業務委託、指定管理が進む中、民間が運営を行う場合、図書館単体での運営は、特筆する付加価値も利益も生まないと考える。比較的近い関係にある博物館、美術館、その他文化施設との連携、さらに学校教育、職業訓練、生涯教育、福祉施設等との密接な連携及び、それら施設とトータル的なマネジメントを行ってこそ、利用者に対しての新たな付加価値、限られた予算の運用が図れると考えている。また、委託などといった自治体主体の偏ったマネジメントはやめ、予算が安定している自治体は、自治体独自での運営、或いは非営利法人での運営を図り、負債の多い自治体は、設置、運営から所有まで、できる限り総合コストが節約できる一社体制の民間が代わって行い、自治体に施設を貸すといったことまで行うのが現状の教育文化行政において妥当であろうと感じている。そして、予算の節約目的で自治体から受託されただけの民間企業は、その価値の少なさから淘汰されていくことであろう。
以前、そのまちを底辺から知るなら、駅、職安、図書館を見ればわかると言ったことがある。図書館はあまねく人を迎え入れ、全ての人に公平に情報を知る機会を与えている。然し、綺麗事だけを言っても始まることではない。図書館はリタイア・セミリタイアの人たちの拠り所と言っても過言ではないと感じる。悶々とひたすら本を読み、読書が趣味なだけなら未だしも、何も活かされるわけでもなく、活字しか信用できないような狭い視野となるようなら、提携する職業訓練や本人に似合ったサークルを紹介し、将来の納税につなげることが、最善の策の一つであろうと考える。図書館は本人自身の学習意欲を尊重すると言うが、現状は中途半端なサービスとなっていて勿体無い状況と言える。レファレンスサービスも、誰もが自らパソコンによって情報を得ている時代に、それ以前と同じ価値があると考えにくい。選書やテーマ展示も、書店でも同様のことを行っている。これでは利用者から、売本屋に対して貸本屋と言われても仕方がないだろう。図書館で学習するきっかけを得た利用者が、もう一歩誘導、方向付けをさせることが、双方のプラスになることは明らかである。また、図書館が他の施設と密に提携することも重要であるが、図書館の中あるいは図書館員が各種教育資格を持ち、利用者のために行動をとれるようにできることが理想と言えるであろう。縦割り行政の弊害を打破するため、各種施設や教育部門等に多数の民間人を入れ、総合的に教育文化を整備する必要もあろうかと考える。図書館は単体の持ち物の「図書館」ではなく、あらゆる教育部門の書棚・書庫であるべきと考える。
私が各地を訪れて感じることがある。図書館に観光案内所があればと。私が今まで訪れた45都道府県582自治体で、平日は役所へ、休日は図書館に訪れてそのまちの状況を把握しているが、特に民間企業が参入してからその地の詳しいことが分かりにくくなり、住民の方々に聞くことが多くなっている。そこで、図書館が観光案内所を兼ねていれば、平休日問わず、そのまちのことを訪れた人のコアな要望まで所蔵している資料を使って案内することができ、ひいてはそのまちの活性化に繋がるのではないかと経験上感じている。名所旧跡や歴史などを観光地向きにわざわざピックアップしなくても、資料を使ってその人に合ったものをレファレンス技術で紹介できれば、訪れた人はきっと満足できるであろう。
(大入山古墳 愛知県豊川市国府町山ノ入 1990年3月23日踏査)
宮路山系遠見山の支丘、標高72mの大入山に位置する古墳である。直径10m程の墳丘は、土砂の流出によりかつての高さは分からなくなっているが、内部構造は竪穴式礫郭で、外部施設に埴輪(円筒・人物)を持つ。築造時期は遺物から6世紀末と推定されている。
大入山から国府・音羽川・弘法山を望む
(岐阜県多治見市東町 1990年3月25日)
土岐市を散策した後、一昨年開館した陶磁資料館を訪れた。元々は市内陶元町にあった岐阜県陶磁器陳列館が前身で、収蔵と展示の拡大により現在地に移転、RC造1階建、床面積1350m2の施設となった。先程訪れた元屋敷古窯 清安寺古窯 窯ヶ根古窯、隠居山等で出土した陶片も収蔵、展示されている。
(滋賀県長浜市北船町 2004年6月6日)
長浜駅の南側、北陸線沿いに古い建物がある。旧長浜駅であるこの建物は、明治15年(1882)に築造された、木骨コンクリート造2階建の初代駅舎(現存最古・鉄道記念物)である。明治36年(1903)現駅の位置に二代目駅舎が完成し、初代駅舎はその後、長らく倉庫として使用された。昭和58年(1983)からは、旧長浜駅舎資料館として開館し、平成12年には長浜鉄道文化館が併設された。訪れたこのときは、前年に北陸線電化記念館が新たに併設され、1942年製造のD51793と、1957年製造のED701が展示されていた。
(佐世保鎮守府貨物線 長崎県佐世保市)
佐世保川に両側をフェンスで閉ざされた鉄橋が架かっている。これは明治31年(1898)に開通した九州鉄道が、佐世保駅と佐世保鎮守府及び赤崎岩壁の間に敷設した貨物線の跡である。終戦間もなく旅客化の計画が持ち上がったが、朝鮮戦争が勃発し米軍に接収され、燃料輸送のためJapan Oil Storage Co. (ジョスコー)まで延長され、ジョスコー線と呼ばれるようになった。然し、自動車輸送に転換されたため、昭和53年(1978)に廃線となった。但し、昭和59年(1984)まで、佐世保駅からこの平瀬橋までは、機関車交換のため使用されていたが、道路拡幅のため路盤が撤去され、鉄道の名残を見せるのはこの橋だけとなった。
(神奈川県鎌倉市腰越)
片瀬海岸の東方、小動岬(こゆるぎみさき)の周辺を腰越(こしごえ)と呼ぶ。伝説に、深沢の湖(藤沢市境付近にあったとされる湖)に棲む五頭竜が、この地においてこの地の子どもを飲み込み、峠を越えて湖に帰っていったことから、「子死越え」が腰越になったという伝説がある。
(愛媛県越智郡玉川町八幡字日坂 旧県社 1985年6月15日)
貞観元年(859)河野深躬が勝岡(松山市和気)に勧請し、勝岡八幡宮と称したという。永承年間(1042-56)伊予守源頼義と謀って社地を伊加奈志神社に接するこの地に移し、山城国男山八幡宮の社殿を模して建立、石清水八幡宮と改称したとされる。祭神の誉田別命(ほんだわけのみこと)が神仏習合によって八幡大菩薩(阿弥陀如来)の 本地垂迹(ほんちすいじゃく:化身)として扱われ、第五十七番札所栄福寺と習合、然し、明治の神仏判然令によって栄福寺は移転した。
今治市街地方面を望む
(愛知県岡崎市西本郷町御立 旧県社 1990年3月22日)
和志山古墳の被葬者とされる五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ)を祭神として祀る社として創立したとされる。平安時代には式内社であったとされ、その後衰退し、社名も本郷大明神、瀬部明神、蝉神社、天王社、長谷部神社と変遷したが、境内社の中にワシ取ノ社が存在したこと、明治21年(1888)隣接する蓮華寺において、延喜年間作とされる和志取神像が発見されたこと等により、和志取神社の名が復活している。
(北国街道 長野市大門町 2003年4月13日)
善光寺の門前町であり、中山道追分宿から北国街道高田宿に至る善光寺街道の宿場町でもある。写真は、大正13年(1924)建造の木造三階建て「御本陣藤屋旅館」。