(富山県高岡市伏木古国府)
伏木の台地は律令時代に国府が置かれていた地である。国庁が置かれていたとされる地点はその後、神保氏の城郭、古国府城(如意城)となり、天正十二年(1582)からは勝興寺がこの地に移転した。また、伏木特別地域気象観測所となっているところには国司館があったとされる。 天平十八年(748)大伴家持が国司となった際には、国府の台地からの光景を歌として詠んでいる。
我が背子が 古き垣内の 桜花 いまだ含めり 一目見に来ね
雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて送らむ はしき子もがも
春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子
吾が園の 李の花か 庭に散る はだれのいまだ 残りたるかも
春まけて もの悲しきに さ夜更けて 羽振き鳴く鴫 誰が田にか住む
もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ 寺井の上の 堅香子の花
夜ぐたちに 寝覚めて居れば 川瀬尋め 心もしのに 鳴く千鳥かも
あしひきの 八つ峰の雉 鳴き響む 朝明の霞 見れば悲しも
朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人(勝興寺を取り巻く堀と土塁)
(国司館跡)
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(北海道函館市船見町 函館市景観形成指定建造物)
明治41年(1908)ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールによって築造された、木骨煉瓦造二階建、延床面積682㎡の領事館である。昭和27年(1952)からは日本の外務省の管理となり、昭和40年からは市立道南青年の家として利用されたが、平成8年を最後に閉鎖されている。
(愛知県豊橋市瓜郷町寄道 国指定史跡 1983年踏査)
豊川(とよがわ)河口付近の砂州上に形成された、弥生時代中期から古墳時代にかけての遺跡である。昭和22年から27年にかけて発掘調査が行われ、農耕具や貝殻等が検出されて豊かな生活であったことが分かった。訪れたこのときは、再現された竪穴式住居の屋根葺き替えが行われていた。
(愛媛県今治市喜多村・衣干・富田新港・東鳥生町)
「国府津」とは、律令時代における国府の水運拠点を意味する。瀬戸内海燧灘に面する銅川(あかがねがわ)、竜登川の河口は、伊予国府時代の湊であったのではないかという説がある。
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(奥州合戦 岩手県奥州市衣川区・西磐井郡平泉町平泉)
文治五年(1189)北上川と衣川が合流する地、衣川館付近で繰り広げられた、源頼朝に従った藤原泰衡によって源義経が最期を迎えた戦いである。東物見台は中尊寺に設けられた。
(富山県高岡市伏木一宮 県指定史跡)
天平十三年(741)聖武天皇の詔(みことのり)によって、日本全国に国分寺が造営され、越中国分寺もその一つである。昭和11年、41年、61年、平成元年に発掘調査が行なわれ、布目瓦が検出されている。金堂あるいは講堂とみられる基壇跡には薬師堂が建ち、堂内には平安時代初期の神将像が安置されている。
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(北海道函館市船見町)
享禄三年(1454)津軽の安東政季(まさすえ)、相原政胤(まさたね)、武田信広、茂別家政と共に、河野政通は蝦夷地宇須岸に渡来し、館を構えた。アイヌ勢に何度となく攻められ、永正九年(1512)の攻撃で陥落し、政通の子季通(すえみち)と娘を逃がして政通は自害した。政通の孫娘は蠣崎季広の妻となり、二人の間の子は松前藩初代の松前慶広である。宝暦三年(1753)時の亀田奉行は、政通の供養碑を旧称名寺(市内弥生町)の境内に建立した。
(愛知県宝飯郡御津町上佐脇字西 町指定史跡 1983年再踏)
昭和7年(1932)土取りの際に発見された、縄文時代晩期末(三河編年水神平式)から弥生時代後期にかけての遺跡である。昭和40年(1965)の発掘調査によって、甕棺、壺棺が検出され、埋葬の場であることが分かった。
(しこつこ 北海道千歳市 支笏洞爺国立公園)
支笏湖は周囲約40km,最大水深363mのカルデラ湖である。アイヌ語で シ(大きな)・コッ(凹み)・トー(湖)を意味し、溢れ出た水は千歳川・石狩川となって道央、石狩平野を潤している。因みに「シコツ」は「死骨」を想像させるために、地名としては「千歳」に改められた。(恵庭岳1320m)
(樽前岳1041m・風不死岳1103m)
次第に風が強く、波が高くなってきた。
(臨済宗正法山妙心寺 京都市右京区花園妙心寺町)
建武四年(1337)花園法皇(第九十五代花園天皇)の花園御所を妙心寺として改めたのが始まりである。応仁の乱(1467-77)の際に焼失するが、雪江宗深及び細川勝元により復興していった。臨済宗の中で最も多く末寺を持ち、浸透している一派である。
(霊雲院)
(重文 仏殿 文政十年)
(重文 経蔵 寛文十三年)
(重文 法堂 明暦二年)
(花園天皇離宮跡玉鳳院)