(浄土真宗桑子山妙源寺 愛知県岡崎市大和町)
昭和58年に訪れて以来、24年振りの岡崎市西部大和町に訪れた。
近隣に、昭和63年になって東海道線西岡崎駅ができ、住宅が建ち混んできていた。また、妙源寺周辺も木々が減り、明るくなったように感じた。
(柳堂 国指定重要文化財)
(昭和58年)
(平成19年)
文暦二年(1235)碧海郡領主安藤信平は、鎌倉街道を通って京へ帰る途中の親鸞を柳堂に迎え入れ、説法を聞いたという。そして信平はその後出家し念信と名乗り、正嘉元年(1257)明眼寺を創建した。
天文三年(1534)の記録「池端平岩光吉畠地寄進状」には、明眼寺(後の妙源寺)に畠地を寄進するとあり、「天文参年申午八月九日 池端左京進光吉」とある。(池端城主)
永禄六年(1563)三河一向一揆の際には、家康がこの明眼寺にて一時退避をし、その際妙源寺と改められている。
安藤氏はこの桑子村に城を構え代々居城(一説には安藤氏祖ともいわれる阿部氏が築いたともいう、近村小針城の阿部氏も関連か)そして信平から十三代後の安藤基家(家重)のとき松平広忠に仕えた。天文九年(1540)基家は、安祥城の戦いで討死した。子基能も、元亀三年(1572)「三方原」で討死している。基能の子直次は、「姉川」「小牧長久手」「関ケ原」の功により徳川頼信の付家老となり、遠江掛川や紀伊田辺の藩主となった。
(安藤直次五輪塔)
(平岩親吉五輪塔)
(本多忠豊・忠高墓所)
(高木主水五輪塔)
境内にはその安藤氏代々の墓所や、平岩親吉、長坂信政(血槍九郎)、本多忠豊、忠高の墓碑、高木主水の五輪塔等がある。また、本多氏裔の科学者、本多光太郎氏の墓碑も同所に存在する。
続いて牧内城跡へと向かった。
昭和58年に訪れて以来、24年振りの岡崎市西部大和町に訪れた。
近隣に、昭和63年になって東海道線西岡崎駅ができ、住宅が建ち混んできていた。また、妙源寺周辺も木々が減り、明るくなったように感じた。
(柳堂 国指定重要文化財)
(昭和58年)
(平成19年)
文暦二年(1235)碧海郡領主安藤信平は、鎌倉街道を通って京へ帰る途中の親鸞を柳堂に迎え入れ、説法を聞いたという。そして信平はその後出家し念信と名乗り、正嘉元年(1257)明眼寺を創建した。
天文三年(1534)の記録「池端平岩光吉畠地寄進状」には、明眼寺(後の妙源寺)に畠地を寄進するとあり、「天文参年申午八月九日 池端左京進光吉」とある。(池端城主)
永禄六年(1563)三河一向一揆の際には、家康がこの明眼寺にて一時退避をし、その際妙源寺と改められている。
安藤氏はこの桑子村に城を構え代々居城(一説には安藤氏祖ともいわれる阿部氏が築いたともいう、近村小針城の阿部氏も関連か)そして信平から十三代後の安藤基家(家重)のとき松平広忠に仕えた。天文九年(1540)基家は、安祥城の戦いで討死した。子基能も、元亀三年(1572)「三方原」で討死している。基能の子直次は、「姉川」「小牧長久手」「関ケ原」の功により徳川頼信の付家老となり、遠江掛川や紀伊田辺の藩主となった。
(安藤直次五輪塔)
(平岩親吉五輪塔)
(本多忠豊・忠高墓所)
(高木主水五輪塔)
境内にはその安藤氏代々の墓所や、平岩親吉、長坂信政(血槍九郎)、本多忠豊、忠高の墓碑、高木主水の五輪塔等がある。また、本多氏裔の科学者、本多光太郎氏の墓碑も同所に存在する。
続いて牧内城跡へと向かった。