イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

津波と地震・・・縄文祖先の防災神話! (明るくい解釈は何故いいか 4/10)

2016-06-30 | 第七章「光と復活体」

 3.11の津波で多くの縄文時代の遺跡(貝塚など)は無傷で残り、縄文時代の祖先の知恵が見直された。しかし、実際に縄文の祖先はどのように津波や地震を捉え意識化していたのか。そんな疑問がずっとあった。ところが、たまたま最近読んでいた「アイヌの暮らしと伝承」(ジョン・バチェラー著 北海道出版企画センター)と「津軽」(太宰治著 新潮文庫)から大きなヒントを得た。

 「アイヌの暮らしと伝承」の110Pを参考にペンリ首長のはなしを要約すると次のようになる。

 世界は大きな魚の背中に乗っていて、この魚は大きな鱒の形をしている。この魚が激しく動くと大きな地震となるが、何時我慢しきれなくなり動くかは誰にもわからない。だからこの魚のことは注意してなければならない。この魚が息を吸い込むと引き潮が起り、息を吐くと満ち潮で海岸に水が押し寄せる。時に、大きな息を吐くと津波がおこる。なぜこの魚が世界の土台になっているかだが、創造の大神が世界を作る前には、この世はただの泥沼でしかなく、そこに一匹の途方もなく大きな鱒が住んでいたので、創造の大神が世界をつくるときにこの魚を世を支える土台にしたそうだ。

 因みに、ジョン・バッチェラーは梅原猛氏からも評価されている。50年以上キリスト教宣教師としてアイヌの人々の中で暮らしたという事実から見ても信頼できると思う。

 「津軽」76P~79Pには京都の医者であった橘南谿(1754~1806年)の東遊記が引用され、おきなという北海の怪魚の話がでてくる。これは、巨大なクジラをクジラがイワシを飲み込むように、おきなはクジラを飲み込むそうだ。その後に松前の大津波の話が載っているが、津波とおきなの関係は、「津軽」からは直接読み取ることができない。原文を読みたいが。

 大きな魚と地震の関係は、日本の鯰の話を彷彿とさせる。ただ、残念なことにアイヌの話のようにきちっとした話が残っているのだろうか。

 地震や津波は一瞬にして不幸を招く。こうした災害は神も仏もいないような冷酷な災害だ。今では科学的に発生のメカニズムはかなり明らかになっているが、現代人は都合のわるいものをこころのどこかに蓋をしてしまい込むところがある。時間が経てば忘れてしまう、それも生きる上ではある意味必要だ。しかし、地震や津波は忘れてよいものなのだろうか。危険な安全神話をつくる愚かさはどうなのだろうか。

 縄文の祖先はどうだろうか?地震や津波。その発生のメカニズムは現代より科学的知識が少ないと思われるものの、より親しみやすい鱒とかおきな怪魚というイメージのもつ意味は大きいように思う。どこかユーモラスである。さらに、この怪魚が潮の満ち引きといった身近な現象とつなげ、一方で地震や津波といった恐ろしい現象にも繋げることで、気楽に思い出せる神話・知恵になっているのではないか。神も仏もいないような恐ろしい地震や津波のイメージは危険な安全神話を作りがちだが、どこかで暖かく解釈できる部分を残した神話は安全をもたらす。

明るい解釈は何故いいか 4/10

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魂のあいさつ!(明るい解釈は何故いいか 3/10)

2016-06-29 | 第五章「和解と平和」

 気持ちの良い人間関係はあいさつを抜きに考えられない。家庭でも職場でも、知らない人との関係でも・・・それは、そうなのだが、この2-3日縄文時代の祖先はいったいどのような挨拶をしていたのか、あれこれ考える中、現代の私も含めた人たちが忘れがちな挨拶の本質について考えさせられた。

 今でも、日本人は宗教を信じなくても魂を信じている人は多い。これは、恐らく縄文時代からの文化の影響と私は考えている。そして、縄文時代の宗教を考えたり、その伝統を受け着いた可能性の高いアイヌ文化の宗教や生活を研究したりしていると、魂(永遠性)を持つ人に対する、あいさつとか礼法について驚いてしまう。

 日本人のお辞儀や優しい礼儀は知れ渡っているが、アイヌの挨拶や礼法については知識は皆無であった。しかし、ジョン・バッチェラーの「アイヌの暮らしと伝承」を読んだり、ネットで調べたりすると、その挨拶や礼法は、それこそ神に似た魂をもつ人という考えを実に的確に反映しているようだ。

 男性の挨拶(優雅に手を擦り合わしたり、声を上げたり、いろいろある身体的な挨拶のほか、寅さん映画ではないが、初対面では出自等をしっかり話したり、再会時の抱きあったりの熱い挨拶・・・)。女性に関しても、作法は違うが優雅そのもの。口を手で覆ったり、右手を垂らした左腕の真ん中からなぞるように顔の口の上までなぞる仕草は優雅そのもの。時に再会時などはその挨拶が1時間を超えることもあるという。しかし、それを当たり前と考える社会は何だろうか。

 今の世の中、基本的人権とか人間としての尊厳という言葉はよく聞くが、その奥に隠れた、本当に人を大事に思えるか・・という問題についてはどうだろうか。愛する人なら、簡単かもしれないが、見ず知らずの人や利害が対立したり、嫌いな人に対してはどうだろうか。アイヌの社会では昔、刑事事件等を起こした場合厳しい刑罰はあったそうだが、死刑は無かったそうだ。このあたりも、実に魂との関係で興味のあることだ。

 「生き甲斐の心理学」では人間観をとても大事にしているが、それは、どんな状況でも明るく解釈しようとする基盤になるのだと思う。

明るい解釈は何故いいか 3/10

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つまらなそうな仕事をどう解釈していくか・・・(明るい解釈は何故いいか 2/10)

2016-06-28 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 青春時代の一時期、すべての仕事がつまらなく観えたことがあった。そんな時は、自分が高齢者になるなど信じられなかったが今私はりっぱな?前期高齢者となった。

 生き甲斐の心理学で学ぶプロセススケール(カール・ロジャースの理論)の中に、体験過程という概念がある。初めての体験などは典型的だが、はじめは緊張し、自分が何をしているのか実感がわかないところから体験は始まる。そして、慣れて体験が自分のものとして意識化され、最後には体験そのものの中に生きるようになる。

 人生で経験をつみ、豊かな体験過程も経験していくと、自分なりに体験を身に着ける術も身につけるようだ。体験を明るく解釈していくこと。これも大事なノウハウだと私は感じている。世の中、暗く解釈することが何か知的で良いような雰囲気があったりするが、こころの健康面、問題解決を考えると暗いのも行き過ぎるとどうかと思う。

 かつて、外資系企業を辞めて新しい世界に飛び込んだことがあったが、その中には初めての体験がめじろおしであった。当然ながらいろいろ失敗もし、いろいろ学んだりも。

 そんな時に、新しい仕事をつまらない仕事と暗く解釈していくと、自分の経験から「体験過程」が進まず、身に付きにくい。一方、その中にポジティブな意味を少しでも見出し、小さな幸福感を意識していると体験過程はスムースになってくる。

 体験過程に問題のあったケースで、私は自動車運転免許取得で苦労した学生時代を思い出す。実は小学生の低学年の時に友達が交通事故にあったこともあり、運転自体に嫌悪感を覚えていたが、就職に際しどうしても取得しなければならなかったのだ。半分病的だったので、一度は免許取得を途中であきらめてしまい、2度目は取得期限ぎりぎりの6ケ月をかけてやっと取得した。

 反対に、最近の例で法務関係の仕事のことだが、ちょうど忙しい時期で何故こんな仕事をとつまらなく感じる時もなかったわけではないが、自分でその意義をいくつか見出したりしているうちに体験過程が健全になり、いつの間にか仕事も完了してしまった。

明るい解釈は何故いいか 2/10

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月をみて幸せになる!(明るい解釈は何故いいか 1/10)

2016-06-25 | 第一章「意識と知覚」

 月という天体を見て、ちょっとした幸福感を抱く。月にまつわる様々な解釈、幼いころから今にいたるまでずっと聞いたり見たりしているが、、私の場合は幼いころの、ウサギの餅つきのイメージが原型としてあり、月に関しては基本的に明るく解釈し、ちょっとした幸福感を頂くことが多いようだ。

 月のウサギ、餅をついているが、もち米をついていると普通は解釈するのだろうが、縄文時代には立派な石皿・石棒がすでにあり、ドングリベースの団子などが当然あったので、この説話も縄文時代から伝わってきたのだろうと私は妄想している。今も生きるのには厳しい時代であるが、縄文時代をはじめいずれの時代も歴史を学ぶと厳しい時代ばかり。その中で、ウサギの餅つきのような楽しい解釈が何故生まれ、数千年、一万年といった長い期間何故伝わってきたのだろうか。

 私は、それがこの世では珍しい明るい解釈からなっていて、私たちを元気にしてくれる清涼剤になっているのだと思っている。この時代、マスコミをはじめ暗い話題(解釈)がやたらと多い。ストレス曲線はしっかりと向き合うと幸福曲線をもたらす原動力になるのだが、自分が直接タッチできないような話題で朝から晩までずっと暗い情報にふれていると、少なくとも身体に良くはないと思う。

 その反対に、自分の明るい感情(平安感、友好的感情、健康感、幸福感、自我統合性)を意識し対象に近づく。あるいは、例えば朝や就寝前などは心が楽しむようにすることを意識すると、こころの健康には良いと思う。

 人それぞれ培った対策があると思うが、私の場合は、新聞やテレビも好きなものしか買わない(購読しない)見ない。インターネットも同様な基準でお付き合いをする。「生き甲斐の心理学」を15年以上勉強してわかったことの一つは、人間(自分)のこころは意外に弱く、コントロールしないと短期間で病的な側面がでてくるということだった。人それぞれだとも思うが、明るい情報や暗い情報とどのようにお付き合いをするかを意識するのは重要だとおもう。

明るい解釈は何故いいか 1/10

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本当は親しくなりたいのに物怖じしてしまう・・・(新しい体験 10/10)

2016-06-24 | 第三章「無意識の世界」

  新しい環境に入ると、新しい人間関係を育む機会が増える。その中で、時々自分に何かへんな傾向があるなと気づくことがある。人間関係を深める段になると、何か物怖じし一歩踏み出せない傾向と呼ぼうか。

  これは生き甲斐の心理学で、プロセススケールの7番目にでてくる、親密になりそうだと逃げだす傾向・・・そんな理論に関係しているようだ。私の場合、2-3歳のころに幼馴染との関係で、親しくなろうとして傷ついた原型のような体験(飴をもらおうとして、祖母から怒られた)があり、そして小学校の時にも同じような体験がありその傾向が強化されたように思う。

  こんな傾向が何故あるか。のんびりと生育史を振り返り前向きに解釈をしなおすと、変な傾向が浮き彫りにされ、そして大人の眼で確認すると無意識の意識化で直っていく(そういう心理学の理論がある)。ただし、私の場合は、こうした理論を知って意識化し直って行ったのではなく、別の方向で直ってしまったようだ。それは、社会人となったころ営業職についたのが大きかったようにだ。物怖じしていては食べていけない・・・そんな環境の中で、おのずと親しくなる楽しさを覚えていく。心理学的にいうと行動療法的だ。

 つらい経験を大人の眼で調べれば、親しくなろうとして、あるいは親しい関係があって、その中で痛 い目にあうことは、決して「親しくなるとひどい目にあう」といった公式を導く合理的な経験でないことに気づく。しかし、心の深層にこうした傾向が確立さ れてしまうと生きる上で不便なことが多い。

新しい体験 10/10

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