このブログにアクセスしていただいたみなさん、あけましておめでとうございます!
今日はお正月らしい話題に触れてみたいと思います。
少し長い文章ですが、読んでいただければ幸いです。
その瞬間、アクロポリスの丘は、鮮やかな光と音が交錯する中、激しく華やかに花火が打ち上げられ、それを見上げる数十万の群衆の歓声に包まれていた。
アクロポリスの丘を取り囲むようにして走る広いディオニシウ・アレオパギトゥ通りはアテネっ子で身動きできぬほどの混雑であった。私と息子はその群衆の真っ只中で2000年1月1日を迎えたのだった。
翻ること31年前。1969年1月1日、私はギリシアのアテネにいた。
当時、北海道の教育大学の学生だった私は、前年の6月、大学を休学し、ヨーロッパ彷徨の旅に出て、ギリシアに辿り着いていたのだった。
そこで私はアテネの象徴であるパルテノン神殿に出会い、その圧倒的な存在感にいたく衝撃を受けたのだ。
そのパルテノン神殿が建つアクロポリスの丘に再び立ってみたい。しかも、当時の私と同年齢になり、同じ教育大学に学ぶ息子と二人で…。
願いは叶い、私と息子はアテネの地に立った。
しかし、30年という月日は、私の中に微かに残るアテネの残像を消し去るのに十分の月日だったようだ。
あの素朴さはどこに行ったのか・・・。
あの猥雑さはどこに行ったのか・・・。
どこかに田舎の匂いは残るものの、アテネは見事に変身を遂げ、近代都市の装いをほどこしていた。
無理もない話だ。この30年は、歴史上でも人類が最も文明的に進化・発展した時代だったのだから・・・。
そうした中で、パルテノン神殿だけは、30年前の私の記憶と変わらぬ姿でそこに建っていた。
私と息子は、入場解禁となった1月4日、パルテノン神殿の前に立った。
ドリア式の円柱が林立する様に接した時、改めて先人の偉大さに感嘆する思いだった。
一方、円柱の側にころがる大理石のかけらが目に付いた。
1687年、トルコ支配時代に戦争によって破壊された痕跡であるという。
思えば世界的な歴史遺産に限らず、人間の造営物が戦争という愚かな行為によって、どれだけ破壊され、傷つけられたことか・・・。
願わくば、2000年代は戦争などという言葉がこの世から消え、パルテノン神殿をはじめとする世界の歴史遺産が永久に存在し続けることを祈りたい。
今回の旅はまた、私にほろ苦い思いも提供してくれた。
30年前の私は、いささかの気概と気負いを抱きながらヨーロッパに旅立ち、少ない金を工面しながら彷徨を重ね、ギリシアに辿り着いた。私の中には、旅に対する格別の思いがあった。
それに対して、息子のそれは観光旅行的な範疇から外れるものではなかった。父親の気負いと、彼の気持ちはすれ違うばかりであった。
無理のないことかもしれない。育った時代も違えば、状況も違う。父親の思いを受け止めろ、という方が無理な注文だったのかもしれない・・・。
30年という時間はまた、日本における世代間の価値の相違を映す旅でもあった・・・。
上記の文章は、某週刊誌が募集した懸賞論文にたまたま合格することができて、ギリシアを訪れた後の報告文として週刊誌に掲載された文章です。
いくらノー天気な私でも、あのような偉大な歴史遺産の前に立つと、それを簡単に壊してしまう戦争の愚かさに気付かされます。
昨日(31日)、テレビの「サンデーモーニング」(TBS系列)で「戦争なぜ起きる…世界の声」という特集が組まれていました。
その中で、評論家の寺島実郎さんが「力の論理で物事の解決ができないということを知った21世紀初頭」という趣旨のことを言っておりました。
寺島氏の言うように、世界(の指導者たち)が力の論理の限界を知ったのだとしたら、新たな価値(論理)を見出そうとする胎動を期待できるということでしょうか?
新たな価値の胎動を感じさせてくれる2007年
潮目が変わりつつあることを感じさせてくれる2007年
であることを願った2007年1月1日でした。
今日はお正月らしい話題に触れてみたいと思います。
少し長い文章ですが、読んでいただければ幸いです。
その瞬間、アクロポリスの丘は、鮮やかな光と音が交錯する中、激しく華やかに花火が打ち上げられ、それを見上げる数十万の群衆の歓声に包まれていた。
アクロポリスの丘を取り囲むようにして走る広いディオニシウ・アレオパギトゥ通りはアテネっ子で身動きできぬほどの混雑であった。私と息子はその群衆の真っ只中で2000年1月1日を迎えたのだった。
翻ること31年前。1969年1月1日、私はギリシアのアテネにいた。
当時、北海道の教育大学の学生だった私は、前年の6月、大学を休学し、ヨーロッパ彷徨の旅に出て、ギリシアに辿り着いていたのだった。
そこで私はアテネの象徴であるパルテノン神殿に出会い、その圧倒的な存在感にいたく衝撃を受けたのだ。
そのパルテノン神殿が建つアクロポリスの丘に再び立ってみたい。しかも、当時の私と同年齢になり、同じ教育大学に学ぶ息子と二人で…。
願いは叶い、私と息子はアテネの地に立った。
しかし、30年という月日は、私の中に微かに残るアテネの残像を消し去るのに十分の月日だったようだ。
あの素朴さはどこに行ったのか・・・。
あの猥雑さはどこに行ったのか・・・。
どこかに田舎の匂いは残るものの、アテネは見事に変身を遂げ、近代都市の装いをほどこしていた。
無理もない話だ。この30年は、歴史上でも人類が最も文明的に進化・発展した時代だったのだから・・・。
そうした中で、パルテノン神殿だけは、30年前の私の記憶と変わらぬ姿でそこに建っていた。
私と息子は、入場解禁となった1月4日、パルテノン神殿の前に立った。
ドリア式の円柱が林立する様に接した時、改めて先人の偉大さに感嘆する思いだった。
一方、円柱の側にころがる大理石のかけらが目に付いた。
1687年、トルコ支配時代に戦争によって破壊された痕跡であるという。
思えば世界的な歴史遺産に限らず、人間の造営物が戦争という愚かな行為によって、どれだけ破壊され、傷つけられたことか・・・。
願わくば、2000年代は戦争などという言葉がこの世から消え、パルテノン神殿をはじめとする世界の歴史遺産が永久に存在し続けることを祈りたい。
今回の旅はまた、私にほろ苦い思いも提供してくれた。
30年前の私は、いささかの気概と気負いを抱きながらヨーロッパに旅立ち、少ない金を工面しながら彷徨を重ね、ギリシアに辿り着いた。私の中には、旅に対する格別の思いがあった。
それに対して、息子のそれは観光旅行的な範疇から外れるものではなかった。父親の気負いと、彼の気持ちはすれ違うばかりであった。
無理のないことかもしれない。育った時代も違えば、状況も違う。父親の思いを受け止めろ、という方が無理な注文だったのかもしれない・・・。
30年という時間はまた、日本における世代間の価値の相違を映す旅でもあった・・・。
上記の文章は、某週刊誌が募集した懸賞論文にたまたま合格することができて、ギリシアを訪れた後の報告文として週刊誌に掲載された文章です。
いくらノー天気な私でも、あのような偉大な歴史遺産の前に立つと、それを簡単に壊してしまう戦争の愚かさに気付かされます。
昨日(31日)、テレビの「サンデーモーニング」(TBS系列)で「戦争なぜ起きる…世界の声」という特集が組まれていました。
その中で、評論家の寺島実郎さんが「力の論理で物事の解決ができないということを知った21世紀初頭」という趣旨のことを言っておりました。
寺島氏の言うように、世界(の指導者たち)が力の論理の限界を知ったのだとしたら、新たな価値(論理)を見出そうとする胎動を期待できるということでしょうか?
新たな価値の胎動を感じさせてくれる2007年
潮目が変わりつつあることを感じさせてくれる2007年
であることを願った2007年1月1日でした。