京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

共食はコミュニケーションの一つ

2008年07月27日 | 日々の暮らしの中で
マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心」との言葉を紹介されて、比叡山仏教文化講座で渡辺和子さんが講演された記事を目にした。「他人への無関心」を問題視されて。(京都新聞 7月27日付)

インターネットや携帯メールなど、人の顔が見えない、実感も希薄なコミュニケーションの現代の風潮に、大きな指摘だと感じます。
人と人とのかかわりが希薄な中では、人を思いやる、温かな心などは育ちにくいことでしょう。
自然や動物に心を寄せ、映画・音楽に、読書にと、様々な文化に触れながら、感動したり共感することが心を育て、それが生命力を培うとさえ言えると思うのです。

「まっとうなスポーツ少年」のイメージで、ハニカミ王子の石川遼選手が人気です。
「まっとうな普通」と言うのは「ひととして」という規範を厳しく律するところに保たれてくる姿なので、実は大変なことであるという。そうでしょう...。

イチロー選手から「がばいばあちゃん」に至るまで、多種多様なヒーローに共通するものとして、「自己を超越する力」と「共感する力」を挙げています(『現代ヒーロー学 11』京都新聞)。決して一握りの天才だけでなく誰もが育み輝かせることのできる力として。

現代の困難は一人で背負うには重すぎる。だから周りにいる普通の人が、個々に発揮する力と力をつなぐ、個と個をつなぐ絆こそが明日への希望になるだろうと言うのです。

狭い小さな枠から目をあげて、自分の周りの人にもっと目を向けてみたいものだ。

派手ではないが心の目には見える妙なる光を放つ「凄い人」がいるという。
浄土真宗では『妙好人みょうこうにん』というようだ。
世俗の泥沼に咲く「白蓮華」を意味するとして、無名で学問のない人でありながら信心の境地ではすぐれて高い所に達した人たちをいい、市井の篤信者だ。
こういう人から学ぶことだ。

人間は共感と、類人猿にはまだ確認されていない「共食」をすることで、人間独自の社会性を獲得したそうな。共食とは、他人とともに食べるという一つのコミュニケーション。

人は一人では生きられない、人に無関心であってはいられないはずです。
人とつながることをもっと大切に考えて、自分が言葉を発してみたいものです。
近くの人に、近況報告?、ご無沙汰の方に暑中見舞いのはがきもいいですよね。

会食の場も持って、うんと交流を図るのもいいですね。

コメント (2)
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