イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

受験勉強

2006-04-21 | 2006年度(1/13まで)
 受験勉強を人生で何回か経験した。中学校、高校、入社・・・。今もこの前お話したが、普通2種免許にチャレンジしようとしている。学科の試験準備のために、好きな本も読めなくなる、大切な時間もいくつもつぶさなければならなくなる。しかし、今勉強しなければならないことは百も承知。そんなとき、ますます本が読みたくなる。好きなことをしたい。そんな葛藤のなかでいらいらしてくることもある。
 受験勉強は新しい人生への産みの苦しみのときとも言える。まあ、そんな大それたものではないかもしれないが、同じような構造を持っているといえよう。
 つまらない自分を拡大するのではなく、自分に内在している何かのために試練を耐えたい。

鼻が高くなるとき

2006-04-20 | 2006年度(1/13まで)
 ものごとが、とんとん拍子でうまくいき、自分の実力以上に他人から評価されたり実績があがると、鼻が高くなってくるものである。また、どこかに劣等感が抑圧されてあり、反対に変なプライドが頭をもたげてくることもある。

 尊大な気分、他人が馬鹿に見えてきたらこの「鼻が高くなるとき」かもしれない。しかし、自分の「鼻が高く」なってきても他人は、意外にあっさりとしており、潜在的な孤独感は増すばかり。だんだん裸の王様になってくる。

 先日、公園でチューリップが美しかった。
 チューリップ喜びだけをもってゐる
   (細見 綾子・・現代俳句歳時記 角川春樹編より)
チューリップの花は、人間と違って花?が高くても喜びに溢れている。舌をかんで死にたくなるほど、後で考えれば恥ずかしくなることを沢山経験したが(高校のあのころ、大学X年の時、会社に入ってY年目の時、Z年の時、あの時、この時・・・)。

 この種の状態になったときはリラックスをして、他人の好意に注意をし、感謝のこころを大切にするとよいかもしれない。

犬猿の仲

2006-04-18 | 2006年度(1/13まで)
 犬と猿が本当に仲が悪いかは知らないが、不仲で感情的になる関係を犬猿の仲という。55年の人生を振り返ると、いろいろ思い当たることがある。
 まず、不思議なことに相手を嫌いになると、相手も私のことをより嫌いになるように思えること。また、一時は好ましく思っていた相手ほど嫌いになると、より深く亀裂を生じ、憎しみあうこともあること。そして、嫌いという感情も湧かない、一見平穏なときこそ、人生の危機の時であったということ。
 どうしても嫌いだ!という感情は強烈である。嫌いだという感情を制御できない自分を感じ、さらに嫌悪の感情は高まる。悪循環である。
 意外と悪循環から脱却する方法は、自分は相手を嫌っていると客観的に認識すること。感情と思考・行動を別に考えられる余裕があれば、より良いことがあると思う。そして、最後は人間観という哲学の領域かもしれない。

真剣

2006-04-17 | 2006年度(1/13まで)
 現在普通二種免許を取得しようと教習所に通っている。そして、真剣に二種合格の難関を突破すべく、勉強している人たちがいる。
 真剣ということを考えた。
 若いころコンピュータのセールスを始めた頃、上司にこれから、顔見せにお客様のところに行ってきます言うと、えらく怒られた。お前はセールスなのだから、プロとしてセールスに行くのが当たり前で、単なる顔見せだけに行くというのは真剣さがたりないという趣旨であった。
 確かに真剣さが足りなかったのか、その後営業成績はまったく振るわなかった。しかし、上司もいろいろ相談にのってくれ、自分のセールスのやりかたについて真剣に相談にあがると、いろいろ教えてくれた。
 ある日先輩に同行して貰って、大手A電機に商談に行った。その時、お客様と熱心にお話するなかで、A電機さんというつもりで「B電機さんに・・・」と、全く気がつかないうちにA電機さんの競争相手の名前をいってしまった。A電機さんの担当の責任者の方はは不快なそぶりを全く見せず、私は全くミスに気がつかなかった。しかし、先輩は青くなったそうである。しかし意外にもその商談は成功して、私のミスは笑い話になっただけであった。それまで殆ど売れなかったが、それ以降は不思議にセールスが順調になった。ちなみに、A電機さんは今では世界的な企業として成長されている。

喪失

2006-04-14 | 2006年度(1/13まで)
 人生で悲劇の一つに、何かを信じて見えなくなり、大切な宝を喪失してしまうことがある。信じて見えなくなることとは抽象的だが、人間が特に神を信じなくても、組織を信じていたり、理念を信じていたりして、日常生活の中で空気のようになっている何かを信じている状態と考えると判りやすい。
 さらに、よくよく考えてみると、何かを信じるとは、以外と両親のしつけ(哲学的に深くなくても)であったりする。ごくごく日常的なことは、意外と別の視点、例えば異文化からすると、不思議なことであることもある。
 会社人間となって、家族をある時傷つけてしまう。ある思想に共鳴することによって、誰かを非難し傷つけてしまうなど。意に反して他人を傷つけてしまうことがよくあることだ。その場合問題になるのは、自分の本音、こころの奥底である。何かを信じることにより、こころの奥ではやりたくないことを、思わず機械的にやってしまう。本音はその誰かを大切にしたいのに、ある概念によって、別の行動をとってしまう。悲劇になることもある。
 こころの奥底の思いと、意識の乖離を教えてくれるのは、感情という不思議な人間に備わっているセンサーである。センサーを大切にし、嫌な感情でも、何故湧いたのかを考えることは、自分の本音、そして何をやるべきかを示唆してくれる。