イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

気持ちいい自己主張!(旅と真善美① 4/10)

2013-08-31 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 昨日は、四ツ谷で「生き甲斐の心理学勉強会 旅に出よう!」を開催しました。猛暑にもかかわらず参加された方々に感謝ですが、充実した時間を過ごし、終わってからお茶会。さらに、今日の勉強会に参加できなかった(しなかった)メンバーによる暑気払い。楽しい一日となりました。

 その中で、感じたことの一つに、気持ちのいい自己主張がありました。自己肯定・他者肯定の安定した信頼感の中で、自分の感情を述べ伝え、自分の本音をさらけだす。後から思い出しても・・・あぁ、イイなです。メンバーの中には初対面の方も含まれているのですが、もう何年もお付き合いをしているかのようです。

 こうした互の自己主張の中で、神秘的にも何かが生まれるようです。

 昨日は、現世人類の6万年の旅についても楽しく語らいました。アフリカのマンデブ海峡を東に越えた150人の祖先。初めはそんな小さな事業だったでしょうが、その拡散の道順は西部開拓史ではなく東部開拓史のようでした。日本には3-4万年前に到達し、アメリカ大陸にはアラスカに1万5千年前に到達し、南米の最先端には1万2千年前に到達する。さらに、太平洋の島々もオセアニアの方から、東に東に。1500年前には殆ど太平洋の島々に到達したようです。東は太陽や月が出てくる方角。何か神秘的ですらあります。

 よく、歴史の本などでは食べるために・・・と、その動機を解説していますが、私はそれだけでなく、真善美を追及するような動機も必ずあったのだと想像しています。

 そして、昨日の心地よい自己主張の場があり、その時々の無名の祖先たちによって、その時々の事業が成し遂げられてきたのでしょう。

 旅と真善美① 4/10

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祖先の役割遂行を考える、妄想する!(旅と真善美① 3/10)

2013-08-30 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 今日は、朝から妄想している。

 約6万年位前に、現世人類はアフリカを幼児を含め150人くらいの規模で、東アフリカから、バブ・エル・マンデブ海峡から紅海を渡りアラビア半島南西部に到着する(この学説は海外で起こり、かなり認められているようだ)。そして、それから世界中に現世人類は拡散し、現在の70億人の世界を築くのである。

 Googleで、マンデブ海峡あたりを調べると、当時はもっと海面が下で海を実際に渡るところは少なかったかもしれないが、何とも不思議な気がする。アフリカからアラビアなので、恐らく東、太陽の方向に向かって船出をしたに違いない。

 この祖先は、恐らく数千世代前の私たちの祖先なのであるが、10~20万年前に現世人類が誕生し、そのとき以来殆ど脳の構造は変わっていないとする学説もある。実際に五万年前という本では、衣服を着、一つの言語を話、宗教を信じていたと推定している。もちろん、この時代は狩猟採取民族だったのだろう。

 150人のグループが海峡を渡る。それは、恐らく前代未聞(他のネアンデルタール人などは先行したかもしれないが)であり、集団のアイデンティティを中心に各構成員が確かな現実吟味力がなければ達成できない事業だ。各自がきちっとした役割分担をしてはじめてできる。

 役割分担はアイデンティティと表裏である。おせっかいにならず、逃げたり怠けたりすることなく、淡々と無名の祖先たちが役割を分担成就したに違いない。

 さて、思い出すのが先日の奈良旅行。150名より小さな集団である我がNPOの事業であったが、何とも楽しい旅であった。役割分担も誰が何をやったかも判らないくらい、せいせいと進んだようだ。まあ、マンデブ海峡を渡った共通の祖先を持つのだから当たり前かもしれない。

旅と真善美① 3/10

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旅で感情を通して観光する!(旅と真善美① 2/10)

2013-08-29 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 明日は、四ツ谷で勉強会が開催される。サブテーマが「旅に出よう!」である。そんなこともあり、旅について思索している。そして、先日行ったNPOCULL主催の「奈良の旅」の事前資料をパラパラ眺めている。

 この資料はU先生が臨床心理学の知見、比較宗教学の知見を元に書かれた奈良の旅のちょっとしたガイドブックであり、とても勉強になる。このガイドブックは観光パンフレットのように、ここはこういう歴史があって云々。というだけでなく、そこで湧き起るだろう感情を大切にしている不思議な資料だ。しかし、よく考えれば、歴史的なスポットは何らかの真・善・美と繋がっているが、それを今味わうのは個々の感情であり、実は感情が主役なのである。そして、感情がストレス曲線から幸福曲線に変換されるなど、不思議な経験も起こる。

 この資料は、U先生の熱い想いが溢れているだけでなく、奈良の旅に至るまでの学友の数年に渡る歴史と心理学の勉強の努力が塗り込められているようだ。

 実際、奈良旅行のルートを決めるにあたっても、学友のかつての熱い旅の経験がとても活かされている。

 奈良の旅は、ロジャースの命題4にあるように、NPOの学友の渇望となり、ついに実現する。あの時の感動は忘れられない。

 天智天皇や藤原鎌足、天武天皇や持統天皇、鑑真、聖武天皇や光明皇后・・・彼らが想い悩み、そして生き抜いた土地で、千年以上の時間を経て味わう私たちの湧き起る感情。理性も大事だが感情は本当に大事。

 ちょっと蛇足だが、感情というのは、実に大切な働きがある。脳科学の大学者、アントニオ・R・ダマシオの本を私は愛読しているが、その中に物理的に脳を損傷し感情を喪失した方の話が出ている。脳の損傷にもかかわらず運良く知的な活動、理性は全く問題がなかった。しかし、感情を喪失したために、健全な社会生活が全く送れなくなってしまったという。

 臨床心理学でも、自分の感情が把握できなくなったとき(防衛機制などで)の問題が指摘されている、例えば人生に極めて大事な真善美も判断できなくなったりする悲劇である。

 今回の奈良の旅は、現地で湧き起る感情を体験することを目的にした不思議な旅でもあった。その中から、頭だけでは理解できない真・善・美が垣間見られたように思うのは私だけであろうか。

 旅と真善美① 2/10

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旅と真善美!(旅と真善美① 1/10)

2013-08-28 | 第六章「螺旋状に上昇する意味」

 処暑になり、何となく天候も安定し秋の気配が漂い始めている。そして、昨日もそうだったが、今日も早朝目覚めると、澄み切った空に誘われるように散歩に出かけ、富士山や野草、野鳥などを撮ったりしつつ至福の時間を過ごした。

 ちょっとした、ミニ(マイクロかも)旅行ができて何とも幸せ。

 さて、美しい自然に出会ったとき、感動するのは何だろうか?その理由は、いろいろ哲学者が語っていることであるが、U先生から教えていただいた神学というか魂論が私は好きだ。美しい自然が、自分の魂(肉体が滅んでも残る知的生命体。宗教の領域)に触れて小躍りした。そんな解釈である。

 信仰を持つと、真善美がよりわかるという理論があるようだ。私はカトリック信徒であるが、何となくそんな気がする。どの程度信仰を持っていたか、良く判らない大学生のころの私だったが、当時は数学が好きでよく勉強した。統計の理論、解析学、複素数・・・深く勉強していくと、ああ、なんて美しいとうっとりした経験もある。特に、卒論で統計理論をいろいろ研究したときは、うっとりしたものだ。

 私が、カトリックの信仰を固めたのは、40歳台の後半であったが、それは、あることがきっかけだった(理論を深く勉強したわけでない)。そして、それからは、信じてしまって見える世界が変わったのか、例えば音楽の好みがかなり変わった。好きなもの嫌いなものがかなりはっきり意識化できた。これは、倫理道徳といった理性の問題というより、感情の明確な変化だった。

 このあたりの、信じて見える世界、見えなくなる世界を研究する分野が心理学ではあり、日本では余り論じられていないが、世界的には一つの分野として確立されているようだ。

 旅を考える時、最近考えるのだが、真善美の問題を外せないのではないだろうか。日本人の旅で有名な芭蕉も西行も、困難をものともせず旅に出て、真善美を追及した。もっと大きな視点で考えても、現世人類がアフリカを離れ、世界にあまねく散ったのも、ただ食べるためだけでなく、何らかの信仰と真善美の世界があったのではないだろうか。ツンドラの世界の美しい花に誘われ、極寒の世界に到達したり、いろいろあったのではなかろうか。

 旅と真善美① 1/10

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旅は道連れ・・・に深く感動する!(ひびきあう旅④ 10/10)

2013-08-27 | 第五章「和解と平和」

 先日は、大病院で精密検査を受けに行った。家の近くの医院で紹介状を書いていただき出かけたが、待合室にいると地域の拠点の病院だけに、心配そうに家族同伴で来られるかたなど、いろいろな人間模様が拝察できる。さらに、病院の職員も気持ちよい応対をされていて、心があたたまる。

 普通に勉強したり仕事をしていたりするときは、あたりまえの有り難さに気づかないが、病気になったり自分ではどうしようもないような問題を背負うと、まるで別世界のように日常が非日常に変わる。そんな時に道連れがいることは、どんなに心強いか。

 さて、旅は道連れ世は情けということわざがある。今では旅の感覚も変わってきているが、昔は旅は人生の一大イベント。危険も大きく、それこそ日常が非日常に激変したのだろう。

 心細い不安の中で、道連れになってくれる人がいるのは心強い。そして、その道連れも同じように旅の不安を分かち合う。普段は、いろいろ衝突したかもしれない人も、いったん道連れになれば、共感しあったりで生き甲斐の心理学でいうロジャースの6条件(傾聴ででてくる)に近づく。そして、時には神秘的といって良いように心を開く経験をしたりする。

 旅は道連れ世は情け・・・この言葉は旅における不思議な人間関係の神秘を本来意味しているように思う。想えば、6-7万年前に今の現世人類も東アフリカから150人の集団で紅海を渡ってアフリカ大陸を出立する。そうした、道連れ人類も今は70億人と世界中に散らばっているわけであるが、昔のように旅は道連れの感覚をどれだけもっているだろうか。

 運良く、私は病院での精密検査の結果は異常なしであった。しかし、今回の大病院への旅を経て、生き甲斐の心理学の普及の意味を切実に感じてしまった。 

 ひびきあう旅④ 10/10

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