イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

師匠の十八番・・・(私は何か?①)

2010-02-28 | 第五章「和解と平和」

 一カ月前近く、図書館で三遊亭円楽(五代目)の特選落語集のDVDを借りた(今まで落語にに興味がなかったので、たまたま手にしたDVDであったが)。

 そのDVDを借りてはみたが、中々見る機会がなく、ちょっと前に15分位の「野ざらし」を見てそのままであり、もうひとつの落語は1時間近くのものであり、貸出期限も迫り図書館にそのまま返そうと思っていた。

 偶然、昨晩母とNHKテレビを見ていたら、「師匠の十八番(おはこ)と闘う~円楽とその弟子~」ということで、5代目円楽師匠の十八番、「浜野 矩随(はまののりゆき)」について楽太郎の奮闘ぶりが放映されていた。母の自決の部分の取り扱いを巡って楽太郎の新しい解釈なども紹介されていた(日本の自殺者の世界的高水準に配慮されたのだろうか)。

 放映が終わってから、借りていたDVDを確認すると、何と、もうひとつの話が、「浜野 矩随(はまののりゆき)」。早速、拝見させていただいた。

 寛政年間の腰元彫りで名人と言われた浜野 矩安の息子の浜野 矩随が、父を亡くしてからも、いっこうに上手くならない。その浜野 矩随が、先代の時代からずっと眼をかけてくれた恩人、若狭屋(骨董屋)にいい加減な作品を持っていき、ついに若狭屋の堪忍袋の緒が切れて、厳しく叱責され、死を決意し観音様を掘る。

 その時の、言わばカタストロフィーの時の人情話である。最後は、浜野 矩随が開眼し、先代を越える職人になるのだが・・・

 親子や子弟。子や子弟のこころの防衛機制(同一化など)による真実の自己が見えなくなること。そして、それが取り離れた時の不安と混乱。さらに、自らのアイデンティティを見つける過程が、素晴らしい仕事で描かれている。

 自決も美徳とした時代のオリジナルではあるが(今の時代と、ちょっとギャップがあるようであるが)、人には仏性が宿る思想、人の身体は神の神殿と考える思想に通じるものであり、とても考えさせられた。

 一昨年亡くなった、Aさんのことをふと思った。本当に艱難辛苦の人生を生きたAさん、晩年に人に言った一言が記録されているが、その言葉を思い出した。「真剣に生きろ」。

 悔いのない人生を歩むため、自分は何かを考え深め。自分のミッション(使命)をしばらく考えたい。

(感謝の領域<自分は何か?①>41/60)

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自分を受け入れる!(カタストロフィーにも負けず⑩)

2010-02-27 | 第五章「和解と平和」

 長年、人生を歩んでいると、良い面もあるが、嫌な自分に気付いてくることもある。それを忘れようとしても、やはり悔いのない人生を歩む上には、嫌な自分をいったん受け入れる必要があるようだ。こころの封印は良くないこともある。

 それには、どんな自分でも受け入れることができる教えが必要かもしれない。私の場合はカトリックであった。人間の原罪とか業とかを救う思想である。ある日、その思想が実感される(もっと深い実感もあるかもしれないが)。

 ちょっとキザかもしれないが、神の愛とか仏の慈悲といったものを時に考え深めていくことは、とても大切だと思う。一度教科書的に理解すればよいのではなく、日々実感レベルで深めていく。

 自分のブレない柱が、そうした中で強固になり、勿論右往左往するかもしれないが、人生のカタストロフィーの解釈を深め、あるいはこれからのカタストロフィーに耐えられる準備をしてくれるように思う。

(感謝の領域(カタストロフィーにも負けず⑩)40/60)

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哀れな策士にならないで!(カタストロフィーにも負けず⑨)

2010-02-26 | 第五章「和解と平和」

 この写真は、もう3週間前になる奈良・京都の旅行の時の早朝、車に乗った時の凍結したフロントガラスである。朝日が氷を通して見えるのが救いだ。

 その日は車を温めると、間もなく氷が解け、快適に出発することができた。

 昨日は春一番が吹き、春を実感したばかりだが、この凍結したフロントガラスで走り回った状況が、自分にもあった。

 「策士策に溺れる」ということわざがある。自分は、本質的に策士とは違うと思うが、ある時期、職務の関係もあるが、かなりこの哀れな策士になってしまった。

 叡智というものを、策士は本来追求すべきなのであろうが、仕事がら細かい仕組みの企画や立ち上げに汲々としていると、何か数学的な論理の世界に埋没していき、自分の感情や他人の感情が見えにくくなる現象(防衛機制の知性化)があるように思う。

 しかしながら、叡智には人間的な感情の世界、体感の世界がとても重要である。本来の最適な回答は、単なるロジックだけで見つけるものだけでなく、五感や体感も重要だ。

 そこがおろそかになってしまうと大失敗につながる。

 仕事の失敗もあるが、身近な人間関係などで、後で後悔する結果を招くこともある(自戒をこめて)。勿論世間的に成功する時もあるが、長い眼でみるとどうだろうか・・・。

 世の中、理屈以上に大切なことがあるものだ。ある意味で、理屈はあとからついてくるものかもしれない。策士の仕事(企画や計画、マネジメントなど)をするときは、理屈や理論を大事にする一方、それ以上に感情・体感を大切にしなければと思う。

 戦国時代の武将や、謀略の世の中の貴族が芸術(和歌や茶道、能など)や運動(蹴鞠や武道・・・)、座禅などを楽しんだのは、単なる気分転換などではなく、深い理由があったように思う。

(感謝の領域(カタストロフィーにも負けず⑨)39/60)

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自分の思考パターンから離れる!(カタストロフィーにも負けず⑧)

2010-02-25 | 第五章「和解と平和」

 朝起きてから寝るまで。一日いろいろ、その時どきの課題で暮らしている(のんびりとすることもあるが)。湧きおこる感情を、自分らしい思考パターンで宥めたり(防衛機制)、楽しんだりして暮らしていく。

 自分らしいパターン。それは何かと、考えたりするが、ある部分は意識に上がっても、意外と上がりにくいところもあるようだ。あんまり考えすぎるのは良くないと思うが(辛くなるのは健康に良くない)、最近時どき考える。

 特に、先日奈良に行ったことと、その後で、青春時代に好きだった本を読み返し、自分のパターンをぼんやり考えたこともある。幽体離脱というものがあるかどうか不明であるが、世阿弥の「離見の見」のような、自分を離れて自分を見る視点のようなものを、ふと思った。

 孫悟空がお釈迦様の手のひらの中から出られなかったように、自分も歴史の流れの中で、さらに成育史の制限の中で、何かのパターンに自ずからはまっているようだ。そして、それに気づかないで、ごちゃごちゃやっているなあ。そんな空白のような時間があった。

 自分が自分を見ても、余り面白くないが、愛そのものの神様(仏様などでもいいかもしれないが)から見ると、どう見えるだろうかと考える。

 自分の個性や限界というか、そんなものも見えるようであるが、一方何か愛しい存在の感じに気付いたりする。

 それでどうなのかと訊かれると答えに窮する部分もあるが、自分がカタストロフィーに立ち向かった時は、意外とそんな視点が大切かもしれない。自分にしがみつき過ぎないで、ちょっと自由になる視点かもしれない。

(感謝の領域<カタストロフィーにも負けず⑧>38/60)

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自然体でいる!(カタストロフィーにも負けず⑦)

2010-02-24 | 第五章「和解と平和」

 自分らしさとは何か、自分の自然体は何か。時折そんなことを考える。

 自分の自然体は何か?それを意識してきたのは、いつのころだっただろうか?意外に40歳台後半くらいだったかもしれない。カウンセリングの勉強は、一番役立ったと思う(特にワークショップ<勉強会>)。

 大企業を辞めてからは、どちらかというと、自然体でいる時間が増えたように思う。ありのまま、身の丈に応じ、こころの防衛機制もかなり開放された生き方というのだろうか。そんな生き方をしていると、不思議なことに、自分に近づいてこられる人と、離れていく人がはっきりしてくるように思う。

 当初は驚いたこともあったが。最近は、それも余り気にならなくなった(年なのか?)。

 意外に強い防御は自然体であると、太極拳も長年楽しんでおられる師匠のU先生に教えられた。確かに、自分のことを振り返っても、自然体は最強の防御かもしれない。特に自分の経験範囲を越えた事態を迎えた時には、とても有効なようだ。

 じたばたしても始まらない。でも一人では対応できないので、親しい人に自然体で相談し、自然体で行動する。時に、思いがけない救いの手を投げかけられ、深謝したことも。

(感謝の領域<カタストロフィーにも負けず⑦>37/60)

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