(左近屋敷 愛知県岡崎市中金町)
乙女川と共に下り、男川と合流するすぐ手前で東に少し上がると、この城跡に辿り着く。
今は茶畑や宅地となっている城跡へは、27年前にも訪れていた。その当時、額田町教育委員会で入手した、「額田町中世・近世城郭遺構調査表」を基に、旧町内を巡ったことを思い出す。この中金城もその一つである。
中金城は、奥平定直(貞直)が、異母兄である設楽郡清岳村亀山城主奥平貞俊を頼って、上野国甘楽郡より額田郡中金村へ移住したのが始まりとされる。(中金奥平家)
定直、正定、吉定、義次、定次と続き、徳川家康の関東移封に伴い廃城となったという。
また、左近屋敷の「左近」は、三代吉定の名であり、四代義次は「丸根砦」、「姉川」、「三方ヶ原」、「鳶ヶ巣山」等に参戦、四代定次も、「長篠城」、「小牧」に参戦している。
続いて久保城(小代城)へ向かった。
乙女川と共に下り、男川と合流するすぐ手前で東に少し上がると、この城跡に辿り着く。
今は茶畑や宅地となっている城跡へは、27年前にも訪れていた。その当時、額田町教育委員会で入手した、「額田町中世・近世城郭遺構調査表」を基に、旧町内を巡ったことを思い出す。この中金城もその一つである。
中金城は、奥平定直(貞直)が、異母兄である設楽郡清岳村亀山城主奥平貞俊を頼って、上野国甘楽郡より額田郡中金村へ移住したのが始まりとされる。(中金奥平家)
定直、正定、吉定、義次、定次と続き、徳川家康の関東移封に伴い廃城となったという。
また、左近屋敷の「左近」は、三代吉定の名であり、四代義次は「丸根砦」、「姉川」、「三方ヶ原」、「鳶ヶ巣山」等に参戦、四代定次も、「長篠城」、「小牧」に参戦している。
続いて久保城(小代城)へ向かった。