昭和55年(1980)まで墳丘上に県指定天然記念物であった「根上り松」が存在したため、こう呼ばれている。現在は二代目根上り松が植えられ、和霊神社が鎮座している。根上り松が枯死した際に発掘調査が行われ、四神四獣鏡や埴輪等が出土し、5世紀後半、直径27mの円墳であることが分かった。
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海神、綿津見神(ワタツミノカミ)の娘とされる豊玉毘売神(トヨタマヒメノカミ)が朝夕水を汲んだ日本最古の井戸という。後に夫となる火遠理命(ホオリノミコト:神武天皇の祖父)と出会った場所とも伝えられている。
昨夜静岡県に上陸した台風は、各地に被害をもたらした。この地方でも、大雨により川が増水し、豊川(とよがわ)も警戒水位を超えたために、放水路の水門が開かれた。茶色の水が勢いよく三河湾に向かって流れていた。
(伝鴨部押領小千宿禰益躬墳墓 愛媛県越智郡朝倉村朝倉下字丈六寺 1990年9月11日)
先祖の墓参の後、隣の朝倉村に向かった。完成したばかりの緑のふるさと公園と、木造の美術古墳館を見学した。近年、この地方では美術館を設置する自治体が増えているが、朝倉村でも付近に多く存在する古墳と組み合わせ、施設を設置したようである。
美術古墳館のすぐ近くには、小千益躬(おちますみ)の墓と伝わる樹之本古墳があり、明治41年(1908)の発掘の際に、「長相思常忘毋楽未央」の銘文の入った獣帯画像漢式青銅鏡と、勾玉、管玉、砥石、笄(こうがい)、青銅製薬師像が出土し、現在は東京国立博物館に保管されている。平成元年に圃場整備に伴う調査が行われ、全長40m,高さ5mの楕円墳であることが分かり、二重の周濠、円筒、形象埴輪の外部施設が検出された。また、同所には越智玉興が天智天皇元年(662)に創建したという樹之本山浄禄寺跡があり、墳丘には浄禄寺開基の輝月妙鏡律尼宝筐印塔(白鳳十三年七月十五日遷化:宝筐印塔は後世に建立)と釈迦三尊像が建っている。
(しゅうらくえん阿弥陀如来 愛知県東海市荒尾町 市指定文化財)
昭和2年(1927)昭和天皇御成婚を記念し、実業家山田才吉が建立した、RC造、像高18.79mの大仏である。その後、昭和58年(1983)には、新たに開山した曹洞宗大仏寺の所有となり宗教法人化されている。そして平成9年、付近一帯は東海市しあわせ公園として整備された。
(大仏前の像高5mの仁王像)
東海市記事:細井平洲生誕地
平和公園からこの地に差し掛かった。周辺は綺麗に整頓された町並みであり、広い通りの一つ裏通り「武家屋敷通り」が、日本の道百選101番にもなっている道である。









通りに面して、低い石垣の上にイヌマキの垣根を施した屋敷群があり、島津久峯によって整備された武家屋敷の町並みの内、七ヶ所の各屋敷内には、往時の末裔が管理する枯山水や池泉鑑賞式の庭園がある。

特攻隊員が母のように慕った、鳥濱トメさんが切り盛りしていた富屋食堂(再現)
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(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所跡 鹿児島県南九州市知覧町郡)
仙巌園から再び鹿児島市街を横切り、知覧町へと向かう道中、ガイドさんが語った言葉が気になった。「知覧文教所に関わりのあった方をご案内したとき、私のような戦争を知らない世代の者がこの場所をご説明することや、平和のことを軽々しく申してよいのだろうかと悩みました。然し文教所に関係のあった方から、是非貴方のような当時を知らない方が戦争はあってはならないものだと言い続けてほしいと言われ、生半可な気持ちではなく心からご説明していこうと思いました。」と言っておられた。そして、平和公園が近づくと、沿道には、たくさんの供養のために寄進された石灯篭が現れ始めた。
(昭和30年(1955)建立 特攻平和観音堂)
昭和17年(1942)この地に大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が開校し、少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが訓練を行った。そして、終戦間近になって本土最南端の特別基地が置かれた。沖縄決戦の際、特別攻撃隊員はこの基地を飛び立ち、自らが肉弾となって突撃していった。基地跡には特攻平和会館が設置され、沖縄特攻で命を落とした1035人の遺品を展示している。
(母の像「やすらかに」)
園内には特攻平和観音、特攻勇士像「とこしえに」、母の像「やすらかに」が建てられている。
来訪者に共通する感想がある。それは、戦争が起こってはならないということ、そして、この場所に、ただ立ち寄るだけでは時間が足りないということであった。私も改めて訪れる際には、一日の時間を割きたいと考えている。(ミュージアム知覧蔵)
園内にある知覧町の歴史を紹介した「ミュージアム知覧」を見学後、武家屋敷群に向かった。
(関連記事:沖縄平和祈念公園)
東海道沿いに建つ、浄土宗二村山法蔵寺の境内には、近藤勇の首が葬られている墓所がある。近藤勇は、天保五年(1834)武蔵国多摩郡(東京都調布市)に生まれ、名は宮川勝五郎といった。後に天然理心流剣術師近藤周助の実家である島崎家へ養子に入り、島崎勝太と名乗っている。その後、近藤家へ養子に入り近藤勇となった。
勇は幕府軍の組織である「新撰組」の局長となり、更に幕臣となって活躍したが、戊辰戦争で新政府軍側に敗れ、慶応四年(1868)中山道平尾一里塚(東京都北区)で斬首された。勇の首は、京都三条大橋に晒されていたのを新撰組隊士である斎藤一が取り戻し、京都誓願寺の僧孫空義天が供養した後、義天が法蔵寺の住職となるのに伴い、明治元年にこの地に埋葬されたものという。
(せんがんえん 鹿児島市吉野町磯 国指定名勝 国指定史跡)
加治木町からこの地に差し掛かった頃には、大雨も小雨に変わったが、ぐずついた空模様は解消されることはなかった。
仙巌園は万治元年(1658)薩摩藩主島津光久によって造営された、敷地約一万五千坪の別邸及び庭園である。名の由来は、中国江西省龍虎山仙巌に風景が似ていることからこう呼ばれるようになった。桜島を借景にした園内は曲水の庭を配し、中央に明治17年(1884)改築の磯御殿が建てられている。また、隣接して島津斉彬が開始した日本最初とされる洋式産業、集成館事業の機械工場が尚古集成館として残されている。(鉄製150ポンド砲)
(獅子乗大石燈籠)
(正門 明治25年(1895)建造)
(錫門家紋)
(亀石)
(琉球国王献上 望嶽楼)
(磯御殿)
(明治天皇行幸所・旧集成館)
(鶴嶺神社)