関西での浮世を離れての勉強会+旅から新幹線にのって帰って三日目となる。やっと、生活が戻って来た感じだ。
さて、昨日のブログで述べたように帰りの新幹線では、一人の時によくする豚まん+ビールの解放的な2時間+αであったが、その時に坪田信貴著「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話」(角川文庫)を読んだ。最近、縄文小説を書いていることもあり、100万部も売れたという本(映画にもなったそうだ)に関心を持ったのである。
聖徳太子を(せいとくたこ)と主人公が読んだところなど、思わず豚まんを吹き出しそうになった。が、なかなか良い本であった。生き甲斐を持つこと(受験でも)の意味をあらためて考えさせられ、また娘が若かったころの10~20年前を静かに想う貴重な時となった。塾の先生のビリギャルに対するほんわかとした愛情もとてもよかった。
今では、私の子供たちも、難しい年頃を生き抜き、それなりに成熟しているようだが(ひょっとしたら自分よりも)、かつては自分もそうであったが、青春時代は結構大変。才能に恵まれた人も、最近読んだ『フェルマーの最終定理』でも深く感じ入ったが、ガロアや谷山豊のように夭折する人もいる。青春時代は誰でも危機の時代なのだろう。
青春だけでないが、ストレス曲線の激しい環境の中にいても、ある人は、それを乗り越え、ある人は、乗り越えられず時に負のスパイラルに巻き込まれる。この差はなんだろうか?わたしは、それは究極的には本人の哲学(宗教も含む)の問題だと思うが、眼の前の生き甲斐・・・そんなことも実に大事だと思う。眼の前の生き甲斐とは何だろうか、趣味などの世界もあるが、自分の向いた仕事なども生き甲斐になるかもしれない。自分が向いているもの・・・これも、意外に自分で気づかないことも多い。他者の眼でやってみたりして後で向いてると発見することもある。
向いていると思っても、後から考えると向いていなかったと思うこともある。実に難しいものだ。今、私は縄文小説を書いているが、これは、何だろう。自分に向いていると全く思わないし、何か明確なビジョンがあるわけではない。しかし、書く必然性は不思議にあるのだ。もちろん必然性があってもうまく行くとは限らない。多分書き終わってから暫くして判る事かもしれない。自分のことなので、向き不向きなどは簡単に判りそうであるが、神秘の世界の領域かもしれない。
ストレスを楽しむ! 9/10