物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

また無料塾

2011-12-28 13:39:38 | 受験・学校

10月からはじまった無料塾は常時来ている生徒は一人で、時々来る生徒がもう一人いる。常時来ている生徒はあまり心配がいらないのだが、時々来る生徒はもう見ておれないくらいの学力である。

だが、この生徒は英語が特に苦手らしく、ほとんど英単語を知っていなかったが、hug(抱きしめる)という語は知っていたから不思議だった。

一回だけ英語を教えたのだが、明日中学校の補習が終わって来るかどうか。年が明けたら、1月4日から再開するが、今年は明日が今年の最後の日である。これは30日と31日は例年のように風呂とトイレの清掃を私がするからである。

無料塾の運動は有志の心ある方々の気持ちに支えられているのだが、むしろこの塾が松山で知られていないことに普及がもう一つの理由がある。だが、気長に運動を進めるべきであろう。


無料塾終了

2011-08-05 14:33:09 | 受験・学校

第3回の無料塾は今日の午前の習字塾をもって終わった。今年は疲れた。どうしてなのかは分からない。今日は5人の参加だったが、一人だけ絵を描いて後は習字をして学校に提出する字を書いた。

これで、今回は終わり。もしつぎやるとしても年末の書初め塾である。そのうちに本格的な無料塾が週一回の頻度で開かれることになるかもしれない。

昨日は「重信川の岸辺から」というブログを見つけて、かなり昔のブログまで読んだが、知っている人かなと思われたが、なかなか心当たりが思いつかなかった。この方は私の倍ぐらいの回数の2800回を越えるブログを書いておられた。

文章もなかなかのもので、かなりのインテリと思われる。政治的な意見は厳しい方で、現在の大多数の政党にはご賛成ではないみたいである。


無料塾第3日

2011-08-03 14:29:51 | 受験・学校

今年の無料塾は子どもたちから、聞かれない限り教えないことにしているのに、どうしたものか疲れる。これは私の妻も同様である。1日目には教えて帰って後に、私は仕事場に出てきたのだが、妻は疲れで午後しばし昼寝をしないと元気を取り戻せなかったという。

これは私たちがすでにかなりの老境に入っているということを示すものであろう。毎日、中学生と小学生合わせて6人の子どもたちが来ている。先生の方も私たち夫婦も含めて5人がいるのだが、今年はあまりわからないことを聞かれないので手持ち無沙汰気味である。それでも終わったあとはどっと疲れている。

それでも今日は3日目なので大分体が慣れてきた感じがする。習字をしたいという希望が出ているので、明日か明後日に習字をもするといっている。

昨日の夜のテニスは湿度が高かったせいもあり、汗をいっぱいかいただけでなく終わった後は脚がほとんど動かず、帰宅してからの入浴でも体がなかなかスローもションでか動けなかった。

Eテレのドイツ語の放送も再放送であったが、これは大分ホステスを勤める内田恭子さんが大分放送に慣れてきて進行をうまくすることができるようになって安心して見ることができるようになった。

それを見てから、私としてはかなり早く寝たのだが、今朝はなかなか眼が覚めなかった。疲れていたからだろう。


第3回無料塾

2011-07-29 12:34:44 | 受験・学校

第3回の無料塾を8月1日から5日まで松山市小坂の医療生協法人「あったが拓南」の組合員ルームで開こうとしている。これは昨年の夏に急遽開いたり、昨年12月に一日だけ「書き初め」塾を開いて以降である。

無料塾とかタダゼミは全国で開かれているようであるが、私たちの塾はまだ小規模であり、数人の参加者しかない。

本当は全国的に展開されている、タダ・ゼミは中学生の子どもを高校受験勉強のための塾に行かせる経済的な余裕のない家庭のために社会の格差をできるだけ狭めるという趣旨のために開かれているのが、普通だがそこまで私たちの無料塾が徹底している訳ではない。

もちろん、無料で開講しているのは変らないのだが、こういう中学生を主な対象としているとまでははっきりいえない。

昨年、朝日新聞で高知県と滋賀県だったかで無料塾が開かれているという新聞記事を読んで、即座に反応して開いたといういきさつがあった。だから、日にちも夏休みが終わりかけの頃で小学生や中学生にはもうあまり必要を感じられない頃であった。それで今年は親御さんの要望もあって8月はじめの1週間となった。

先生は私も含めて元大学の先生だった友人や知人の数人に頼んでいる。中学2年生までという制約がいまのところあるが、要望があれば中3生も受け入れることを考えねばならないだろう。しかし、それは今後の展開次第である。

フリースクールに関してはそういう学校を開いている学校法人もあるようだし、私たちが開かなくてもいいだろうとの判断を現在しているが、そういう要望はないのだろうか。


講義の質を下げるものは?

2011-03-08 11:53:06 | 受験・学校

いつだったかは鶴見俊輔さんの座談を読んでいたら、学生の関心を引こうとして、面白い講義をしなくてはという気持ちが講義の質を下げてしまうとあった。これは教室の最前列の学生がスポーツ新聞に「力道山血まみれ」なんという見出しのついたのを見ているのを見てしまうといけないのだと思想史家の藤田省三さんだったかが述べていた。

このブログでもどれくらいのアクセスがあったとか、どういうテーマがアクセスが多いとかいうことがわかるようになっている。そうするとまたアクセスが多くなるような話題をブログで取り上げようとかいう邪心が出てくる。これがひょっとすると私のブログの質を上に述べたような講義の質の低下と同じように引き起こしているかもしれない。

先日、一日で311のアクセスを記録した。これは誰か一人か二人の人が集中的にこのブログを見たせいだと思う。もっとも妻などはそれは何かの機械のミスのせいだろうと言っていた。そうかもしれないが、人間、人の気を引こうとして時の話題を取り上げたりする。それがブログの質を下げているとすれば、申し訳がないことである。

だから、このブログではあまり政治の世界がどうなっていてもとりあげない。だが、先日シノダスとかいう会社の代表取締役の方(名前は失念)が1970年以降生まれの方を組織して社会を変えることができるような政策提言とか何かを模索していると新聞で読んだ。そういう努力が本当に実るかどうかはわからないが、そういう努力をする人が出てきたということに日本社会として希望が少しだけ出ている。

(2011.4.26付記) 上に一日のアクセス数が311のことがあったと書いた。今日やっと気がついたのだが、311は東日本大震災の起こった、3月11日をも意味するので、そういうことを知っている人がわざとアクセス数が311となるように細工をしたのではないかとも考えられるが、ちょうど311にするのは意外と難しいのでやはり偶然なのであろう。

と書いたが、この日は3月11日よりも三日前の3月8日のブログだった。だとすれば、偶然であろう。それとも神がかって3月11日に大地震と大津波の災害が起こることを予感していたのだとというと、これはもちろんオカルト気味であって、冗談としてはいいが、真面目にとるべきではない。


入試不正2?

2011-03-03 12:47:36 | 受験・学校

入試の不正は結構早く決着しそうな様子であるが、その結末はまだ予想されない。

そういう話とはまったく別の考えを今朝妻が呟いていた。それは大学に限らず学校は入りたい学生を拒まず、入学させてそして一人前にして卒業させてこそ、学校だというのである。大学についてはその辺は収容可能な人数に限りがあるので、簡単ではないが。

妻が呟いていたのは私の子どもたちが入学しようとしていた、中高一貫の進学校の校長先生の「優秀な生徒を受験させてほしい」という発言に対する反応であった。それでそういう考えでは教育者としての了見が狭いというのが妻の意見である。

どういう生徒が入学してもそれ相応に教育して、卒業させることができなければ、教育ではないのではないかという。まことにごもっともである。

数学者の小倉金之助がどこかで優秀な学生を育てたというのは教育が無力だったということの証にすぎないと書いていたと思う。

どういう意味だったかははっきりしないが、優秀な学生はどういう教育をしてもその才能を発揮するので、優秀な学生を育てたというのは本当の教育の意味をなしていないという趣旨であったろうか。

東京理科大学の前身の東京物理学校では入学を希望する学生は全員入れたが、そこを卒業するのは難しかった。野球のインニングの裏表のように、たとえば3年の表と次の年の裏とか言われていたそうである。3学年をすべて裏表をやって6年で卒業した学生も多かった。

学年の表、裏をやってもなかなか学生は卒業できなかったのだと聞く。そういう学校はいまではなくなり、入学させた学生はよほどのことがないと卒業させている。これは日本の社会が再挑戦をあまり認めない社会だからである。

いつかアメリカ人の英語の教師から聞いたことだが、アメリカでは評価は厳しいが再挑戦の機会はふんだんに与えられるのだという。そこら辺が国民性の違いかもしれないが、根本的にちがう。日本社会としては再挑戦を許すようにならないといけない。

最近では一度非正規雇用者が一度解雇されると再挑戦して再雇用される可能性が事実上なくなってしまっていると憂いている識者は多い。


入試不正?

2011-03-01 12:44:04 | 受験・学校

京都大学、同志社大学、立教大学、早稲田大学等の試験問題が携帯のメールで漏れてそれに対する解答がヤフーの知恵袋でかなり短時間に出ていたという。

これは私なんかが想像するところではこれらの大学に入りたいと熱望している生徒が起こした事件というよりは入試制度について不信感を起こさせようとする何人かのグループの仕業のように思える。

それにしても本当にこれらの大学に入りたいと思っている学生のやったことなら、その人数は多くても数人(多めに見積もって5人、普通なら1~2人)であるだろう。だとすれば、対症療法は今回に限って言えば、定員よりも数名多くの合格者を出しておけばよい。

だが、世間はそういった対症療法では許さないだろうから頭が痛い。そこがこの事件を起こした人たち(?)の付け目なのであろう。社会としては冷静に対処してほしい。

試験場は閉鎖された空間だと思っていたら、電波はその試験場の空間から簡単に飛び出していけることが実証されてしまった。もっともヘルツがマックスウエルの電磁波の存在を実験的に検証して以来わかっていたことであったが、インターネット等の普及で体感ができる時代になってしまった。

ドイツ語にdie Klausur(クラウズア)という語があり、これは筆記試験という意味である。この語源はラテン語だそうでもともと試験のときにその試験をしている部屋を鍵で閉めて(閉じるclaudo,ere,clausi,clausum)出入りができないようにしたことから来たのだと私たちのドイツ語の先生であるR氏から先日も聞いた。

この鍵で閉めるということは外界との遮断を意味していたが、受験者を試験場に閉じ込めてみても電波は物理的に室外に飛び出せることはいうまでもない。

ところで、こういう不正な手段で試験に成功して大学に入学しても、それは手品みたいなものであるから、大学に入ってからの勉学で落ちこぼれてしまう可能性が大きい。大学に入ってからの勉学を行えるどうかを試すのがもともと大学入試の本来の趣旨である。

無理やり手品みたいな手段を用いてでも他人を押しのけて入学したいという考えはもちろん許されない。それに世間では必ずしも出た学校によらずに独自に成功を収めている人だって少なくはないのに。もう少し大きな目で自分を見ることができるようになれないものだろうか。

それにしても大学当局は一枚、一枚の解答の見直しをしなければならないだろうし、とても大量の作業を余分に要求されることになる。それぞれの大学当局にはご同情を申し上げるが、これはしかし入試の公正さの信頼の保証のためであり、仕方がない。

将来は金属探知機で試験場に入るときには個々の受験者が携帯を持ち込まないように身体検査を受けるという面倒なことにでもなろう。それともそれ以外に有効な対策があるのだろうか。


辞書の限界

2010-02-08 14:58:24 | 受験・学校

翻訳にここ数日従事して見て、辞書の限界というのを感じている。辞書はやはり人間のつくったものである。また、その大きさもその辞書が売れる見込みがどの程度あるかによって決まるであろう。だから大きさにも限界があり、その収録語彙が限られるのも仕方がない。

普通のポケット辞書というかハンディなものに限れば、専門用語を引いても載っていないことが多くなる。特に医学用語だと日常生活で普通に使われる用語もあるが、やはり専門用語も多くあって、載っていない。だが、それを辞書の限界だということもできるが、逆にほとんどの語が出てくる辞書というのはすばらしい。その編者のご努力には感謝にたえない。

私のもっている英和辞書は高校時代に子どもたちが使っていた研究社の学習辞書とか自分で買った小学館の一般向きの辞書である。岩波書店の英和大辞典もこのごろ仕方なくひいては見るが、少し古めかしい。

独和辞典も子どもが大学時代に使ったものを使っている。独和辞典に関していうと、私の世代には木村ー相良の辞書が、またその後一時期シンチンガーさんの辞書がいいといわれた。いまになってくるとこのシンチンガーさんの辞書も古いとか。

R氏に言わせると独和辞典はその時点で一番新しい辞書がそれまでに発行された辞書の成果を取り込んでいるのでいいという。私の知人のF氏の先生のZさんが編纂した辞書などが比較的新しいようである。

このごろは若い人や経済的に恵まれた人は電子辞書を使っている。ちょっと言葉を打ち込めばすぐに意味が得られる。どうも私のように辞書を引くのが遅い者には垂涎の的だが、結構の値段がするのでなかなか買うことができない。ただ、私が年来してきたような赤鉛筆で下線を引くというようなことが電子辞書ではできない。


演習問題の作成の失敗

2009-10-03 13:23:54 | 受験・学校

今朝の朝日新聞に「天声人語」ならぬ「天声新語」という読者の投稿があった。それを読んでこれは方程式の演習問題にならないかと考えたが、どうもうまくいかなかった。

話の内容はほのぼのしたものであるが、私の関心はつぎのことである。ある72歳の女性が12年前に夫を亡くした。彼女の夫は何歳で亡くなったのだろうかということである。彼女と夫との年の差を書いていないので、実際に彼女の夫が何歳でなくなったかわからない。

仮に年齢差が5歳であったとしたら、彼女は12年前には60歳であったから、それに5歳足して65歳でなくなったということになる。これでは算数の問題ではあるが、代数の方程式の問題としてつくる必要が感じられない。ということで方程式の問題としては失格であった。

何でこんなことを考えたか。ここ数日e-Learningのコンテンツの演習問題をつくっているので、文章を読むとこういうことを考えてしまったのだ。大学入試の物理の問題でも大学の初年級の学生実験のテーマから入試問題が出題されたりするが、なんでもあまり具体的裏づけのない問題は出題し難い。

部外者には笑話を提供することになったが、どうも人生を裏から見ているような気がする。


演習問題の作成

2009-09-30 10:58:50 | 受験・学校

前からやっているe-Learningのコンテンツの作成のうちの演習問題の作成にまた戻ってきた。徳島科学史雑誌の原稿を書いている間は休止していたものである。ところがいくつかのところで困っている。一次関数の演習問題をどういうのを出そうかと考えているのだ。あまり数学のためにつくったような問題は好きではないのだが、そういうものも入れなくてはならないだろう。

私の何十年かの勤務の間にいくつかの物理の講義をしてきたので、それらの講義ノートを取り出してはそこから演習問題をつくったりしているのだが、一次関数の例は少ない。金属の電気抵抗の温度変化とか物体の自然落下の速度の時間的変化とかそういうものしか思いつかない。これらは本文の方に例として入れておいた。あとは電気回路の電圧降下と電気抵抗の関係くらいだろうか。よく調べれば他にもいくつかの例があるかもしれない。

今日もこういった問題の作成で一日が過ぎるだろう。


授業アンケート

2009-08-11 12:59:52 | 受験・学校

非常勤の講義で90分のうちで5分ぐらいを毎回の授業アンケートをとることに使っている。学生がどこが分からなかったがわかって役に立つのだが、問題はこのアンケートに答えてもまたまた数日して同じ質問がでてくることとか、そもそもの前提となる知識をもっていないのではないかと疑われる事態があるということである。

中学校は義務教育なので、中学校を卒業していない人はいないが、大学の授業でも中学校の程度を越える知識を前提にすると必ず文句が出る。じゃあ、中学校レベルの数学はいいかといえば、そうでもない。中学校レベルの数学しか使っていなくともたくさん数式が出てくると難しいと文句が出る。

文句が出ることは歓迎なのだが、問題は面倒と思えることをとりついてなんとかその本質を理解しようとする気概がないことである。

こんなことを書くと自分自身に跳ね返ってくるので、どうも具合がわるい。どうも少し難しいことには心臓がドキッとしてしまって取り組むことができないほうだから。だから、学生たちと私とは程度の差しかなくて、基本的にはそれほど違いがないとも言える。

しかし、少しは自分にわからないことも分かろうと挑戦はしてきたつもりだが、世の中にはいろいろ難しいことには事欠かない。自分の理解に苦しんだことを一部は小著「数学散歩」(国土社)に書いたのだが、しかし、だれもこの本の記述で自分の分からなかったことを学んだと言ってくれる人には出会ったことがない。

私が理解できなかった複素解析の分岐点の定義にしても数学の本を読んで、みんな分かるようになっているとしたら、どういう風にわかるようになっているのだろうか。分岐点の私なりの理解については「数学散歩」に書いた。私のもうひとつの問題として残っているのは解析接続で、これについても同じような問題をもっている。

今村先生の「物理と複素関数(?)」(岩波書店)によれば、解析接続の方法は3つとか4つあるとかいうので、それに対応した例を集めて解析接続がわかったという気がするようになりたいと以前から考えているが、現在までのところその願望は満たされていない。

残念ながら、解析接続の方法がいろいろあるとは今村先生の本にあるが、その例を豊富には挙げてはいないのだ。だから複素解析の新しい本を見かけたら、すぐに解析接続のところを例を挙げて書いてあるか、見てみることにしているがいまでのところ満足したことはない。

友人の数学者N先生によれば、数学では例を挙げることができることが本当に分かっているかどうかを判定する方法であるとか。だから、解析接続の方法のいくつかの例を書いたものを知りたいと思っているのだが、なかなかその要求を満たしてくれる本には出会っていない。不十分ながら解析接続の例を挙げた本がないわけではないことを付記しておきたいが。

ガンマ関数の例がいい解析接続の例になっているとか、また鏡像原理とかの例は電磁気学で鏡像法があるとN先生に聞いているので、それらについていつかきちんと読んで分かりたいと思っている。


大学の自己評価と試験

2009-08-10 10:45:32 | 受験・学校

大学の自己評価が最近しきりにされている。試験もある程度自己評価の調査段階で説明を求められれば、説明できるようにしておかなくてはならない。それで、7月27日にした試験でも76人中約1割にあたる8人を再試験することにした。

その試験は8月27日の午後行う。教務委員の先生はレポートでも評価をといわれたのだが、それでは困るので口頭試問にした。これは再試験の人数が8人くらいであるから、まあできるのである。これが30人もの再試験だと口頭試問はできない。時間がかかってしようがないからである。それが10人以下だと一人10分としても80分で終わるからなんとか口頭試問ができる。

あまり大きな声では言えないが、今の講義を担当するようになった、2年目と3年目の昨年までは試験問題の中に出しておいた、救済問題を評価してなんとか単位を出していたのだが、今年はそうもいかないので泣く泣く再試験にした。

授業時間ごとにアンケートをとっているので、それを評価して授業点として30点を与えている。だからあと30点を試験でとってもらえれば、単位認定をできるのだが、それがうまくいかない。その上に救済問題をうまく答えられればに20点を与えているのに。

どうも、大学としては教養をもった卒業生を出すためにこういう措置をとることにしたという。それはいいのだが、どうも学生の方はあまり勉学の意識がない人がいる。


e-Learning

2009-07-23 12:32:30 | 受験・学校

e-Learningのコンテンツをつくるといいながらご無沙汰していたが、先日E大学のWさんと打ち合わせをしてきた。数学のほうの全体像がわからなくなっていたが、Wさんのところにおおよその内容を書いたメモが残っていた。

それによるとそれほど残りが多い訳ではなさそうだ。というのは現在のM大学の授業用のプリントやその他のエッセイとかを少し改変して転用すれば、使えそうだからである。もちろん、演習問題はつくるというか選ばなければならないのだが、コンテンツ作成ということでは思ったよりも仕事は進んでいた。だから、もう少し気張ればいいかなという感じで気が軽くなった。

物理の方はコンテンツをすでに渡してあるが、これで十分というわけではないので、他の分野というかコンテンツの補充をしなくてはならない。

だが、いまは教育についてもなんとかそれぞれの大学の特徴を出さないと大学も生き残れないような時代である。

一方で大学教員の忙しさは並大抵ではなくなり、こういうことでは早晩日本の学術は大方滅びてしまうであろう。トップレベルの人たちはいつでもいて、そういう人はいなくはならないが、中堅から下のレベルで日本の教育を支えてきた階層が全滅するであろう。そうなったときあわてて見ても人材はすぐには供給できるわけではない。


授業の終わり2

2009-07-14 14:24:48 | 受験・学校

昨日、M大学の講義が終わった。再来週に試験があって、その採点をして成績を提出をすれば仕事が終わる。もっとも薬学教育の評価とかでその協力が必要になる。その辺は面倒である。評価の証拠を残しておかなければならないので、答案とかその他のものを保管しておかなければならない。

来年はもうこの仕事はないことも予想されるが、しかし知らないというわけにもいかないだろう。昨日は授業評価のアンケートがあった。マークシートにマークする方式であったが、どういう結果がでるだろうか。E大学に在職中にはひどい評価が多かった。

そういう評価は基本的にはあまり変わらないのではないだろうか。懸命にやっているのは今に限ったことではない。以前もそうだったと思うのだが、これは学生と私との行き違いが大きかった。私が他の教師と比べて大きく違っていたとは思わないが、厳しかったもしれない。

本当のところは学生にとって学ぶ意義が分からないことを学ぶために、学ぶ意欲が起きなかったというところだろうか。しかし、学生に嫌だという感情が現れるとどうしても私自身にもそれが反映される。それに数学的にも準備されてない学生には面白くないのが当然だろう。


Bolgna process

2009-06-26 11:42:35 | 受験・学校

ヨーロッパでボローニャ課程(過程?)というのが始まったが、それが機能しないということが問題になっている。ヨーロッパの大学でどこの大学で単位をとってもそれが認定されて大学を卒業できるということを想定した制度であったが、実際にはそれが機能しないらしい。

それで学生がそれに反対するようになってニュースになっているらしい。大学の学長の中でもこのボローニャ課程(過程?)が機能しないということに気がついて学生の反対運動を支持することを表明した人もいれば、まだそれに気がつかないで依然としてこの制度を推し進めるという学長とに分かれているらしい。

学部課程が3年でその後に修士課程2年の5年で学業を終えるという目論見だったらしいが、どうも3年の学部課程で辞めるという学生もいて、カリキュラムは複線になっているところもある。それで教授たちも忙しくなっているのはヨーロッパも全世界の例外ではないらしいが、それでも大学に入ればよっぽどのことをしないと卒業が出来るような日本の大学とは違う。

教授の権威は高く、単位認定権は強い。それで教授によってはなかなか単位を認定しない人もいる。すなわち、厳しく学問を取っている教授も多いということである。

ボローニャ過程がどういうものかとかその問題点がどういうものかは当事者でもまだよくはわかっていないという。どうも嫌な時代になってきている。