イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

過去の暗い想いを明るく観る!

2008-08-31 | 第九章「愛」

 この夏、四国の鳴門に位置する、大塚国際美術館に行った。世界の超一流の芸術品が壁画も含め、すべて繊細なコピーとはいえ見ることができるのは幸せであった。その中で、ジョン・エヴァレット・ミレーのシェークスピアのハムレットに登場するオフィーリアのは印象的であった。オフィーリアはハムレットが父を殺したことを知り自殺してしまうが、川を流れていく妙に美しい様子が描かれている。

 最近、今まであまり思い出すこともなかった一人の女性のことを思い出す。幼馴染のAさんのことである。幼馴染みで3-5歳のころはよく遊んだが、それ以降はほとんど接点がなかった。ただ、20歳代のある日、既に私が関西で仕事をしているころであろうか。Aさんが自殺で亡くなった。そのことは、後に知った。

 Aさんとオフィーリアの絵。無意識の世界を介して、何かを私に伝えようとしているのかもしれない。こころの防衛機制に投影というものがある。ある問題が別の気になることとして出てくることだとも思う。アニマと関係しているかもしれない。

 こんなことを、この2-3日時折想っていた。ただ、普通?に暗い気分で思っていても仕方がない問題のようだ。

 こんな時にちょっと不思議な観点で問題を見ることを最近覚えた。

 今の時点で思考するのではなく、問題が解決された(統合された)3年先の視点、あるいはメメントモリで死の瞬間、場合によれば死後の世界(天国?)からこの問題を観る。

 既に、解決された問題(統合された)。何が解決された(統合された)かは今は良く分からないが、2008年にAさんのこととオフィーリアの絵が気になったという事実。それら先に、何かが起こり、最後にはこの問題が自分の中でめでたく解決・統合していくという風に観る。

 こういうちょっと変かもしれないが未来を先取りした考え方を、この2-3年やっているが意外に良いようである。

 問題に対し五感を豊に対応できることもあり、こころの健康にも良いようだ。

<幼馴染3/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

よかったら、ちょっと来ませんか?9月28日に植村高雄先生の「こころの健康と生きがいづくり」の講座が八王子市南大沢で開催されます。資料はこちら! 問い合わせは h.mori@npocull.org 

 

 


つまらない話とおもしろい話の差は?

2008-08-30 | 第九章「愛」

 先日のお盆休みに、山陽新幹線の福山で時間が余ったので、福山城に行ってみた。城の中は博物館となっていた。3月には小田原城にいったが、同じように刀剣、甲冑の展示もあったが、最上階には縄文、弥生の土器があった。お城に縄文土器。福山の歴史は縄文時代からか!と妙に新鮮であった記憶がある。

 つまらない話、おもしろい話、最近生き甲斐の心理学の講師として話をすることがあり、とても気になるところである。先日も勉強会であるテーマを話したが、5分で半分くらいの人が眠そうになっていた。想定できる内容を聴くのは疲れ眠くなる。自分でもそうである。反対に準備をたいしてしなくても、自分でも感動するような流れになることもある。

 想定できない何かが含まれるジャズのような講義のほうが、おもしろいし身に付くようだ。

 高校1年のとき、O先生が数学の授業を担当されていたが、この時は一学期の大半を誰もが想定していなかった雑談に終始された。まったく教科書の内容を授業されなかったが、青春と数学の楽しさを学び私は数学が好きになった。想定されない、予想されない話。そこには、師の権威が漂い、自分との出会いがあるようだ。

 源氏物語が面白いのも、何か想定できない要素が、いろいろ含まれ、読者を飽きさせないのだろう。末摘花のような想定外の女性がでてきたり・・・夕霧の幼馴染の雲居の雁との出会い、6位で馬鹿にされること、そして、幼馴染どおしで目出度く結婚。しかし、想定外の浮気と実質離婚。

 幼馴染という関係は、思考停止で心温まるもののように思っていたが。自分の幼馴染みのことを客観的に深く考えると、決してそうではなく、いろいろな要素が働いているようである。そして、その中での人格形成。文化の問題や男性性、女性性の問題などとても興味深い。

 ブログがおもしろかったり、つまらなかったり。これも、何か同じようなことが言えるのかもしれない。

<幼馴染2/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

よかったら、ちょっと来ませんか?9月28日に植村高雄先生の「こころの健康と生きがいづくり」の講座が八王子市南大沢で開催されます。資料はこちら! 問い合わせは h.mori@npocull.org 

ここでキャベツは想定外でしょうか?


キキョウを愛で、幼馴染を想う!

2008-08-29 | 第九章「愛」

 家のベランダでは、桔梗(キキョウ)の花が夏から今まで咲き続けているが、外出すると撫子や萩、葛といった、秋の七草も目につく。

 秋の七草は何か?萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花(万葉集・巻八 1538) とある。知らない花で藤袴があった。藤袴は、源氏物語にも出てくるが絶滅危惧種に指定され、京都では保存運動もあるという。

 1000年も経つと、身近な環境も結構変わるのであろう。

 そういえば、昔人から聴いたことに、花と言えば桜木という今の常識は、江戸時代ごろからのことで、その前は梅だった。ということを思い出した。源氏物語を概観しても、例えば、藤壺、梅壺はあっても桜壺はない。桜もでてくるが、梅のがメジャーな感じである。すぐに散るので、当時の人には、寂しいイメージだったのかもしれない。

 さて、源氏物語を読んでいると、様々な登場人物とその生きざまが美しく描かれているとしみじみ想う。あさきゆめみしを、次女もあっというまに読了した。昔は漫画は無かったかもしれないが、今の私たちが、あさきゆめみしを読むように夢中でよんだのであろう。

 その中で、光源氏の息子の夕霧と幼馴染で、のちに結婚する雲居の雁の話が、今の私にとって気になった。

 幼馴染というと、学校や仕事といった縁より、近くにたまたま住んでいた同年代。と考えるべきかもしれない。幼馴染の中には、若くして世を去った方が二人いる。ちょっと淋しげな桔梗。

 これから、4回幼馴染について考えていきたい。

<幼馴染1/4>

人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

よかったら、ちょっと来ませんか?9月28日に植村高雄先生の「こころの健康と生きがいづくり」の講座が八王子市南大沢で開催されます。資料はこちら! 問い合わせは h.mori@npocull.org 


列島4万年の歴史と愛の原型!

2008-08-28 | 第九章「愛」

 自分の愛の原型は何だろうかと、時々考えを巡らす。父や母との名場面。祖父母との名場面。幼友達・・・

 不思議に、その時々の心配事や関心に影響されて、思い出す場面が変わることがある。最近は、毎日源氏物語を読んでいたり、娘の子犬コナツが行方不明となったことが影響したのか、今までと違った場面を不思議に思いだす。

 幼い頃、身体も弱く良く病気になった。そんな中で、4-5歳のころであろうか、気管支炎で2-3週間床に臥せていた時があった。母も出かけることがあり、一人で寝ていると、幻聴のようなものがあり、耳元で読経の声が延々と続いた。熱も下がらなかったのか、母は心配し、お医者様からの薬とは別に、人から聴いて、何か(怪しげなもの)を煎じて私に飲ませてくれた。

 飲んだ後、蚯蚓(ミミズ)と知ったが、どういうわけか病気がよくなったようだ。そんなものが効くのか、まったく不明であるが、母の愛はその時の苦い味とともに、私の記憶に刻まれている。

 源氏物語にも、生霊とか、加持祈祷などの描写がでてくるが、こうした文化は仏教以前、恐らく縄文時代からの伝統かもしれない。日本人の繊細な愛の裏側に、不思議な怨霊の文化があるようだ。

 病気になったり、物事がうまく行かず、気弱になった時、自己否定的な冷たい感情がないような状態になることがある。こんな時、ミミズのことをちょっと思い出すと、暖かい何かが動き出すようである。

<愛の原型4/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

よかったら、ちょっと来ませんか?9月28日に植村高雄先生の「こころの健康と生きがいづくり」の講座が八王子市南大沢で開催されます。資料はこちら! 問い合わせは h.mori@npocull.org 


愛の原型と光源氏

2008-08-27 | 第九章「愛」

 孤独感、ちょっとしたときに感じる孤独感が異常に深まり心因的病理にならないためには、愛の原型が重要といわれている。それは、一人ひとりが成育していく中で、日常の中で愛し愛された一つ一つの場面であり、その経験ゆえに、人の親切を感じたりする個人的なノウハウとなるという。(生き甲斐の心理学 植村高雄著を参考)

 自分の愛の原型。愛の名場面で今の生活に、大きな影響を与えているものを考えると自分に対する傾向と対策ができるようだ。また妻と一緒に暮らしているが、妻の愛の原型を考察すると、妻への傾向と対策もできる?ようである。

 さて、このところ毎日、源氏物語を考察している。光源氏の愛の原型を考察するには、幼年期の桐壷が良いと思い、与謝野晶子訳、瀬戸内寂聴訳、あさきゆめみし(大和和紀著)を読んだ。

 光源氏が3歳のころに、実母桐壷の更衣が亡くなる。光源氏はその死が、まだ幼く実感をもって受け止められなかったようである。その後祖母と暮らしたりするが、その祖母が6歳の時に亡くなる。12歳の元服のころには、5-6歳上で父から亡き実母そっくりといわれた藤壺の宮(実母の妻にそのころなった方である)と楽しい時を過ごしたようだ。

 宮廷生活で精神的ないじめ、毒を盛られたり、僧による呪いの祈祷をされたりで命を縮めた桐壷の更衣。それを嘆く祖母や実父(帝)。恐らく、祖母や実父からは豊な愛の経験を得られなかったのだろう。

 藤壺の宮へ綺麗な花を差し上げたりする愛の場面。殆ど覚えていないはずの母とそっくりだからと父に言われ、素直に信じる光源氏。その藤壺の宮と後に通じてしまい、波乱の人生が始まる。後に光源氏の晩年には、正妻の女三ノ宮と柏木が通じてしまい、その報いを受けることになるが、なんとも言えない。

 自分の場合を考えてみると、愛の原型、名場面が自己肯定的、他者肯定的に解釈できる場合は健全なようだが、どこか自己否定的な解釈があったりすると良くないのではと思うことがある。光源氏が最後には出家し清明に満たされた世界に入るようであるが、この時の愛の原型の解釈はどう変わったのか興味深い。

 愛の原型の問題は、こころ(成育史からなる)だけではなく、身体もあり、そして魂の世界とも繋がる。

 今日は、コナツの捜索活動の予定であるが、空いた時間は源氏物語を読んでいたい。

<愛の原型3/4>

 人気blogランキングへ <- 1クリック是非とも応援お願いします! 

よかったら、ちょっと来られませんか?9月28日に植村高雄先生の「こころの健康と生きがいづくり」の講座が八王子市南大沢で開催されます。資料はこちら! 問い合わせは h.mori@npocull.org