イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

ちょっとしたトラブルから心の平静を取り戻す!

2009-07-30 | 第九章「愛」

  心静かに常に平安で暖かい感情の中で暮らせればと思うが、なかなかそうはいかない。時には晴天の霹靂のようなトラブルが起こる。

 利害関係で、話がこじれることもある。うまくコミュニケーションしていれば、問題もなかったのに、一言がなかったり、逆に変な一言で感情が傷つく。運命のいたずらのようなこともある。

 感情は、自分の理想(意識、無意識)と現実の差から生じる。生きがいの心理学で、徹底的に学ぶのだが。そのことを知っているだけでも、結構便利である。

 普段は、自分の湧いている感情(理屈ではなく生の感情、体感)に気付かなかったり、抑えたりする日本の美風もあるが、気をつけて自分の感情を味わうのはとても大切なことだ。

 例えば恨みの感情が湧いてきたなら、それを因数分解よろしく、自分の理想や現実把握(これも、主観的把握)のロジックを確認してみる。冷静に確認することで、意外な真実が見えてくることもある。

 理想を変える。現実把握の仕方を変える。そんな思考実験の余裕があり、はっと気が付き腑に落ちれば、不思議に感情は変わるものだ。その際の自問自答の作業は大切だ。

 生の感情を吟味しながら、自分の思考・行動を変えるということは、もっとも有効な心の健康の保ちかただろうと思うが、他にもいくつかあるようだ。

 トラブルで滅入ってしまう自分を、鼓舞し元気にさせる心の仕組みの理解も重要。ちょっとしたトラブルの後、事件と全く異なる領域での生き抜き(防衛機制)思考・行動が自然にでてくることもある。

 例えば現在、宗教や歴史に関する本を愛読していると、日本人の宗教観を決定的に変えた、織田信長(戦国時代に数千人の僧侶を殺害した)に対して、ふつふつと怒りを感じている。

 織田信長さんには申し訳ないが・・・、これもトラブルにより湧いてきた怒りの感情のマグマが、無意識に別なところで噴出しているのかもしれない(感情転移であろうか)。それが、他人に迷惑をかけたり、自分を変に責めない限りは良いかもしれない。

 自分のこうした、こころの仕組み(防衛機制)から来る、思考や行動を大切に見守る(なるべく自己否定、他者否定にならないようにするのが肝要などだろうか)。

 さらに、自分の発言や行動などを、ウォッチングしていると、現実的な判断力の低下や、自分アイデンティティに病的なゆらめきが見えてきたりする。

 そんな中、うまく心の舵をとって、自己肯定・他者肯定の方向に向かっていくのが、難題を解決していく手順なのかもしれない(うまく行かなかった経験も沢山あるが)。

 いろいろなことを言いすぎたが、最後は自分や相手の中にある、愛そのものの魂の存在を信じることが重要なようだ。柱がないと、私は錯乱していくようだ。

 因みに、性善説のような魂観は古来から日本にもあるようだ。どんな悪人であっても、亡くなり時がたてば、浄化され生命そのものに戻っていくような。事故現場で、どのような人だったか知らなくても、手を合わせる日本人。

 中国の史記にでてくるような、恨みの余り、既に亡くなった方の死体に鞭をうつ人は、日本では見かけない。世界には、さまざまな文化があり、それぞれ大切にする必要があると思うが。

<人間関係 4/8>

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虹でさようなら!

2009-07-28 | 第九章「愛」

 昨日は、家にお産で長期滞在していた娘がその娘(孫)と一緒に自宅に戻った。

 親の立場ではなく、祖父の立場から孫を見つづけると、とても神秘的な気分になる。古代日本では子供に不思議な霊力を認め、鬼退治は子供で。という古代日本の常識が何となく頷ける。ちょっと前には母体の中の一つの生命が、誕生し、あっという間に心身ともに成長していく。こんな姿に驚きを隠せないのは、私だけでなく、遠い祖父母たちも同じであっただろう。

 さて、娘たちと別れる前、雨が降った後に、突然現れた虹(写真)。別れ際の虹に、妻と一緒に不思議な気持ちになった。ひょっとしたら、孫が虹を呼び寄せたのかも・・・それでとても幸せな気分になった。

  この年になって、あらためて赤子や子供の成長や神秘を経験した私であるが、人は年を経るごとに、恥や罪の意識をもつようになり、自分や他人に対して、複雑な感情を持つようになることに、逆に考えさせられた。

 大人はやはり子供と違うのだ。

 次回から、日常のギスギスする対人関係について自分を分析しつつ考えていきたい。

<人間関係 3/8>

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モモの霊力!

2009-07-27 | 第九章「愛」

 夏は、おいしい葡萄、スイカ、そしてモモの季節でもある。今年も既にスイカ、モモはおいしく頂いた。葡萄は夏休みに田舎で頂くことができる。

 さて、こうした美味しい果物は、遠い祖父母の時代にもあったようである。日本神話にも出てくる。

 黄泉の国でイザナキが黄泉の国の住人から逃げ出す時に、山葡萄になる髪飾り、櫛の歯からの筍(たけのこ)、十握の剣で黄泉の国の住人と戦う。そして、最終兵器としてモモを3個なげて完全に追い払う。

 古来よりモモには、神聖な霊力があると信じられていたようだ。

 そういえば、吉備の国は桃が有名である。桃太郎伝説でも、モモを神聖なものとして扱っているように見える。

 モモを眺めてみる。ちょっとエロチックでもある。そして、そうした特徴が、モモを神聖なものにしているのかもしれないと考えた。

 セクシャリティというと、俗的なものとイメージしがちであるが、決してそうではない。旧約聖書の雅歌では、男女の愛が神への愛に繋がる隠喩として描かれている。詳しくは聖書を読まれるか、あるいは「人の身体は神の神殿」(植村高雄著 アマゾン等で販売中)が参考になる。

 そして、日本神話の中にもオオクニヌシの物語の中の、ヌナカワヒメの美しい詩が2つある。そのうちの一つが次である。雅歌に似ていると感じるのは私だけだろうか?

八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば 我が心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 我鳥にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は な死せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も 是をば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱の 白き腕 沫雪の 若やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さし枕き 股長に 寝は寝さむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば

 モモの話から、ちょっとそれてしまった。さて、先のイザナキの黄泉の国でモモを投げて戦ったあと、イザナキは既に黄泉の国の住人となったイザナミと言葉を交わす。ちょっと淋しい別れの結末なのであるが、お互いに「愛しい人よ」と、言葉を投げかけているので救われる。これはモモの霊力のお陰かもしれない。

 そんな、ことを妄想しつつ、今日はモモでも食べてのんびりしたい。

<人間関係 2/8>

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旧交をあたためる!

2009-07-25 | 第九章「愛」

 50台後半になると、学校時代の仲間や勤めていた会社のOB会などに誘われる機会が多くなってくるようだ。楽しく歓談し、旧交をあたためて別れる。

 趣味の集いや、何か同志の集いも楽しいが、何かの縁であるときある場所で知り合った人たちの集まりも別の意味で楽しい。

 数十年ぶりに再会した方が、外見は変わっても、話しているうちに、変わっていない何かに安心し、意気投合したりする。

 さて、そんな様々な同窓会に抵抗なく参加できるときと、そうでない時。そんな違いに気づいたことはありませんか?

 過去のある時期、ある場所での人との出会いと、そのころの自己イメージ(価値観等)。そして、全く違った環境での現在の自己イメージ(価値観等)。それが、同窓会という場でどう統合されるかという問題かもしれない。

 人は、時間とともに身体も変わり、人生の経験からなる心の世界も変わってくる。唯一変わらないのは、良く分からないが魂(愛そのものと考えたい)だけかもしれない。

 理屈から考えると、同窓会という場で、過去の自己イメージと現在の自己イメージを統合し、再会の喜びの中、平安になるのがより健全だと思う。

 ただ、自分にもいろいろな時期があり、抵抗を感じたり、あるいは参加するのを躊躇うことも、長い人生の中では大いに意味のあることだとも思う。

 しかし、同窓会に行かなかったりするうちに、いつのまにか再会するチャンスを逃してしまうことが辛い。

 同窓会で知った、亡くなった旧知、旧友、旧師。もうこの世での再会はできないかもしれないが、天国で楽しく語り合うことを信じよう。

<人間関係 1/8>

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日食が肉眼で見られた!

2009-07-23 | 第九章「愛」

 昨日の昼前、たまたま南武線の某駅前を通りがかったところ、沢山の人が空を見上げていた。見上げると、雲を通して日食がはっきり見えた。まるで三日月のようであった。

 小学生のころは、板ガラスの破片をロウソクでいぶらせて、それで日食を見た記憶があるが、こんな風に肉眼で日食を観察できるのかと、驚いてしまった。

 日食は不思議な現象である。古代の科学技術の知識を殆ど持ち合わせていなかった、祖父母たちには神秘的な現象と映ったに違いない。日本神話の天の岩屋戸の話なども、そんな不思議な体験がベースにあるに違いない。

 世の中には比較神話学という学問があることを最近知ったが、日本神話と中国神話や東南アジアの神話が似ているのは理解できても、ギリシャ神話などかなり離れた地域の神話との繋がりは理解しにくい。

 遠方からの移民の受け入れという考え方もあるが、最近のDNA研究等でほぼ世界の定説となってきた、現世人類の共通祖先がアフリカから出発したという説から考えると、全ての神話は例えば5万年前の原神話をベースにしていると考えられないこともない。

 私の愛読している、「5万年前」(ニコラス・ウェイド著)では、アフリカを出発する、祖先達の人数や言語、宗教など興味深い仮説が書かれており、驚いてしまう。そんなことで、こうした妄想を抱いてしまった。

 さて、日食は太陽を月の影で欠けたように見させる現象である。古代の祖父母たちは生活の恵の大本である太陽が消えてしまうという不安に襲われたに違いないが、太陽は決して無くならず、日食のときも普通に光り続けていたことを忘れてはならない。

 日々の暮らしの中で、身体や成育史からなる心は刻々と変化していく。感情の世界もどんどん変わっていく。しかし、太陽のように例えば神の愛は変わらず慈しみを与えてくれているのかもしれない。

 この章では、愛を中心にしながら、こころの不思議さについて考えていきたい。

<総論 1/1>

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