昨日は青い空をうろこ雲が飾って、秋らしい空気に満ちた朝でした。が、予報通り、午後から雨に。
雨はきょう一日、しとしとしとしと降り続きました。どこへ行く予定もなく、完全休養と言えもしますが、じっと家にいるのは案外疲れます。
机に向かったり、横になったり…。
朝刊の読者投稿欄に「ら抜き言葉 訂正に違和感」と題された、60代半ばの男性による一考が掲載されていました。ちょっと引っ掛かりをもって読み終えました。
【テレビ番組でインタビューされた人の言葉が、画面下に字幕で流れるが、本人が「ら抜き言葉」で喋っていても、字幕では「訂正」されて表記される。例えば、〈ご飯が食べれなくなった〉と喋っているのに、画面では〈ご飯が食べられなくなった〉とされている。
これに、しばしば違和感を覚える。日本人の多数が前者(ら抜き言葉)をネイティブの日本語として使っているにもかかわらずだ。文法として適格かどうかという議論は置くとして、少なくとも本人が正しいと思っていったことを了解もなく勝手に「訂正」するのは、その人の表現行為を無視することではなかろうか】
おおむねこうした展開の内容です。
私も字幕では「訂正」があることに気づいていました。
個人の表現行為を無視することだ、といった視点では考えが及ばなかったですが、私などはむしろ良識的だと感じているくらいです。
聞いていて、「ら抜き」は不思議と敏感に耳に引っ掛かります。それこそ違和感がある。言葉が時代の中で変遷することは理解していますが、「ら抜き」はヘンです。「ネイティブな日本語として」? そうなんでしょうか。
自分でできることとは、嫌いな言葉は使わないということです。
いいブログにお目にかかりました。いいですね~。
まさに言われる通りだとおもいます。
全ての人が映像に乗って画面に現れる現代社会ですから、正しい日本語に気を付けることは必須です。
本人が云ったからのだからそのまま使うことが良しとは到底考えられません。
せめてこうして、文字を書いて人目に晒す行為の私たちは、気を付けたいものですね。
正しいことは助長!間違っていることは間違っている。それが、世界を舞台に現代を生きる日本人の心構えですよねー。
「ら抜き」はしばしば耳にしますね。
さすがに文章上では推敲されチェックも入るでしょうが、
おかしな日本語が蔓延するのは困りものです。
字幕での訂正は、ことば、表現行為への大切な示唆に富むと思うくらいです。
公共の電波に乗せて発信されるのですし、正しい理解を周知するのに遠慮はいりません、な~んて。
この男性の主張にはうなづけませんでした。
朝から冷たい雨、台風の前の不気味な静けさも感じます。
久しぶりにコメントさせていただきます。
「ら抜き」話し言葉、気になりますねえ。
TVの字幕では「訂正」されているのに気づいていましたが、正しい
美しい日本語を守るためには当然のこと。
「表現の自由云々」は当たらないでしょう。
日本語の乱れは、目に余ります。
言葉の乱れは文化の乱れ(崩壊)に通じます。
秋の長雨も台風と重なり心配ですね。
時折強い風が吹きまして、古い窓枠をガタピシさせています。
リュウさんも報道の世界でお仕事なさってこられただけに、言葉への思いは深く強いものがおありでしょうね。
時代の流れだからと、違和感満載の言葉がまかり通ることはどうにも馴染めません。
「訂正」は当然のこと、ですね。
そういえば河野裕子さんが、「勇気をもらう」の「もらう」の使い方に
厳しい言葉で苦言を呈しておられたのを思い出しました。
ブログの再開、お待ちしております(首も伸びかけて、寒くなってきました)。
私も文章では書かないと思いますが
会話では自信がありません。
NHK放送文化研究所>迷った時ここへ質問したり
参考にしたりも致しました(むかしのことです)
このサイトの冒頭部分です
「ことばの研究」
現代日本語の実態調査、放送表現の改善のための研究、日本語共通語の背景と現状分析のための調査研究、放送用語のデータベース化。
述べておられる「訂正」問題も細かい基準に
則ってなされているとおもいます。
こんなことまで決めているのか・・・と言うことも感じました。
良く思うのは「早急」でした。
「ソウキュウ」の読みが広く行われていても「サッキュウ」が標準で、
NHKでも「サッキュー」と読むことが決められていると。
「ら抜き」言葉は話し言葉の中で変化を示してますね。
確かに使う人は多いと聞いたことがありますが、そもそもオカシナ言葉遣いです。
どちらとも決められない問題ではなく、「訂正」しながらでも
正しい使い方を示していくことは必要なことだと思っています。