(奈良県橿原市畝傍町 2006年1月17日)
神武の叢程近くに、高松塚古墳や藤ノ木古墳、飛鳥京等の奈良県内の埋蔵文化財を発掘調査研究する橿考研はある。昭和13年(1938)皇紀二千六百年記念事業の橿原神宮外苑整備事業に伴い、奈良県史蹟名勝天然記念物調査会委員末永雅雄氏が橿原遺跡の調査を担当し、奈良県工事事務所の一画に調査事務所を設けて、橿原考古学研究所の創立記念日としている。昭和15年(1940)原田積善会等の寄付により後の附属博物館となる大和国史館が設立され、昭和24年(1949)大和国史館が大和歴史館と改称された。昭和25年(1950)文化財保護法の施行に応じて、埋蔵文化財調査研究機関となり、昭和45年(1970)大和歴史館を橿原公苑考古博物館と改称。昭和48年(1973)橿原公苑考古博物館が奈良県立考古博物館として橿原公苑事務所から独立し、昭和49年(1974)には奈良県立考古博物館が研究所附属考古博物館となり、昭和55年(1980)附属考古博物館を附属博物館と改称され現在に至っている。
(くげぬま 神奈川県藤沢市鵠沼)
藤沢宿の南、かつて鵠(くぐい:白鳥)の棲む沼があったことから、鵠沼と呼ばれるようになったという。この地は鎌倉に程近いため、鎌倉時代には権力者達に翻弄された。人口が増えたのは昭和8年(1933)小田急江ノ島線開通後からである。
(神奈川県藤沢市藤沢)
藤沢宿の北側斜面に鎮座する白旗神社は、鎌倉時代に相模国一宮の寒川神社の寒川比古命(さむかわひこのみこと)を勧請したのが始まりという。その後、源義経を合祀したという。かつては真言宗白王山荘厳寺が神宮寺(別当寺)であったが、神仏判然令によって近隣本町に移転している。境内には、そのときの名残で石仏や庚申塔等が並んでいる。
(名古屋市中区錦 国登録有形文化財 2006年1月1日)
昭和6年(1931)堀川納屋橋の袂に築造された、RC造3階地下1階、延床面積310m2の貿易会社社屋である。戦時中はタイ領事館が併設され、昭和42年(1967)からはミツカン中埜酢店倉庫となった。平成12年に名古屋市に寄贈され、復元改修の後、市民ギャラリー等に活用されている。
(東京都世田谷区等々力)
目黒通りの近くに石碑が建つ。九品仏川の支沢で長衛門窪といい、かつては断崖であったが、昭和3年(1928)玉川全円耕地整理によって削平され、更にその後の都市化で面影はなくなった。
僅かな窪み
(名古屋市守山区志段味字東谷・瀬戸市十軒町 旧郷社 2006年1月1日)
名古屋市最高峰標高198mの東谷(とうごく)山頂に鎮座する旧式内社の尾張戸(おわりべ)神社は、社伝によると成務天皇五年(135)日本武尊(やまとたける)の妃、宮簀媛命(みやずひめのみこと)によって、天火明命(あめのほのあかりのみこと)、天香山命(あめのかぐやまのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと:宮簀媛姉)を祀り創建されたという。その後、同所に祭神の子孫である尾張部(尾張氏)の墳墓(尾張戸・中社・南社古墳)が築かれた。平安時代の「延喜式」に記載があり、神宮寺を伴う式内社として繁栄したが、大永元年(1521)火災で焼失し、その後、斯波氏や徳川氏によって再興されている。また、当国明神(尾張国、後に東谷と記載)や、熱田神宮の奥の院、名古屋城鬼門の守護神等と称された。訪れたこの日は元日であったため、普段ひっそりとしているであろう神域も、人々の動きがみられた。
(東京都世田谷区深沢)
世田谷南東部は沢の付く地名が多い。その中でも呑川の奥深い沢であったこの地は深沢と呼ばれた。中世は北条氏臣南条氏の領地となり、その後帰農して農地化された。終戦直後、戦災した住民のために都営団地が造られ、次第に付近に商店街が造られ、「エーダンモール深沢」が形成された。然しながら、計画された目黒通り地下鉄が実現しなかったため最寄り駅から遠く、シャッター通り商店街となっている。
(名古屋市守山区白鳥 市指定史跡 2006年1月1日)
高蔵寺から庄内川を渡り、左に曲がると右手に白鳥1号墳がある。8基からなる古墳群で、1号墳は両袖式の横穴式石室が開口し、直径17m,高さ3.5m,石室の奥行きは9.8mであり、大正時代に発掘された後、昭和36年(1961)に再調査され、須恵器、馬具等が出土した。古墳時代後期の古墳である。
(三重県鳥羽市鳥羽 2005年12月31日)
伊勢湾を見下ろす日和山に無線電話発祥記念碑が建つ。昭和36年(1961)日本電信電話公社東海電気通信局が建てたものである。明治36年(1903)デンマーク人科学者プールセンにより電弧(アーク)を利用した無線電話が発明され、日本でも逓信省電気試験所の鳥潟右一、横山英太郎、北村政治郎が研究を進めて、明治45年(1912)特殊電極と直流を使用する火花式発振器と鉱石受信機等を利用した世界最初の無線電話送受装置を完成させた。大正3年(1914)には、鳥羽~答志島~神島間の連絡用として世界で初めて実用化に成功し、名古屋、四日市両港に出入する船舶の公衆用通信にも使われた。