(岐阜県大垣市墨俣町墨俣 2007年4月10日)
弘仁年間(810-24)のある日の夜、長良川の橋脚が光っており、その造形が地蔵菩薩のようになっていたという。それを祀ったのが始まりと伝わる。その後、小野篁(おののたかむら)が彫り直したとされる。天慶二年(939)朱雀天皇の勅使が訪れ和歌を詠んだ際、地蔵菩薩が笑みを浮かべたことから、橋杭笑地蔵と呼ばれるようになったという。大治元年(1126)真言僧覚鑁(かくばん)が訪れ、真言宗密厳院明台寺となった。寛喜元年(1229)浄土宗に改宗されている。
(みくみざか 東京都文京区湯島)
元和二年(1616)徳川家康が死去した際、三組の者(中間・小人・駕籠方)にこの地を与えたことに由来する。元禄九年(1696)付近は三組町となり、昭和40年(1965)に湯島に統合された。
(岐阜県大垣市墨俣町墨俣 2007年4月10日)
寛和年間(985-7)天台宗の寺院として葉栗郡門間(愛知県一宮市木曽川町)に創建したのが始まりという。嘉禎元年(1235)熊谷直照により浄土真宗に改宗され、天正元年(1573)現在地に移された。
(岐阜県大垣市墨俣町墨俣 旧式内社 旧郷社 2007年4月10日)
延喜式神名帳に「墨俣大神」として名が見えることから、平安時代には存在したことが分かる。祭神は墨俣(すのまた)大神であるが、誰を指すのか不詳である。因みに墨俣は、長良川と犀川の合流点付け根を意味する「州俣」に由来するとされる。昭和10年(1935)犀川の長良川との分離開削によって現在地に遷座している。
(大阪市天王寺区堀越町 2007年4月8日)
かつては四天王寺の境内堂宇であった庚申堂は、大宝元年(701)正月七日庚申の日、豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救おうと一心に天に祈ったところ、帝釈天のお使いとして童子が出現し、除災無病の霊験を示したのが始まりとされる。以後、庚申の日に祈る行事が全国に広まったという。庚申堂は空襲により焼失したが、本尊の青面金剛は秘仏として残る。堂の前に三猿の石像があり、私の母方の先祖が天明三年(1783)に奉納したものである。
(東京都台東区上野公園 国指定重要文化財)

明治23年(1890)東京音楽学校(1952-東京藝術大学音楽学部)の校舎として築造された、木造2階建、延床面積1,851m2の音楽ホールである。昭和62年(1987)東京都に譲渡され、現在地に移築し、音楽ホールとして利用されている。

