林資源も気になってしまう。

 その点、電子出版はコンピュータ資源は使うにしろ媒体の費用はかからない。従って、在庫を持つリスクもなく、元手も殆どかからない。もちろん、森林資源をつかうこともない。

 縄文小説の経験は、私の今までの行動や思考の傾向を少し変えてきているようだ。

思考 9/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!


自分は日本人だとしみじみ思う・・・(思考 8/10)

2016-11-28 | 第一章「意識と知覚」

 零細企業なので自己出版といっても、本当に何から何まで自分でやった(もちろん助けてもらったことは多々あり、それがなければ多分できなかった、感謝)。小説の校正、表紙のデザイン、写真撮り、ISBNの取得などなど。

 そのお蔭で、費用も通常の世間相場の1/10と桁外れのセービングができたと思う。さらに、モノをつくるという貴重な体験を得ることができた。セービングは、今の世の中で話題になりそうなところだが、モノを作ることで大きな収穫があったようだ。

 小説を書くということは、もちろん歴史的事実などを踏まえるところがあるが、やはり書く人の特性が大きいとつくづく思った。縄文小説というキャンパスに書くのは結局私であり、それは日本人としての個性を引きづっている。

 昨日から、小説を書くときは意識しなかった、日本人の心の特性としての「禊と祓い」「恥の文化」「甘えの構造」「もののあはれ」「幽玄の美」「わびと寂」を思い出しながら、自分の小説との関係を考えた。

 すると、繋がっているんと感動した。
 今回の収穫の一つは、「わびと寂」を自分なりに理解したことがある。実に不思議な体験であるが、東北の夏の旅行の時に太宰治の津軽を熟読したのだ。その中に、芭蕉の「古池や・・・」の句の解釈があった。よく「わびと寂」に使われるのだが、今までは古風な趣のような感覚でとらえていた。しかし、そうではなく、日常の中の異次元感覚というのだろうか、突然古池に蛙が飛び込む・・・そんな感覚だ。ちょうど、私は竜飛岬につながる海岸沿いの道を濃霧の中で運転していたが、かなり緊張して運転していた時、鶯がどういうわけか鳴いた。それがとても印象的だった。今思うと、これが侘び寂につながるのかなと今では考えている。今風にいうとアウェイ感かもしれない。しかし、それでも不思議に意味をもっているようなアウェイ。

 今回の小説も私にとっては一つの詫びと寂だったかもしれない。

思考 8/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 


縄文時代の祖先の創造性 (思考 7/10)

2016-11-27 | 第一章「意識と知覚」

  縄文時代のテクノロジーを考えていると等価変換創造理論どおりで、現代人とほとんど変わらない創造活動があったのではと思う。

 例えば、国指定の東京都北区の中里遺跡は縄文中期で、土坑が発見され水産物加工所であることはほぼ定説となっている。さらに、貝塚は同じような大きさのマガキとハマグリの貝殻で形成されていて、養殖がおこなわれていたのではと推定されている(反論もあり、確定はされていないようだが)。

 一方、縄文農耕論もいろいろ進展があるようだが、弥生時代のように大規模ではないまでも、雑穀や栗、漆、エゴマなどは人間の手により作られていたことはほぼ確実と言われる。従って、自然に手を加え、人間の望む方向性(必要性の高いもの)を志向し、限定された穀物等を必要に応じて沢山採取したりする技術があったことは間違いないだろう。

 ならば、丘でなく海にもそれが等価変換されて養殖が行われても全くおかしくない。

 また、水産物加工所という考え方も、黒曜石発掘作業所、加工所が昔からあったのだから、加工という切り口で異なる対象物でも応用ができ、現実にあったわけである。

 酒も、原材料はニワトコだったり山葡萄酒だったりするが、確実にあったようだ。このあたりの技術は、発酵食材がほかにもいろいろあったことを想像される。干物など当然あったと思う。

 交通に関しても、丸木舟などの水上交通は盛んであったと思われるが、陸上はどうだったのだろう。同時代(縄文中期)にはメソポタミア等で馬や車などがあったが、日本ではどうだったか。諏訪周辺では同じ等高線上に村があり、これが運送等で大きな意味をもっていたのではないかという議論がある。ソリや荷車が酸性の強い日本の土壌の中では遺物は残りにくいが、輸送用の道具の可能性は高いのだと思われる。

 現代でも、真空管を作った技術を応用して魔法瓶ができたり、工学などではいろいろ応用されている。縄文時代も人間は物理的にさほど変わっていないのだから同じように様々な創意工夫があってもおかしくないと思う。

思考 7/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


縄文風に反対に考えてみる訓練・・・(思考 6/10)

2016-11-22 | 第一章「意識と知覚」

 縄文時代の小説を書いてみて、世の中の常識と反対のことを考える訓練になったように思う。素晴らしい経験だった。

 例えば、金属を取り入れるという問題がある。鉄、青銅、金・・・こんな便利なものを、ない方が良いと考える人は99%以上今の世の中ではいないと思う。しかし、多分縄文時代の祖先は否と言ったのではと思う。メソポタミア等の文化では金属を利用するために薪を沢山使い、そのために森がどんどん無くなり、生態系は乱れ、時に気候は変わり、川や海は痩せる。そして、それを補うために、例えば巨大な組織や仕組みを作るなど、組織が自己目的化していく。

 昔、ある時スポーツクラブに入会したことがあった。都心の一等地で楽しく汗を流したが、ある時ウォーキングマシンで歩いていると、不思議な思いが湧いた。何もこんな場所でお金を出し、部屋の中で同じ場所を歩かなくても、外を歩けばいいんじゃないか、景色良いし、しかもタダで。

 もともと世の中は多様性に満ち溢れていた。縄文時代の祖先は、例えば動物(魚介類を除く)でも20-30種類動物を食べていたようだ。それが、今は5-6種類か。クマ、イノシシ、タヌキ、キツネ、ムササビ、・・・それが今は、ブタ、ウシ、ニワトリ+アルファ。野菜も数百種類食べていたという方もいらっしゃる。それが今は、キュウリ、カブ、レタス、トマト、ニンジン、ジャガイモ、ハクサイ・・・どのくらいだろうか数十種類だろうか。
 そして、そういった食のために、昔なくて今あるものとしては、冷蔵庫、コンロ、電子レンジ、トースター、皿洗い機、・・・たしかに便利だが、昔は旬のものを必要に応じて採集・狩猟・漁撈し食べていたので実にシンプルだったようだ。どちらが良いか、普通私も含めてだれも気にしない。

 文字というものも考え方ひとつで、良かったり悪かったりする。縄文時代はかなり高度の文化を築いた社会だが、文字があったかはかなり疑問視されている。私は、文字というものが支配者の道具にすり替わる問題点があると見た。また、言葉という実に不思議な存在(一回性)をビジブルにし保存するという行為は、祖先の考えるだろう命の原理に反する面もあるのかなと思ってしまう。ちょっと違う例だが、結婚式の忌み言葉。お墓の写真を撮らない感受性。・・・いろいろ浮かぶ。言葉に対する感受性。これは文字を持っていた方が良いのか否か。意外に難しい問題がある。

 今日は、饒舌気味で申し訳ないが、今常識とされていることが、意外に違う文化圏では非常識であるということがある。それを知ることは大事であり、こころの健康面でも、現象をいろいろな視座から見ることができることは、良いのではと思う。

思考 6/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!

 

 


何のために生きているかを考えること! (思考 5/10)

2016-11-18 | 第一章「意識と知覚」

<何のために生きるのか>など考えてもしかたがないだろうか?実は意外に重要なのだ。

 丁度、今月中に縄文小説を出版しようと奮闘中で、この数週間は学生時代の試験勉強、サラリーマン時代の新製品発表前のようだ。一日の大半を一つのことに費やするというのは、やはりかなり意志を必要とするようで<何のために生きるのか>のアイデンティティが大きく影を落とすところだと思う。そして、ふらついているといい仕事ができないものだ。

 ところで、今回の小説を書く中で、主人公をはじめとし20人近くの人生が織りなされるが、<何のために生きるのか>という自問自答は、時代や家の文化、個人の基本的な性格や好み、各種人間関係などの要素で流れてくる各自の人生を、かいがいしくさせるというか、いきいきとさせるというか、彩りよくするというか、とても重要だと思った。

生き甲斐の心理学の理論からすると、この自問自答をすることで、次のようなメリットが私の場合あるようだ。

1.自分のアイデンティティの問題そのものですので、考えることで何か閃いて自我が統合され、こころの健康や意欲に貢献することもありました。

2.自分の生まれつきの傾向や渇望も考えざるを得ないところがあり、これまた、健全な生活を志向するためにもよいようでうす。

3.こういう自問自答は、仙人のようなところがあり、這いつくばって小説の校正をしたり、デザインを直したりしている時に、自分を俯瞰する視座を与えてくれます。祈りにも似ていますがが思考という意味で別かもしれません。

 あ、そろそろ仕事をしなくっちゃ。

思考 4/10

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ 人気ブログランキングへ <・クリック応援いつも感謝しています!