イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

仕事で壁にぶつかるとき・・・

2008-09-30 | 第十章「今ここでの恩寵」

 一生懸命にやっても、仕事の成果に結びつかず、壁にぶつかることがある。

 大学を卒業し企業に勤めはじめ営業職についたころ、営業成績は悲惨であった。法人相手の商売であったが、ある月は殆ど売れなかった。

 10年くらいして、マーケティングの仕事を始めたころ、新製品の説明会に1人しか来なかったことがあった。

 こんなことは、人生の中では大なり小なり結構あるものだろう。5年前に長年勤めた会社を辞めてからも、いくつか壁にぶつかった。

 ただ、最近はカウンセリングの勉強、「生き甲斐の心理学」を学んでいることもあり、自分一人の自問自答で自分を傾聴し、暗い感情を明るくする術を覚えてきた。

 自分に対しても考えてみれば厳し過ぎて、自分の本当の感情や本音を知ろうとしないものである。頑張ればかりでなく、「それは大変だね~」と共感の言葉を自分に投げかけると、本当の感情が現れてきたりする。

 そして自問自答の中で、何かふとしたことで、これからの活動の前向きなアイデアが出てくることもある。すべては、一見悲惨な、今ここから泉のように湧きでてくるようだ。それは恩寵なのかもしれない。

 物事は、解釈の仕方一つのところがある。営業で成果が殆どないと悪く解釈するか、少し売れ明るい兆候がでてきたと解釈するか。説明会をやっても無駄だったと解釈するか、わざわざ来たこの一人こそ、これからの宝となる頼れる人だと解釈するかである。

 今ここで、明るい何かが始まる。

<日常の現場2/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 


乱入ごめん!

2008-09-29 | 第十章「今ここでの恩寵」

 明智光成の家紋は桔梗紋で有名である。本能寺で信長を奇襲したときに、信長側が、明智光秀の乱入を知ることになった有名な紋である。

 さて、自分の人生を顧みると、時に、考えてもみなかったコトがおこり、混乱する現場の中で、混乱する人と話し合う経験がいくつかある。自分の中に恐怖感、錯乱感・・・ 勿論、様々なこころの防衛機制も働く。

 カウンセリングを勉強して1-2年のころ、傾聴のやり方を徐々に身につけていった。カールロジャーズの6条件が有名であるが、これを勉強していった。そして、習ったばかりのこの知識で助かったという実感を伴った経験がある。

 混乱する人(現実吟味力を欠いた行動をするなど)と対峙するとき、その方がより平静な状態に戻るように、正しい判断をしてもらおうとするとき、お説教などをしても殆ど混乱を増すだけである。

 まずは、ゆっくり相手の話を聴き、その方の真実の声を聴くように勤める。傾聴は相手に同調・賛成をすることではない、相手の身になり、相手がある状況の中で、どう感じているかということに集中し、共感・受容・純粋と一致に努める。

 そして、その前提に、混乱する相手の中にも、愛するべき魂があることを、どこかで信じることが重要であるように思う。

<日常の現場1/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 


想定外の愛!

2008-09-28 | 第十章「今ここでの恩寵」

 この夏に瀬戸内海の景色を見ながら、Kさんが話していたのを思い出した。瀬戸内海は島が沢山あって、島などが見えない太平洋沿岸と比べれば、変化が豊富で美しい。確かにそうだと思った。

 瀬戸内海もそうであったが、7歳の時に両親と妹と住んだ、南東アラスカのシトカもそうであった。本来は3年程度住むことになっていたが、約一年だけ住んだシトカの生活は、不思議な1年であった。

 黄色いペンキで塗られた家に住んだのだが、場所は町の外れにあり、隣はロシア人墓地であった。後で知ったが、ロシア人墓地の周辺には先住民族のクリンギット族の墓地があったとも言われる。

 街の近くには、公園があり、トーテムポールが立っていた。動物や鳥が刻まれたトーテムポールを静かに一人で観ていると、何か不思議な感覚になる。精霊に満ちている土地柄だったのだと思う。

 ある晩、両親がパーティで夜外出した。部屋で寝ていて、眼が醒めて時計を見ると、午前2時。「丑三つ時」!その時の怖さは今でも記憶にある。もちろん、何もなく両親も戻ってきた。

 そんな、日本では味わえない怖いこともあったが、異文化の中で家族一緒に結束して暮らしたことは思い出深い。外国に来なければ経験できないような、両親からの想定外の愛も甘受した。

 黄色い家は、思い出深い。

<家4/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

 


二重星ーアルビレオの住人は!

2008-09-27 | 第十章「今ここでの恩寵」

 先日、ふとしたことから、アルビレオという言葉を知った。星座の白鳥座のしっぽの方の星で、観察すると主星と伴星が互いに重力で引き合う連星だそうだ。

 地球から観察して、方向がほぼ同じなので2重に見える星と、お互いの引力で引きあう二重星、連星があるそうだが、アルビレオは後者である。

 太陽系は太陽が一つであるが、アルビレオのような連星では太陽が2つ以上あるそうで(アルビレオは実は後日と3重星であることが判明)、もし近くに生命体がいるとしたら、どんな状態になるのか。きっと太陽が一つの状態より、多くの混乱があるだろう。

 全く、話は変わるが、昨日カウンセリング勉強会があり、愛の原型を話あった。その中で、私の幼いころの家の話が話題になった。

 幼い頃の住処は、母の実家(10人兄弟の大家族)の庭先に両親が家を構えたため、私は母の実家と両親の家を頻繁に行き来する子供だった。

 
 想えば、アルビレオのように、二重に家があるようなものであった。丁度サザエさんのような人間関係で、二つの家があるような環境である。昔は、近隣に親戚の家が沢山あって、二重どころか多重の家で育った方もいらっしゃると思う。また、今でも2世帯住宅もあるので、同じような経験をされる方も多いと思う。

 10人兄弟の実家には、親戚縁者、友人等いつも沢山人が往来し、大人の会話をするときには邪魔者扱いされたりした。大人の会話に口を出すと、何となく場がしらけたりした思い出もある。一人寝かされて目覚めた時に、母が居ないという経験も記憶にある。

 人はそれぞれ固有の生育史があると思うが、私の場合はアラスカの一年を除いて、そんな環境で育ったように思う。今の少子化の現状と大きく違うようである。皆さまは何重星の世界を経験されましたか?

 そんな中で、4-6歳は幼稚園に通いはじめたり、妹ができたりで、どことなく満たされないところがあったようである。

 こころの内をうまく表現できず、また、自分の想いと違う指示をする大人に対し、5-6歳の私は、問答無用でよく噛みついた。

 混乱しているとき、暖かい愛をもって、受容・共感・純粋と一致で傾聴してくれる人の存在。幼いながらもじっくり話を聴き、変に支持せず一緒に解決への道を模索するような人の存在は大切である。今考えると、そうした存在は祖父であったように思う。

 少子高齢化の現在、多忙でかつ近すぎる存在の両親の他に、暮らしの中で傾聴をしてくれる人(暮らしの中のカウンセラー)が増えてくればと願う。

<家3/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

 


こころの奥にあるもの

2008-09-26 | 第十章「今ここでの恩寵」

 先日、源氏物語の切手を手に入れた。ちょっと中断していた、源氏物語熱が再びめらめらと燃え始めた。

 瀬戸内寂聴訳の源氏物語、桐壷から読み始めた。桐壷の更衣が亡くなり桐壷帝が嘆き悲しみ書いた和歌のひとつに、次があった。

 尋ねゆく幻もがなつてにても 魂(たま)のありかをそこと知るべく

 更衣の魂の行方を探してほしいとする、桐壷帝の願いが伝わってくる。それだけでなく、見方を変えると、身体が滅んでからも存続する魂の存在を紫式部の時代の人が信じていたことも伺える。

 1000年前の日本人も魂を信じる人が多かったようであるが、その伝統は現代にも及び、宗教を信じない人でも、魂の存在を信じる人は多いようである。

 そんな魂は、どんなものだろうか?

 聖パウロの思想に、人の身体は神の神殿という言葉がある。自分自身の中に神(聖霊)が宿っているというのである。聖霊とひとり一人の魂は生きている場合別のものであろうが、どのような関係にあるのだろうか?

 「神のめぐみとは」(J・ドージャ著 野口秀吉訳 カトリック全書23)には、次のような記述がある。ちょっと長いが、好きな部分であるので記してみる

「・・・また、人間が自分のうちに、何か神に似たもの、神の聖性に近い何ものか、キリストが山上の説教で教えられた掟に応えようとする何ものかを具えていなければ、本当に神の心にかなったものとなることはできない。「あなたたちの、天の父が完全であるように、あなたたちも完全なものになりなさい」(マテオ5・48)ということは、神がご自身の何ものかを、すなわち、神的聖性の何ものかを、人に分かちあえるということを前提としている。このようにして、神は人間を、神に似たものとするため、すなわち、神の聖性によって人間を聖なるものにするため、本来人間には具わっておらず、また人間自身の努力では達することのできない何ものかを、何の功徳もない人間に、無償で、神の純粋なおくりものとして、あらかじめ与えるという考えに導かれる。」 J・ドージャ著 野口秀吉訳 カトリック全書23 p21-p22

これは、カトリック神学者の意見の一つであるが、仏教などの伝統宗教の中にも、同じような考え方があるのではないかと思う。詳しくないので、もしご存じの方がいらっしゃればお教え願いたい。

人のこころの奥深くに、聖性があると仮定すると、どうだろうか?

こころの中の小さな家で、私の魂と聖霊が向き合う。こころは身体の状態や生育史などからによる嵐の中で、中々聖なる声を意識化できないが、静かに傾聴すれば、真実の声が聞こえるかもしれない。

傾聴は単なる技術論だけでなく、広がりをもっているようだ。

<家2/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします!