(明治村 旧所在地:山口県下関市竹子島 2002年2月24日)
一見すると鉄道の信号機のようにも見えるが、潮流の方向と速さを航行する船に知らせるため、明治42年(1909)に設けられた腕木式信号機である。
一見すると鉄道の信号機のようにも見えるが、潮流の方向と速さを航行する船に知らせるため、明治42年(1909)に設けられた腕木式信号機である。
(明治村 旧所在地:東京都中央区日本橋 2002年2月24日)
昭和2年(1927)に竣工した、SRC造、地下1階地上3階の銀行建物の外壁部分である。昭和61年(1986)改築による建物解体の際に、外壁の一部が移築された。
私は、この構造物を目にしたとき、保存の処置はとられながらも、哀愁を感じずにはいられなかったことを覚えている。
昭和2年(1927)に竣工した、SRC造、地下1階地上3階の銀行建物の外壁部分である。昭和61年(1986)改築による建物解体の際に、外壁の一部が移築された。
私は、この構造物を目にしたとき、保存の処置はとられながらも、哀愁を感じずにはいられなかったことを覚えている。
(明治村 旧所在地:東京都千代田区千代田 2002年2月24日)
明治44年(1911)大熊喜邦が設計した、建築面積302㎡,煉瓦及び石造二階建の内閣文庫事務棟である。昭和46年(1971)文庫は移転し、昭和59年(1984)書庫棟は解体されたが、事務棟は平成2年に現在地に移築された。
明治44年(1911)大熊喜邦が設計した、建築面積302㎡,煉瓦及び石造二階建の内閣文庫事務棟である。昭和46年(1971)文庫は移転し、昭和59年(1984)書庫棟は解体されたが、事務棟は平成2年に現在地に移築された。
(長崎電気軌道)
長崎のまちに路面電車が走ったのは、大正4年(1915)病院下、築町間が最初である。現在は本線(6.9km)、赤迫支線(0.4km)、桜町支線(0.9km)、大浦支線(1.1km)、蛍茶屋支線(2.2km)の5路線11.5kmを有している。この日は、先ず長崎駅前から浜口町まで乗車し、長崎平和会館に向かった。
(長崎駅前 1200形)
(大浦海岸通 1300形)
(石橋 360形)
(大浦天主堂下 300形)
(出島 370形)
このまちも、路面電車を残したことによって、情緒を残し、交通弱者と環境に優しいまちが維持できている。そして、まちの温かみも合わせて感じるのであった。
長崎のまちに路面電車が走ったのは、大正4年(1915)病院下、築町間が最初である。現在は本線(6.9km)、赤迫支線(0.4km)、桜町支線(0.9km)、大浦支線(1.1km)、蛍茶屋支線(2.2km)の5路線11.5kmを有している。この日は、先ず長崎駅前から浜口町まで乗車し、長崎平和会館に向かった。
(長崎駅前 1200形)
(大浦海岸通 1300形)
(石橋 360形)
(大浦天主堂下 300形)
(出島 370形)
このまちも、路面電車を残したことによって、情緒を残し、交通弱者と環境に優しいまちが維持できている。そして、まちの温かみも合わせて感じるのであった。
(明治村 旧所在地:東京都品川区北品川四丁目 2002年2月24日)
明治9年(1876)明治政府は興業舎硝子製作所を買収して、工部省品川硝子製作所を設立した。その際に建てられたのが、この煉瓦造の工場である。明治18年(1885)には再び民間経営となったが、明治25年(1892)に解散している。その後、製薬会社である三共の所有となり、昭和36年(1961)旧工場解体の際、煉瓦造の工場の一部を明治村に移築復原した。跡地は区指定文化財となっている。
明治9年(1876)明治政府は興業舎硝子製作所を買収して、工部省品川硝子製作所を設立した。その際に建てられたのが、この煉瓦造の工場である。明治18年(1885)には再び民間経営となったが、明治25年(1892)に解散している。その後、製薬会社である三共の所有となり、昭和36年(1961)旧工場解体の際、煉瓦造の工場の一部を明治村に移築復原した。跡地は区指定文化財となっている。
多忙となり複数のHP更新がままならなくなってきました。
当面の間、「ほのやまのふもとで」「TENYOU FLOW」「mixi」の更新は休まさせて頂きます。
ただし、当「flow Trip」は、従来通り、毎日更新を続けます。
(写真は通勤途上の光景)
(長崎市出島町)
明治11年(1878)に英国人モントンルによって設計された、二階建て二層塔屋付き、建物面積783�の現存する日本最古の神学校建築物である。明治19年(1886)神学校は閉鎖され、明治42年(1909)まで宣教師宿舎として使われた。その後は病院として使用され、保存修理後の平成10年からは史料館として一般開放されている。
(関連記事:出島)
(出島和蘭商館跡 長崎市出島町 国指定史跡)
寛永十一年(1634)江戸幕府が鎖国政策のために築いた人工島である。面積は、三千九百二十四坪であり、扇形をしている。安政二年(1855)日蘭和親条約締結により、出島内でのオランダ商館の役割は終えた。明治に入り付近が埋め立てられ、往時とは様相が大きく異なっている。昭和21年(1946)から史跡指定地内の公有化が進められ、平成8年からは建物等の復元事業が開始された。
(関連記事:旧出島神学校)
寛永十一年(1634)江戸幕府が鎖国政策のために築いた人工島である。面積は、三千九百二十四坪であり、扇形をしている。安政二年(1855)日蘭和親条約締結により、出島内でのオランダ商館の役割は終えた。明治に入り付近が埋め立てられ、往時とは様相が大きく異なっている。昭和21年(1946)から史跡指定地内の公有化が進められ、平成8年からは建物等の復元事業が開始された。
(関連記事:旧出島神学校)