(積翠城 郡城 岐阜県郡上市八幡町 県指定史跡)
永禄二年(1559)それまで郡上郡を領していた東氏を攻め落とし、代わって東氏臣であった遠藤盛数によって標高354mの八幡山に築城されたのが八幡城である。また、盛数の娘に、山内一豊の妻となった千代がいるとされる。(近江坂田郡飯村、若宮友興娘説あり)
盛数の子慶隆は、後に織田信長に属し、天正十六年(1588)豊臣秀吉によって加茂郡小原城(白川町)移封させられる。代わって安八郡曽根城(大垣市)より稲葉貞通が四万石で入城、貞通は城郭の拡大を行った。然し、貞通は「関ケ原」で西軍につき、先の遠藤慶隆、飛騨高山の金森可重ら東軍勢に攻められ、再び遠藤氏の居城となった。
(東殿山)
慶隆、慶利、常友、常春と続き、元禄五年(1693)当主常久は早世であったため改易となった。代わって常陸笠間井上正任が五万石で入った。
元禄十年(1697)正任の子正岑(まさみね)のとき丹波亀山へ移封、出羽上山から金森頼時が入った。延享四年(1747)頼時の孫頼錦(よりかね)は幕府奏者番(礼式管理)となり経費が嵩んだことで年貢に付加され、いわゆる宝暦騒動といわれる郡上一揆が起き混乱、宝暦八年(1758)改易となった。
代わって丹後宮津より青山幸道(よしみち)が四万八千石で入り、本丸を麓の旧二の丸に移し、山頂の旧本丸は桜の丸、松の丸となった。そして幸完(よしさだ)、幸孝、幸寛、幸礼(ゆきのり)、幸哉(ゆきしげ)、幸宣と続き廃藩となった。
昭和8年(1933)天守台に木造四層五階の模擬天守と隅櫓が建造された。本丸(旧二の丸)には岸剣神社、悟竹院が建ち、山内一豊と千代の銅像がある。また、三の丸跡には安養寺が建っている。
(関連記事:郡上街道八幡 郡上街道の水辺 旧八幡町庁舎)
永禄二年(1559)それまで郡上郡を領していた東氏を攻め落とし、代わって東氏臣であった遠藤盛数によって標高354mの八幡山に築城されたのが八幡城である。また、盛数の娘に、山内一豊の妻となった千代がいるとされる。(近江坂田郡飯村、若宮友興娘説あり)
盛数の子慶隆は、後に織田信長に属し、天正十六年(1588)豊臣秀吉によって加茂郡小原城(白川町)移封させられる。代わって安八郡曽根城(大垣市)より稲葉貞通が四万石で入城、貞通は城郭の拡大を行った。然し、貞通は「関ケ原」で西軍につき、先の遠藤慶隆、飛騨高山の金森可重ら東軍勢に攻められ、再び遠藤氏の居城となった。
(東殿山)
慶隆、慶利、常友、常春と続き、元禄五年(1693)当主常久は早世であったため改易となった。代わって常陸笠間井上正任が五万石で入った。
元禄十年(1697)正任の子正岑(まさみね)のとき丹波亀山へ移封、出羽上山から金森頼時が入った。延享四年(1747)頼時の孫頼錦(よりかね)は幕府奏者番(礼式管理)となり経費が嵩んだことで年貢に付加され、いわゆる宝暦騒動といわれる郡上一揆が起き混乱、宝暦八年(1758)改易となった。
代わって丹後宮津より青山幸道(よしみち)が四万八千石で入り、本丸を麓の旧二の丸に移し、山頂の旧本丸は桜の丸、松の丸となった。そして幸完(よしさだ)、幸孝、幸寛、幸礼(ゆきのり)、幸哉(ゆきしげ)、幸宣と続き廃藩となった。
昭和8年(1933)天守台に木造四層五階の模擬天守と隅櫓が建造された。本丸(旧二の丸)には岸剣神社、悟竹院が建ち、山内一豊と千代の銅像がある。また、三の丸跡には安養寺が建っている。
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