(愛知県豊川市大木町新町通)
我が家から数百メートルの場所で行われている盆踊り。
私が還俗してからも、暫く盆の手伝いをしていた寺院の敷地で毎年行われている。
私は幼い頃から「踊り」というものを、遠い記憶のどこかで見た光景のように懐かしく感じるのである。
我が家から数百メートルの場所で行われている盆踊り。
私が還俗してからも、暫く盆の手伝いをしていた寺院の敷地で毎年行われている。
私は幼い頃から「踊り」というものを、遠い記憶のどこかで見た光景のように懐かしく感じるのである。
今月から通勤経路を変更し、東三河の都から西三河の都を往復するようになった。東西三河の都は、ほぼ同じ人口規模を持ち、よく比較される関係にあるが、地域特性の違いにより、多くの差異があることに気付かされる。
移ろい、変化の早い県都である岐阜。衰退する部分、バブルな部分、伝統を重んじる部分、軽んじる部分、新しいものを受け入れ難い部分、それらが他所より多く交錯するように感じる街だと、三十三年間、延べ90回訪れている私は思う。
(アクアージュ柳ヶ瀬 ビーナスの泉)
(長崎屋跡 柴田会館ビル)
(やなな)
(柳ヶ瀬弥生町)
(柳ヶ瀬ビル解体遠望)
(西柳ヶ瀬コミュニティ広場ブロンズ像「輝き」)
(岐阜市内線の廃止された忠節橋通り)
(老朽家屋に隣接して建つシティ・タワー43)
(家具店撤退後、空間の目立つ1階フロア)
(定着率の低いテナント)
岐阜シティ・タワー43は、平成19年に完成した、地上43階の複合ビルである。
43階建てであるが、高さは163mと、集合住宅フロアが多いため比較的低い。また、57600㎡の延床面積に対し、総事業費150億円と安価であり、構造、内外装がシンプルである。当初の計画では、大手百貨店が核テナントとして入る予定であったが、時世柄頓挫し、最終的に大型家具店が入ったが、間もなく民事再生法申請により閉店。一等地の優良建築物に広い空間が生まれた。
(関連記事:漫ろ岐阜 ’08 夏 秋 大晦日 「柳ヶ瀬遺跡」
(横浜市中区山手町 横浜市認定歴史的建造物)
明治42年(1909)中区本牧(ほんもく)に、牧場経営をしていた中澤家の住宅として建てられたものである。昭和4年(1929)中区諏訪町(山手町南隣)へ移築され、昭和52年(1977)集合住宅建設に伴い、横浜市に寄贈された。そして、私有地である現在地に移築され、私立山手資料館となった。
明治42年(1909)中区本牧(ほんもく)に、牧場経営をしていた中澤家の住宅として建てられたものである。昭和4年(1929)中区諏訪町(山手町南隣)へ移築され、昭和52年(1977)集合住宅建設に伴い、横浜市に寄贈された。そして、私有地である現在地に移築され、私立山手資料館となった。
(Gifu City Library 岐阜市八ッ寺町 2008年7月13日の日記から)
岐阜一の繁華街、柳ヶ瀬の北側に建つ図書館である。同所にある本館及び自動車図書館、分館(ハートフルスクエアーG:岐阜駅高架下生涯学習拠点施設)、長良図書室、東部図書室、西部図書室、長森図書室、柳津図書室からなり、蔵書数は約47万点である。
大正12年(1923)岐阜市加納永井町に開館した財団法人岐阜簡易図書館を起源とし、同分館として現在地に昭和2年(1927)に開館した。昭和33年(1958)市立図書館として、現在地に地上3階建(新館は昭和39年(1964)完成)が建造され、視聴覚ホール、開架閲覧室、郷土資料室等を有するが、分館に機能を分散させたとはいえ、県都である市の規模とは対照的に手狭で、所蔵する「松尾文庫」等に至っては、古書店のような収蔵状態である。
岐阜大学医学部附属病院跡地や、長良公園(岐阜大学教育学部跡地)等に移転する計画が持ち上がっているが、まだまだ不透明な状態である。
岐阜一の繁華街、柳ヶ瀬の北側に建つ図書館である。同所にある本館及び自動車図書館、分館(ハートフルスクエアーG:岐阜駅高架下生涯学習拠点施設)、長良図書室、東部図書室、西部図書室、長森図書室、柳津図書室からなり、蔵書数は約47万点である。
大正12年(1923)岐阜市加納永井町に開館した財団法人岐阜簡易図書館を起源とし、同分館として現在地に昭和2年(1927)に開館した。昭和33年(1958)市立図書館として、現在地に地上3階建(新館は昭和39年(1964)完成)が建造され、視聴覚ホール、開架閲覧室、郷土資料室等を有するが、分館に機能を分散させたとはいえ、県都である市の規模とは対照的に手狭で、所蔵する「松尾文庫」等に至っては、古書店のような収蔵状態である。
岐阜大学医学部附属病院跡地や、長良公園(岐阜大学教育学部跡地)等に移転する計画が持ち上がっているが、まだまだ不透明な状態である。
(横浜市中区山手町 横浜市認定歴史的建造物)
昭和6年(1931)アメリカ人建築家ジェイ・ハーバート・モーガンによって設計された、RC造二階地下一階、英国ノルマン、ロマネスク基調の聖堂である。昭和20年(1945)空襲により被害を受けたが、間もなく修復。然し平成17年、放火により内部を焼失し、後に再び修復された。
(関連記事:カトリック山手教会)
(ベーリックホール 横浜市中区山手町 横浜市認定歴史的建造物)
昭和5年(1930)アメリカ人建築家、ジェイ・ハーバート・モーガン設計により、イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベリックの住宅として建てられた、地下一階(RC造)、地上二階建、延床面積654㎡の木造建築である。
昭和31年(1956)からはカトリック・マリア会のセントジョセフ・インターナショナルスクール寄宿舎として利用されたが、平成12年同校が閉校となり、横浜市に寄贈された後、復原及び耐震工事が成されている。
昭和5年(1930)アメリカ人建築家、ジェイ・ハーバート・モーガン設計により、イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベリックの住宅として建てられた、地下一階(RC造)、地上二階建、延床面積654㎡の木造建築である。
昭和31年(1956)からはカトリック・マリア会のセントジョセフ・インターナショナルスクール寄宿舎として利用されたが、平成12年同校が閉校となり、横浜市に寄贈された後、復原及び耐震工事が成されている。
(横浜市中区山手町 横浜市認定歴史的建造物)
大正15年(1926)アメリカ人建築家アントニン・レーモンドによって設計された、木造二階建、延床面積460㎡の住宅である。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの住宅として山手町127番地に建てられ、昭和57年(1982)集合住宅建設のため解体されたが、平成2年、原材料を基に、現在地に復元したものである。
大正15年(1926)アメリカ人建築家アントニン・レーモンドによって設計された、木造二階建、延床面積460㎡の住宅である。スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの住宅として山手町127番地に建てられ、昭和57年(1982)集合住宅建設のため解体されたが、平成2年、原材料を基に、現在地に復元したものである。