(しょうへんづか 愛知県新城市一鍬田字実盛 市指定史跡 1982年再踏査)
豊川水系宇利川沿いに位置する、直径約8m,高さ1.7mの古墳時代後期の円墳であり、石室石材が一部露出している。小便塚と称する場合もある。
(こうたりじんじゃ 京都府長岡京市東神足)
旧神足氏が居城した神足城の一角であり、神社前方には堀と土塁が残っている。平安時代の記録「延喜式」に、乙訓(郡)十九座の一社として確認できる。社伝によると、斉衡元年(854)国の官社とされ、祭神は舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の皇子)としている。また、「桓武天皇の夢」という伝説が残る。田村の地(神足)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いだ夢を見た。天皇は目覚め、田村にこの神を祀る社を建てさせ太刀と絹を秘蔵させた。以後、この社は神足神社と呼ばれ、付近の地名にもなったという。
(北海道函館市元町)
安政元年(1854)アメリカのマシュー・カルブレイス・ペリー率いる黒船5隻が箱館に来航した。その来航150周年を記念して、平成14年に旧市立函館病院跡にペリーの立像が建てられたものである。ペリーは鎖国政策を敷いていた徳川幕府に対し開国を求め、日米和親条約の締結によって箱館は開港された。
(函館病院跡)
(愛知県豊橋市石巻本町紺屋谷 県指定史跡 1982年再踏)
複室構造の石室は全長17m(羨道(せんどう:入口と石室を結ぶ通路)部含む)、高さ約3mを測る。
(関連記事:馬越長火塚古墳平成2年 平成21年 口明塚南古墳昭和57年 平成21年)
(京都府長岡京市勝竜寺 日本の歴史公園100選)
南北朝時代以前に現在の神足神社付近に築城された、神足氏に拠る神足城を起源とする。その後、山城守護畠山義就(よしなり)によって、乙訓(おとくに)郡代役所として利用された。そして、松永久秀の城となり、三好長慶(ながよし)の死後、久秀と三好三人衆が対立すると、勝龍寺城は三好勢によって攻略され、三人衆の岩成友通が城主となった。永禄十一年(1568)には上洛した織田信長らによって勝龍寺城は落城した。元亀二(1571)信長の家臣となった細川藤孝(後の幽斎)が城主となり、城郭が拡大され、旧神足城を取り込んだとされる。天正六年(1578)には藤孝の子忠興と明智光秀の娘玉(後のガラシャ)との婚礼がこの城で行われている。天正十年(1582)山崎の戦いでは光秀が入城したが、光秀は羽柴秀吉に敗れ、勝龍寺城も落城し、淀城築城の建築資材として転用された。その後、寛永十年(1633)に永井直清が二万石で山城長岡藩として城を再興(隣接地に陣屋として)した。然し、慶安二年(1649)永井氏は摂津高槻に転封となり廃城となった。昭和63年の発掘調査の後、平成4年、城跡の一部は公園として整備され、模擬櫓等が建てられた。
(本丸西側土塁)
(沼田丸)
(本丸北門跡)
(忠興とガラシャ)
(神足屋敷土塁)
(すじかいばしどおり 伏見街道 京都市伏見区深草)
京都五条から伏見京町通に至る街道である。直違橋通は深草付近だけの呼称であり、七瀬川に架かる四ノ橋が川と筋交い状に交差していたため、こう呼ばれるようになった。
(伏見稲荷)
(七瀬川)
(北海道函館市元町)
元町公園には「函館四天王像」がある。函館四天王とは次の四人である。左から、今井市右衛門 天保7-明治20年(1836-1887)函館で西洋雑貨店を開き、北海道最初の新聞社の北溟社(ほくめいしゃ)を設立した。また、医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれぬ人のための鶴岡学校を創立する等の私財を投じた。
平田文右衛門 嘉永2-明治34年(1849-1901)呉服太物商を営みながら、造船所、器機製作所、学校、病院、新聞社の設立等をした。
渡邉熊四郎 天保11-明治40年(1840-1907)明治2年に金森洋物店を開き、また書店、海運業を起こし、函館病院を再建した。
平塚時蔵(天保7-大正11(1826-1922)函館の平塚家の養子となり、呉服太物、西洋雑貨の販売を行い、私財を投じて慈善事業に貢献した。
(愛知県豊川市為当町 1982年踏査)
十三塚(じゅうさんつか・とみづか)は、中世に十三仏信仰(死後の世界に行くための審理をする仏)あるいは供養塔として日本各地に築かれた墳墓状の構築物である。為当の十三塚は、音羽川沿いに三基が現存し、付近には平安時代の条里制が存在していた。
塚上に建てられた「石神井社旧跡」碑と五輪塔等残欠)
(※写真の光景は昭和61年からの圃場整備事業により失われました)