(愛知県岡崎市筒針町)
この日は牧内地区から北隣の筒針地区へと差し掛かった。
旧碧海郡筒針村は、鹿乗川(旧矢作川分流)東側に位置している。
村内は往古、この地が矢作川の傍であったことから、それを鎮護する堤墾神社が創建され、明治5年(1872)須佐之男神社と改められている。社伝には、建武二年(1335)矢作川の戦いの際、新田義貞臣畑六左衛門尉時能が、兜の中に納めていた八幡大神を奉納したと伝えている。また近隣には、天福元年(1233)創立の浄土真宗筒井山教泉寺があり、寺に隣接して、松平氏臣小栗正重の居城した筒針城が存在したという。正重の次は松平忠吉の子、吉忠が母方の実家である筒針の小栗氏に入り、小栗吉忠となった。
永禄七年(1564)吉忠は、三河一向一揆の抑えで活躍し、後に三河、遠江奉行職を務めた。
(須佐之男神社)(筒井山教泉寺)
この後、岡崎城大林寺郭堀調査地へと向かった。
この日は牧内地区から北隣の筒針地区へと差し掛かった。
旧碧海郡筒針村は、鹿乗川(旧矢作川分流)東側に位置している。
村内は往古、この地が矢作川の傍であったことから、それを鎮護する堤墾神社が創建され、明治5年(1872)須佐之男神社と改められている。社伝には、建武二年(1335)矢作川の戦いの際、新田義貞臣畑六左衛門尉時能が、兜の中に納めていた八幡大神を奉納したと伝えている。また近隣には、天福元年(1233)創立の浄土真宗筒井山教泉寺があり、寺に隣接して、松平氏臣小栗正重の居城した筒針城が存在したという。正重の次は松平忠吉の子、吉忠が母方の実家である筒針の小栗氏に入り、小栗吉忠となった。
永禄七年(1564)吉忠は、三河一向一揆の抑えで活躍し、後に三河、遠江奉行職を務めた。
(須佐之男神社)(筒井山教泉寺)
この後、岡崎城大林寺郭堀調査地へと向かった。