イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

親友ができない悩み・・・(こころの柔軟体操 6/10)

2015-11-30 | 第三章「無意識の世界」

 最近つくづく思うのだが、私は人間関係に恵まれ、幸せ者だなと思う。

 人生いろいろなことがあったが、考えてみると、厳しい状況下で何とか生き抜くことができたのも、友人とか周りの人たちのお陰だと思っている。

 さて、世の中にはなかなか心をゆるせる友達ができない・・など苦しんでいる人がいる。人それぞれいろいろな原因があると思うが、私も若いとき、ややその傾向があったが、知性化という防衛機制が原因で人間関係がここ一つということがあるようだ。

 理論的でなかなかいいと思うこともあるが、逆に回りの人にとってはどこか受け入れにくくなってしまうのだ。

 U先生のテキスト「生き甲斐の心理学」には信頼関係を築く条件が書かれている。

 1.本音で交際できる人物

 2.秘密を守る人物

 3.好き嫌いを明確に言える人物

 4.誠実に自分の思考、感情、行動が出来る人物

確かにそうだなと思う。逆に考えると、知性化によって失いそうなものがよくわかる。

こころの柔軟体操 6/10

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受け入れられない人と和解するには・・・(こころの柔軟体操 5/10)

2015-11-29 | 第十章「今ここでの恩寵」

 今の世の中、飢えたりすることはないものの、やはり邪悪なことはなくならず、それどころか増えているようにさえ思えてならない。そんな世の中で、生き抜いている人を見ると、何か熱いものがこみ上げる。

 さて、そんな厳しい世の中で、どのような人間観をもっていきるべきか。私たちの世代は、性善説とか性悪説を学校教育で学んだりしたものの、成人してからは人間観については理論的に学ぶことはほとんどないように思う。

 宗教・哲学はさまざまな人間観を提供しているが、忙しく働いている人の反応はどうだろうか?役に立たないと考えるひとは多いように思う。

 自分の経験にてらすと、人は自分の限界を越えた苦悩に向き合うようになるとき、人間観を必要にすることが多くなる。私もそうしたときに哲学書や宗教の本を読み漁った経験がある。人間観を深める時なのだろう。

 さて、心理学を学ぶものは宗教や哲学の専門家ではないものの、しっかりとした人間観を学び身に着けていたほうが何倍もよいように思う。他人をケアする立場にある人にとってだけでなく、自分の人生を大事にしたいと考える人にとってもだ。

 たとえば、憎きAさんがいるとしよう。ふつうなら、憎い相手とは交際しなければよいという知恵を働かすものだが、世の中のしがらみで、どうしても付き合わざるを得ない場合はどうか。まあ、一つの試練の場なのであろう。Aさんを100%邪悪な人と感じることがあるかもしれない。そうしたときどうするか?Aさんは優しい側面もあるが、とんでもない行動をしたりもする。そんなAさんの本質の本質をどうとらえるか。

 和解とか平和、ゆるし・・・それがAさんとの関係でおとづれたらどんなに良いかと願うときもある。しかし、自分がAさんとの関係悪化の一部であったばあい問題は混迷の度を深め、覆水ぼんに返らずという言葉が真理のようにみえたりもする。

 こんな時に、生き甲斐の心理学は比較文化、比較宗教学の知識をもとに次のような人間観を提供する(もともと心理学は欧米で発展したので、キリスト教の影響は大きいが)。

 A=B(X+Y)

   X=Aさんのもつ生育史・・・心理学の対象

   Y=Aさんの物理的な身体・・・医学の対象

   B=Aさんの魂とか霊魂・・・宗教の対象

     なお、キリスト教社会では、人の身体は神の神殿と考える伝統がある。Bは聖霊ではないが、尊い何かと考えても問題ではないのだろう。

     仏教でも仏性を考えたりする。生き甲斐の心理学では暮らしの中の生き甲斐の心理学を思索していることもあり、愛そのものと仮定する。そして、世界の趨勢は、Bをもとに人権思想を構築していると私は思っている。

Aさん(それが自分であってもよい)が邪悪そのもので、憎むべき対象を感じているときでも、Aさんすら信じていないかもしれないBを思い浮かべてみる。その時、和解や平和、ゆるしの可能性が芽生えるのだと思う。

そして、この式を考える時に合わせて覚ぼえていただきたいのは、感情はニュートラルであるということ。邪悪な感情(殺意、憎しみ)をもつ自分を責めてもしかたがない。その感情をどのように解釈するかが大事だ。

こころの柔軟体操 5/10

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汚れを清めてすっきりする!(こころの柔軟体操 4/10)

2015-11-26 | 第二章「五感と体感」

 私もそうであるが、日本では特に風呂が好まれ、清潔が好まれ、禊や灌頂や洗礼が好まれるようだ。

 穢れを清める・・・これは、私もそうだがほとんどの人は初めて自分で頭を洗ったときの記憶を結構忘れずに持ち、単に清潔の原型というより、もっと深い意味で穢れを清めるというイメージを持っていることが多いようだ。

 そして、私も縄文に興味を持っているので、縄文遺跡に温泉遺構があったりするのか、いろいろ調べたが、どうもはっきりしない。温泉の記憶は万葉集や記紀を待たずを得ず、日本最古の温泉と言われるものの代表は、道後温泉、白浜温泉、有馬温泉、湯の峰温泉といったところのようだ。しかし、日本はいたるところに温泉があり、洞窟などもあり、川もあり・・・そんなことなので、穢れをとるという習俗・原型はやはり縄文時代以前に辿れるように思えてならない(なお、湯につかる風呂以前は風呂の名のとおり蒸し風呂系だったようだ)。

 しかし、このあたりの研究は私の知る限りほとんどなく寂しい限りだ・・・

 さて、穢れを考えると、身体の穢れ、心の穢れ、魂の穢れを分けて考えてしまう。そして、深刻に穢れについて悩みに接するといろいろ考えてしまう。中原中也の「汚れちまった悲しみに」といった深刻な歌があるが、これは身体の穢れではなく誰でも深刻な心や魂の問題のように考えると思う。悩んでいるとしたらどうしたらよいか?

 もし、自分が汚れてしまったと思い悩んでいるならば、神社仏閣で禊やお祓いをしてもらったり、教会に行ったらどうだろうか。その地はだいたい聖地であることが多く、訪れるだけで何かが変わる経験をする。いろいろあると思うが、古からの知恵はバカにできない(なお、私はカトリックなので教会に行くが)。写真は琵琶湖の唐崎神社周辺。古来からの有名な禊の地であり、更科日記などにも出てくる。

 私も過去に2回唐崎神社を訪れたが素晴らしいところで、来年も春に行きたいと思っている。

こころの柔軟体操 4/10

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失敗しない技術!(こころの柔軟体操 3/10)

2015-11-25 | 第三章「無意識の世界」

 職人わざということが、年をとってから気になるようになった。いろいろなプロフェッショナルな方もいれば、日本の伝統工芸などもあるが、身近に興味をもって接する人もいる。私は50歳台でタクシーの運転手もできる第二種免許を取得したこともあり、バスの運転手さんの運転に興味があり、機会があれば、後ろの席から拝見させていただくことが多い。

 バスの運転手さんの大型二種免許は一般には知られていないが、かなりの難関であり、また頻繁にバスの運行があるのに事故等の話は殆どし聞かないほど、事故率は少ない。女性の運転手、かなり高齢の運転手さん・・・いろいろいらっしゃるが、指さし呼称、声だし確認を実践されている方等、プロならではと思う技術を垣間見させていただく。

 普通、どのように歩くかを意識して歩く健常者の方は少ないと思う。右を出して左を・・・動作が無意識におこなわれるほど歩くことは、自分の一部になっているからだろう。しかし、自動車の運転とか安全確認は、しょっちゅうやっているとはいえ完全に自分の一部にはなりにくい。絶対誤らないために、動作を意識化し、無意識での動作ミスを激減させる。

 縄文時代の職人わざ、ヒスイへの穿孔技術、漆ぬり、貝加工、丸木舟づくり・・・多くの技術は不明だが一端の技術は発見されている。そして、バスの運転手さんではないが指さし確認にちかい技術を培っていたのかなと思うとなんとも言えない気持ちになる。先日行った北陸の寺地遺跡他のヒスイ制作の失敗作を観たときに感じたりした。

 写真は縄文中期のヒスイ加工工房。

こころの柔軟体操 3/10

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縄文10,000年の村社会の影響・・・。(こころの柔軟体操 2/10 )

2015-11-24 | 第三章「無意識の世界」

 家の近くには愛宕神社がある。そして、そのそばの沖の谷戸公園には多摩ニュータウン446遺跡が発掘された。この遺跡は縄文中期の遺跡で6家族60人くらいの村が、90mX50mくらいの楕円の広場を中心に形成され50年くらい続いたとされている(縄文の生活誌 岡村道雄著 講談社)。

 縄文の祖先の生活は、先日も貝塚のお話しをお聴きしたが、多種多様な動植物・自然と共存し(動物でも数十種類、植物は数百種類・・を食したともいわれる。貝塚から当時の祖先が食べた動物の骨などからわかる)、村という共同体で暮らす(もちろん、他の地域との交流は大いにある)。それが、10,000年以上続いたのが縄文文化である。

 以前、あるところで日本人はよそものに情報を提供しないという話があったが、それも大自然の中の村文化、心理学の用語だと同一化の影響がすごいのだと思う。基底の文化にはこの縄文文化、村文化があるのだろう。そしてこの文化には良い面と悪い面がある。

 かつては甘えの構造とかで話題になったが、戦後の経済成長はこの甘えの構造がうまく機能したと言えよう。また、例えば最澄が草木国土悉皆成仏の思想を大事にするなど、日本文化の霊性は縄文文化の影響も大きいと思う。一方、現代においてはマイナス面も確かにあると思う。

 自分の場合、この同一化はどのようだったか?6歳の時の友達の交通事故死の体験は罪悪感の原型でもあるが、それは私を含めた3人の友達(同一化)の問題でもあったと思う。同一化はこころの平安をもたらすものの、陰の部分をもち、いじめの温床になると思う。

 青春時代は、学園闘争で大混乱であったが、この中でも大きな問題もなく生き抜けたのは、友達や家族などとの同一化の影響は多大だ。同一化を悪くは言えない私だ。

 今、そろそろ論文と飛鳥時代のことを考えているが、この時代の様々な人間ドラマも同一化を意識してみるといろいろ観えてくる。

こころの柔軟体操 2/10

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