イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

錯乱からも人生を学べる・・・素朴さへの回帰! (熱意を考える 10/10)

2011-03-31 | 第八章「魂と聖霊」

 我が家も、東京の東に住んでいた娘と孫が、プチ避難?で2週間くらい家にいる。水源も落ち着いてきたので、そろそろ帰ろうかという時であるが、やはりお互いストレスの多い生活をした(2-3日なら最高だが)。被災者の方々の避難所の生活や、出口の見えない復興への労苦を思うと、取るに足らないことかもしれないが、そんな中でもちょっとした錯乱(喧嘩したりであるが)があった。

 一昨日のブログに書いたが、原発問題を考えると、負のスパイラルではないが、錯乱感が漂ってくるのだ。自己否定・他者否定で考えがちの問題は、人を簡単に錯乱に追い込む。その中で、自他混同してプチ・ヒットラーのようになりぶつかる。まあ、心理学的には得難い経験かもしれないが、それを契機に立て直す必要もある。

 我が家のベランダには水仙やムスカリ、スミレと花盛りであるが、一角に、リースづくりに使おうと、妻が集めた松ぼっくりがある。松ぼっくり(松かさ)は、調べてみると、パインアップルの本来の意味で、松の生命力、そのものなのだと判った。美しい花は何となく理解できるが、松ぼっくり(実際は生命の歴史を考えれば)はその原型的なものだ。

 松ぼっくりはクリスマスのリースなどに使われるが、その知識を得ると、妙に象徴的である。

 さて、錯乱感は、自分を新しい環境に向かわせるメッセージである(生き甲斐の心理学の理論からすると)。不安、怒り、身体症状、鬱という他の暗い感情(ストレス曲線)と同様に理想と現実のギャップから生じる。今までの何処かにもっている理想や現実を見直す、大切な感情なのである。プチ・ヒットラーになるのはやめて、ありのままの自分を静かに肯定的に考え、新しい生命を得るチャンスとも言える。

 他者に対する熱意も大切だが、自分に対する熱意も大切。≪人の身体は神の神殿≫という、聖パウロの言葉もある。自分のありようを、松ぼっくりのように静かに見つめたい。それも熱意なのだろう。

熱意を考える 10/10

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不安を傾聴する・・・熱意にも限界がある!(熱意を考える 9/10)

2011-03-30 | 第八章「魂と聖霊」

 相手の苦しんでいる感情を理解しようとしたり、他者否定・自己否定することもなく、愛そのものの相手の魂を信じて傾聴するのはよいが、意外にも身体が疲れる。

 この状態で傾聴を続けても、良い結果は出ないし、時には害があったりする。

 生き甲斐の心理学のテキストには普通の人の場合50分が限界とある。確かにそうである。私もいろいろな仕事をしたが、傾聴は身体が疲れる。以前、国際会議などで同時通訳の方に接したことがあったが、この職業も非常に短い時間しか連続して出来ないと言われていた。同じように特殊な領域なのだろう。

 人は身体と成育史、そして魂からなるとすると。素晴らしい熱意も身体の疲れが邪魔してしまうということなのだろう。

 昨日は、四谷見附をのんびり散策した。外堀の上の石垣は50年前と同じようだが、橋の欄干などは腐食が進んでいた。適切なメンテナンスは、物であっても人であっても大事なのだろう。

熱意を考える 9/10

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魂は放射能に汚染されない!(熱意を考える 8/10)

2011-03-29 | 第八章「魂と聖霊」

 この2-3日、私の周りには理科系の知人も多いので、そういった知人からの貴重な情報を再度読んだり、現在の原発問題を再考したりした。そして今、湧き起る感情を整理すると。

 怒り:何故、原子炉システムに、冷却システムの二重化など、リスク管理で常識の処置がとられなかったのか?そもそも廃棄物の処理方法が確立されないのに、何故原発が推進されたのか?身体を張って阻止しようとしたAさんのことを、どれだけ私は理解しようとしたのか、思わず他人と自分を責めてしまう。過去に対する不安・怒り。

 不安:チェルノブイリまではいかないというが(汚染範囲も小さいというのが今のところの多くの見方だが)、放射能汚染を封じ込めるまでには至っていない。今回の事故はどこまで広がるのか。また海洋汚染という問題もある。自分はともかく、子供や孫、子孫の世代はどうなるのだ。将来への不安・憂欝である。

 もちろん、そんな中であるが、今は多くの祈りの中で、知恵が絞られ原発問題に多くの人が取り組んでいる。先は判らないというのが事実だ。多くの祈りもある。そして、今日の我が家のベランダのスミレもフリージアも元気である。孫も元気だ。今のここの中にふとした幸福感。神秘的な今の時空はイキイキとしている。

 さて、昨日のキベラ・スラムであるが、子供達の居る所はケニヤでエチオピアの隣である。エチオピアは一つの仮説(以下、ニコラス・ウェイド著 5万年前 イースト・プレス を参照する。この本は最先端のヒトゲノムの知見から書かれた。)では現世人類69億人の共通の祖先集団(勿論日本人も)約5000人が住んでいたところである。そこから、5万年かけて、現世人類が世界に広がり、そして、沢山の言語や宗教、文化を築いてきた。

 5万年前の現世人類は、肌の色が今のkiberaの子供達と同じ黒であったという。言葉は先日BBCのドキュメントで観たサン族の舌打ち言語のようなものだったとされる(狩猟に最適な言語とも)。宗教もあったと推定される。

 そして、彼らは、迫りくる環境の悪化の中で、そのうちの小集団。5万年前の仮説では150人が未知の世界に向け、当時は海が浅かったとはいえ、バベルマンテブ海峡を渡りユーラシア大陸に向かった。150人なら、本当にお互いのことを皆知っていただろう。そして、様々な困難の中でヨーロッパ、アジア、オーストラリア等へ広がっていく。

 海峡を渡るという話で、もう一つネイティブ・アメリカンの口承史「一万年の旅路」(ポーラ・アンダーウッド著)がある。これは、アメリカ・インディアンの長大な歴史が含まれるとされるが。その中にユーラシア大陸から厳寒のベーリング海峡(これも当時は氷河期で海が浅く、歩けたとの説も有力)を渡る場面がある。命綱をつけての恐ろしい移動の中、超人的な活躍をする男の話もでてくる。

 日本は過去の記憶を不思議なほど残している文化を持つが、出雲大社のしめ縄を見たり、海の岩礁などにしめ縄が張られたりする意味を考えると、しめ縄が何かこうした、先祖の労苦と繋がるように思えてしまう(単なる妄想かもしれないが)。

 不安を生きるのは今の東日本に住んでいる人達だけではない。アフリカのキベラでも、そして、私たちの祖先も不安の中に生き、神話となるような魂の話もあった。そんなことを想うと、何か勇気がでる。原発の現場での活躍も似ているのだ。

 今を大事にし、そして、自己実現の3原則。①何のために生きるか?②生き甲斐は何か?③自分の身体、成育史、魂を大事にしているか? を忘れないようにしよう。魂は放射能に汚染されない!

熱意を考える 8/10

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海外からの祈り・・・を感じる!(熱意を考える 7/10)

2011-03-28 | 第八章「魂と聖霊」

 ベランダのスミレ(家人が近くの野生のスミレを鉢植えにした)が、いつの間にか沢山花をつけ始めた。おぉ・・・という嬉しい驚きを頂いた。

 山路来てなにやらゆかしすみれ草

 芭蕉の名句であるが、この句を思い出す。自分とスミレの関係であるが、状況により(山路に来て)、他者であるスミレとの関係が変化(他者肯定に変換)し、スミレを受容した時の神秘的な句なのかなぁと思うのである。

 テキスト「生き甲斐の心理学」の熱意に関する55ページに、好きなU先生の一節がある。「人の神秘を探る方法が一つあります。それは他者否定の思想からの解放です。自己否定からは何も生まれないように、自己否定も自己肯定もしないこと。」

 傾聴の極意の一つとも思えるが、人に対する熱意の源泉とも言える。

 さて、今回の大震災で、私も高い視点から俯瞰すれば、一人の被災者となった。もちろん、津波や建物の倒壊の直接的な被害を受けたわけでなく。余震の恐怖に今も慄いているわけでもない。しかし、原発被害の影響で、その汚染や風評被害も関係ないわけでもなく。乳幼児(一歳を越えているが)を孫にもったり、地震当日も帰宅問題で大わらわだったりした。西日本の知人からも、お見舞いの有難い電話をいただいた。

 そんな中、この2-3日YouTubeを通じて、海外からのPray for Japanなどを観させていただいた。その中で、思わず涙がこぼれた。ツイータの芭蕉ではないが、つぶやきの中にまさに魂の言葉を聴いた気もした。

 その中の一つがアフリカのキベラからの励ましである。 

http://www.youtube.com/watch?v=0L5W5CYkbR4

この映像の背後にある様々な事情を私は殆ど知らないが、何かスミレ草のような繋がりを感じてしまう。

熱意を考える 7/10

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不安を未来、今、過去で分類してみる!(熱意を考える 6/10)

2011-03-27 | 第八章「魂と聖霊」

 東北大震災から原子力発電所の放射能漏れで、いろいろ不安が広がっているようである。

 昨晩、久しぶりに夕方車で買い物に出かけた。不要なネオンサインなどが消え、何時もの道も迷うほどであった。食品も先日行った時より豊富であったが、牛乳とか水などが売り切れ状態であった。ちょうど牛乳を切らしていたので、探したが結局な無かった(今日の午前中に入手できたが)。

 将来に対する不安が、こうした商品に集中しているようである。先日までは米やガソリンがそうであったように。

 さて、昨日の続きになるが、役に立つ不安の分類として、湧き起る不安が未来に関することか、今に関することか、過去に関することか思索することがある。今、現に感じている不安感は、この3つの時間のどこかに所属するものである。そんなことを生き甲斐の心理学で学んだのだ。

 湧き起る不安をこの時間分類で思索してみる。あるいは、過去の辛い時のことを思い出し、その時の不安は未来に関するものだったか、今に関するものだったか・・・などを思索してみる。そして、一番辛かった時と今を比べたりする。こんなことを思索していると、様々な発見がある。

 未来・将来に対する不安。これは、私の拙い人生の中でも大きな比重を占めているようだ。この不安に対処する方法は最悪と最善のシナリオを描いてみるとか、いろいろな方法があると思う。

 また、未来や将来の不安に対する名言は沢山あるが、私は新約聖書のマタイによる福音書の次の句が好きだ。

 ≪・・・だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」≫ (日本聖書協会 マタイによる福音書 6.34)。実際自分が今まで生き抜けられたのも、未来・将来の不安に時間を沢山かけたからではないように思う。

 まあ、ケセラセラという歌を御存じの方がいらっしゃると思うが、意外に当たっているのではないだろうか。なるようにしかならない・・・

熱意を考える 6/10

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