世界で最も有名な絵画というと多くの方がダ・ヴィンチ作の「モナリザの微笑」を挙げるだろう。その「モナリザの微笑」には謎が多いとされるが、ダ・ヴィンチ自身もいろいろと謎のある人物である。ダ・ヴィンチの一生を追った映像を観た。
9月14日(水)午後、札幌市民ギャラリーにおいて月例の美術映画会が開催され参加した。今月のプログラムは表題のように「天才 レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」と題して天才と称されたレオナルド・ダ・ヴィンチを取り上げたものだった。
その映画の冒頭で、イタリアのヴィンチという小村が映し出された。この小村はレオナルド・ダ・ヴィンチの生誕地だという。実はレオナルド・ダ・ヴィンチとは「ヴィンチ村のレオナルド」という意味だという。
※ レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像
さて、映画の内容をどのようにレポしようか?と思っていたところに、たまたま定期購読している月刊「文藝春秋」の今月号で連載されている「中野京子の名画が語る西洋史」が『モナリザの微笑み』のことを取り上げていた。そこで安易な方法だが、中野氏の文章の一部を拝借して、映画の内容を説明することにした。
「今や西洋絵画のアイコンとなったダ・ヴィンチの『モナリザ』を知らない現代人はほとんどいないだろう。(中略)
どこまでも迫ってくるようなその眼差し、片方の口角だけを上げた不思議な微笑み、未完成の左手、現実にはない風景、完璧なスフマート(ぼかし技法)によるリアリズム……神秘的な魅力が讃えられる所以だが、(中略)
実は20世紀になるまで、『モナリザ』は数多くの名画ののうちのひとつにすぎなかった。一変したのはやはり1911年の盗難事件だろう。この時にはピカソが犯人扱いされるという前奏から始まり、2年後にイタリアで発見されると、犯人が「フランスに盗まれた名画を奪い返しただけだ」とのたまってイタリア中がそれに賛同。事実は、イタリアでパトロンを見つけられなかったダ・ヴィンチがフランス王の招待を受け、『モナリザ』を持参したものだった。その証拠を前にイタリアはしぶしぶ返還に応じたものの、返す前にイタリア中を巡回して「我らが名画」を猛アピールし、それを世界中のマスコミが大々的に報じて、絵画に無関心な層にまで浸透したのだった。
かくしてルーヴルの、いや世界の至宝となった『モナリザ』なので、これまで貸し出してもらえたのは、三ヶ国のみ。アメリカ、旧ソ連、そして日本。当時の田中角栄首相の交渉が実ったもので、1974年に来日して150万人が観たという。当時、観に行ったという人が言うには何時間も列に並んだあげく、ベルトコンベア式で歩きながら遠くからちらりと見ただけだったが、それでも大いに満足したとのこと。さすが「モナリザ」!」
この中野氏の文章で、映画の内容のかなりの部分の説明は尽くされている感じである。ダ・ヴィンチは史上最高の画家の一人であったと言われているが、その他の多くの分野でもその才能を発揮し、人類史上で最も多才との呼び声の高い人物であることは多くの人の知るところである。映画ではその点についても触れているが割愛させていただく。
最後に私がちょっとだけ付け加えたいことがある。それは中野氏の文章にもあった1974年に『モナリザの微笑み』が日本で公開され、150万人が観たと記しているが、実は私はそれより遡ること6年前の1968年にルーヴル美術館において『モナリザの微笑み』と対面していた。これまでも何度か拙ブログで触れているが学生時代に貧乏旅行で欧州・アジアを旅してパリに立ち寄った際に、誰もがそうするようにルーヴル美術館を訪れたのだった。 数多くの部屋を覗き歩いたが、『モナリザの微笑み』だけは特別感のある展示方法だったために容易に対面することができたが、当時の私にとっては「猫に小判」状態での対面であった。
そういう意味では今回の映画観賞はまったく関係がない映画ではなかったのかな?