長閑な光景を目にしながら、境港経由で松江に向かった。
この地域へは初めて訪れる。「米子鬼太郎空港」と愛称が名付けられた美保飛行場は、鳥取県と島根県境の弓ヶ浜半島にあり、近年滑走路の拡張が行われ、管制塔もある空港であるが、東海地方からは、日に夕刻着の一便しかない。
長閑な光景を目にしながら、境港経由で松江に向かった。
長閑な光景を目にしながら、境港経由で松江に向かった。
(愛知県豊川市豊津町・橋尾町)
元禄四年(1691)それまでの橋尾用水(松原用水の前身)豊川橋尾井堰(豊川市橋尾町)が洪水によって流失し、翌年草ヶ部井堰(豊川市豊津町)が完成して以降、この地には、豊川右岸の田園を潤す流れが続いている。また、この地には上水道管が横切っている。昭和17年(1942)豊川海軍工廠に水道を供給するために豊川右岸に大和水源地を設け、配水池に送る水道管が通っているのである。我が家もこの水道の供給を受けている。平成に入り、付近は圃場整備によって区画が改められ、橋尾天神社の傍に架かる天神橋もそれまでの県道橋ではなくなり、持て余しているように大きな橋幅を今に残している。
(関連記事:松原用水宮前橋)
元禄四年(1691)それまでの橋尾用水(松原用水の前身)豊川橋尾井堰(豊川市橋尾町)が洪水によって流失し、翌年草ヶ部井堰(豊川市豊津町)が完成して以降、この地には、豊川右岸の田園を潤す流れが続いている。また、この地には上水道管が横切っている。昭和17年(1942)豊川海軍工廠に水道を供給するために豊川右岸に大和水源地を設け、配水池に送る水道管が通っているのである。我が家もこの水道の供給を受けている。平成に入り、付近は圃場整備によって区画が改められ、橋尾天神社の傍に架かる天神橋もそれまでの県道橋ではなくなり、持て余しているように大きな橋幅を今に残している。
(関連記事:松原用水宮前橋)
(東京都千代田区五番町・新宿区市谷田町)
中央線市ヶ谷駅の上には、千代田区から新宿区に向けて江戸城外濠を跨ぐように架けられている鉄橋がある。これは、昭和4年(1929)に横川橋梁製作所が製造した鋼桁水管橋である。
中央線市ヶ谷駅の上には、千代田区から新宿区に向けて江戸城外濠を跨ぐように架けられている鉄橋がある。これは、昭和4年(1929)に横川橋梁製作所が製造した鋼桁水管橋である。
(天台宗清水山観世音寺 福岡県太宰府市観世音寺)
白鳳元年(661)斉明天皇が崩御し、その追善のために、子天智天皇が発願したのが観世音寺の始まりという。寺院が完成したのは、天平十八年(746)とされる。発掘調査により、東西93m,南北78mの回廊で囲まれ、金堂の正面が横を向いていることが分かった。その伽藍形式と瓦の形式等が飛鳥川原寺と共通している。また、律令時代の北の拠点であった多賀城及び同附属観音寺(多賀城廃寺)と同様に、西の拠点である太宰府の、国家鎮護の祈願寺院でもあっただろうと想像できる。平安時代以降次第に衰退し、現在残る講堂と金堂(県指定文化財)は、福岡藩主二代黒田忠之・三代光之が、家老鎌田昌勝、福岡簀子町の豪商天王寺屋浦了無(うらりょうむ)らに命じて建てられたものである。
(北側回廊跡) (講堂)(金堂)
白鳳元年(661)斉明天皇が崩御し、その追善のために、子天智天皇が発願したのが観世音寺の始まりという。寺院が完成したのは、天平十八年(746)とされる。発掘調査により、東西93m,南北78mの回廊で囲まれ、金堂の正面が横を向いていることが分かった。その伽藍形式と瓦の形式等が飛鳥川原寺と共通している。また、律令時代の北の拠点であった多賀城及び同附属観音寺(多賀城廃寺)と同様に、西の拠点である太宰府の、国家鎮護の祈願寺院でもあっただろうと想像できる。平安時代以降次第に衰退し、現在残る講堂と金堂(県指定文化財)は、福岡藩主二代黒田忠之・三代光之が、家老鎌田昌勝、福岡簀子町の豪商天王寺屋浦了無(うらりょうむ)らに命じて建てられたものである。
(北側回廊跡) (講堂)(金堂)
(愛媛県伊予郡砥部町川井)
神亀五年(728)大三島より大山積神を勧請し、井川神社として創建したのが始まりとされる。仁和四年(888)と昌泰四年(901)には、菅原道真がこの地に訪れていると伝わる。その後、天慶五年(942)、道真と淳茂(道真五男)、北の御方(吉祥女:道真室)を祀り、天満神社と称したという。
入口には、日尾八幡神社(久米郡鷹子村:松山市久米)神官、三輪田米山(常貞)書の神名石(町指定文化財)がある。
(東京都新宿区住吉町)
私の出張場所に程近いこの辺り。
新宿界隈ではここだけという、昔ながらの商店街である曙橋通り。夕刻のこの通りは思いのほか賑わっていて、生活感が漂っている。かつては旧フジテレビが近くにあり、日中も賑わっていたようだ。
(念仏坂)
私の出張場所に程近いこの辺り。
新宿界隈ではここだけという、昔ながらの商店街である曙橋通り。夕刻のこの通りは思いのほか賑わっていて、生活感が漂っている。かつては旧フジテレビが近くにあり、日中も賑わっていたようだ。
(念仏坂)
(福岡県太宰府市五条)
『筑前国風土記』に、「この地谷間にありていと閑寂なる境区なり 堪慧の墓は横岳に行く道の傍にあり此所入定の地なる故に石塔を立てしそのしるしとする」とある。横岳崇福寺を創建した僧堪慧(たんね)は、とある神事から疫病を引き起こす鬼に仕立て上げられた。そして堪慧は、この地に自ら横穴を掘り、読経を続けた末、即身仏となったと伝えられている。現在の旭地蔵尊は、堪慧の墓所に祀られたものという。
『筑前国風土記』に、「この地谷間にありていと閑寂なる境区なり 堪慧の墓は横岳に行く道の傍にあり此所入定の地なる故に石塔を立てしそのしるしとする」とある。横岳崇福寺を創建した僧堪慧(たんね)は、とある神事から疫病を引き起こす鬼に仕立て上げられた。そして堪慧は、この地に自ら横穴を掘り、読経を続けた末、即身仏となったと伝えられている。現在の旭地蔵尊は、堪慧の墓所に祀られたものという。