イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

暮らしの中で、妥協できないものは?

2008-04-30 | 第五章「和解と平和」

 他者受容をすることは、その方の置かれた立場や状況を深く理解をすることであり、決して同意や考え方そのものに賛同することではない。

 利害が絡む日常生活の中では、他者受容は殆ど無いのが普通かもしれない。私の乏しい、他者受容をされた経験も、特別な状況下や稀なケースであるように思う。あの場面、この場面と数えるほどしかないようだ。

 そして、自分が、意識して他者受容をしても、自分と相手の方との関係がある訳で、意見を訊かれたり、賛同を求められたりすると、その人間関係の中で他者受容を越えて、自分の発言をすることになる。

 自分の狭い人生経験の中や立場で、どう応えていくかは難しい問題である。

 私の場合は、やはり真善美を大切にし、またカトリックの信仰を大切に考えている。真善美で妥協してはならないと教えられたが、五感、体感は重要であり、その教えは確かだと思う。

<他者受容4/4>

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祭りだ、祭りだ、明るい感情の原型!

2008-04-29 | 第五章「和解と平和」

 近くの高幡不動尊に寄った。驚いたのはお寺の境内にお神輿が!それは、楽しく語りたい話題であるが、今回は祭りに関して記したい。

 季節は、いつのまにか春から初夏に変わり、府中のくらやみ祭りがゴールデンウィークに始まる。もう30年近くになるが、初めて多摩に移り住んだ時に、あまりに巨大な山車や太鼓の存在に驚いた。

 西暦111年に設立されたという大国魂神社は、大好きな神社であり、それゆえに府中が好きである。一時は、府中に住居を構えたいと思ったこともある。

 祭り。幼いころから、祭りとなると母が用意した浴衣を着て、祭りに行ったものだ。家の近くには、小さな神社がありお神輿を担いだりした。四谷の須賀神社までは幼い私には結構距離があったが、夜店がにぎわい、楽しみのすべてがそこにあったようだ。

 太鼓がなり、祭りが始まると、うきうきしてくる。幸福感の原型は祭りに繋がっているようだ。

 和解、他者受容とか傾聴など。難しいことをいろいろ述べてきたが、最終的にはこの祭りの明るい感情を味わいたいということなのだろう。暗い感情を明るくする。生き甲斐の心理学の効果の一つでもある。

<他者受容3/4>

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人と出会い、そしてホンネに触れること!

2008-04-28 | 第五章「和解と平和」

 人と出会うことは、不思議である。自分が非常に稀なこととして今存在し、ある人も存在し、それが不思議な縁で出会う。膨大な時空間の中で、二人が出会うことというのは、恐らく不思議なこと以上の何物でもないであろう。

 そして、その人のお話を傾聴し、普通は語らないホンネを語っていただくことがある。

 自分とは違う、成育史と環境の中で、せつせつとお話されるホンネは、自分の尺度で批判するのは簡単であるが、そんな尺度はどうでもよい、なるほどと納得する力がある。魂からの声なのであろうか?

 自己肯定・他者肯定のスタンスの中で、ホンネのお話をお聴きすることができるのは、天使の歌声を聴いているようなものかもしれない。

 ただ、現実的に考え行動する私たちの鋳型のような時空間は、自分の尺度やお相手の尺度の中で妥協をゆるされないことが多いようだ。

 それは、世界地図の上の妙にいびつな国境線や、妙にはっきりした直線の国境線のようである。しかし、この不自然な国境線の中でも、人々は逞しく生きていることも確かである。

 傾斜地を利用した花壇で花々が綺麗に咲いている!

<他者受容2/4>

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自分と他人は違うけど・・・他人を受容すること!

2008-04-26 | 第五章「和解と平和」

 昔、米国の方と頻繁に接触して仕事をした時期があった。その時、日本人と違って、外人はなんと個性豊かかなと思い。また、日本人は何と個性がないのだろうと思ったことがあった。

 それは、大きな間違いで、日本人も一見そうかもしれないが、実は本当に多様だと最近痛感する。「生き甲斐の心理学」を学んだ成果かもしれない。

 深層心理では「自分以外の他人は驚きの対象」。確かに、他人でも関係が深まっていくと、違い・・個性が見えてくるように思う。尊厳のレベルでは同じであっても、成育史も違うし身体も違うので、違うのは当然かもしれない。まして、社会のなかで立場をもって働くとなると、利害得失もあり対立して当然である。

 昨日紹介した、日本神話の山幸彦、海幸彦も、釣り道具を兄に借りるために、3度お願いしたが許されなかったとある。4度目だろうか、ゆるされたのは。クリンギット族の神話もワタリガラスがワシに承諾を得るまで3度頼んだようだ。三国志の三顧の礼も有名である。

 神話の世界でもそうだから、人は簡単に同意してはくれないと考えるべきだろう。重要な問題であればあるほどだ。

 和解を望んだり、カウンセリングで支援したりするとき、重要なことに他者受容ということがある。同意では決してないが。相手のありのままを受け入れるということである。これから4回、他者受容について考えていきたい。

<他者受容1/4>

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生き甲斐への道!

2008-04-25 | 第五章「和解と平和」

 昨年バザーで買ってきたというか、貰った特大のガラス食器。邪魔になるので早く処分してほしいという家族の声で、どうしようか使い道を考えたが、なかなかない。

 片手で、その皿を天井のライトに突き上げた写真がこれである。

 ガラスの中の小さな気泡が、星のように光って美しい。学生時代に読んだ、アクショーノフの「星の切符」を思い出したりした。さらに、サンテグジュペリのことを思い出し、手元にあった、「人間の土地」を読み始めた。

 読みはじめて、最初のところに、次の言葉があった。「努めなければならないのは、自分を完成することだ、試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。」(新潮文庫、サンテグジュペリ著、堀口大学訳 8ページ)

 今地球には66億人の人間が住んでいると言われる。私もその中の一人。狭いエゴの世界に縛られることなく、自分の中の尊厳というか核心というか、を大切にし、変なしがらみに埋没することなく、自由に生きてゆきたい。

 そんなふうなことを熱く想った。

 自己主張。単なるエゴのレベルもあるが、魂をはじめとする深い尊厳といったレベルもある。66億人の中の一人として、叫ばなければならないことがあるに違いない。

<自己主張4/4>

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