「北区歴史と文化の八十八選巡り」の最終章である。最後は北区の中でも最も北端に位置する「あいの里地区」の中心地区を巡った。あいの里地区は1980年代から計画的に整備されたニュータウンであるが、その前から残されている史跡などを巡った。
〈84〉仙人庚申塚
この「仙人庚申塚」はあいの里地区の住宅街の端にひっそりと立っていた。小さな祠の中には行者と行者に纏わり付くように「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれていたが、私にはその由来は良く分からなかった。そこで下記の文章を見つけてきたので参照いただきたい。
※ 庚申塚はちょうど道路の角地に建てられてありました。
※ 塚は斜視のように祠の中に収められ、扉は厳重に閉じられていました。
※ 扉の隙間から行者の姿を撮らせてもらいました。
※ 庚申塚を移動したことを後世に残すため(?)の碑と思われます。
この石像は、明治28(1895)年に建立され、山岳信仰の開祖といわれている役行者をかたどっている。右手に錫杖、左手に煩悩悪霊を打ち砕く金剛杵をもつ。台座には右から「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれている。これは何事もつつしみ深くあらねばならないという庚申信仰の教えを表している。仙人の姿をした庚申塚めずらしく民俗学上も貴重なものである。なお、この像は昭和60(1985)年、東北約10メートルのところから現在のところへ移された。
〔住 所〕北区あいの里4条2丁目
〔訪問日〕10月7日
〈85〉篠路の馬魂碑
この馬魂碑を探すのにはかなり手間取った。というのも、住所の表記は農場内となっている。きっと農家の庭先にでもあるのだろうと柳沢さんの庭を探すも見つからない。周りで所在を聞こうにも人はまったく見当たらず途方に暮れた。そうしたとき、ふっと農場の畑に目をやったときに、畑の真ん中にそれらしきものを見つけることができた。なんとここの馬魂碑は畑の真ん中にあったのだった。その馬魂碑の傍に立っていた説明板には次のように書かれていた。
※ 馬魂碑は畑地の向こうのポプラの樹の根元に祀られていました。私はあぜ道を辿って近づかせてもらいました。
※ 馬魂碑は影で良く見えませんが、青い看板の右横にあります。
※ 光の加減で良く映りませんでしたが、「馬頭観世音」と読むことができます。
開拓時代、馬は農耕や輸送に貴重な役割を果たした。人々は優秀な馬の導入に力を入れ、明治30年代にフランスからペルシュロン種を輸入し改良に成功した。とりわけ篠路は、大正から昭和にかけて優秀なペルシュロン種の産地となり、「篠路ペル」の名で道内各地に送り出されていた。この碑は、篠路で生まれ活躍した農耕馬の健康を願うとともにその魂を慰めるため、開拓農民が篠路の野に建立したものの1つである。
〔住 所〕北区篠路町拓北255番地7 柳沢農場内
〔訪問日〕10月7日
〈86〉トンネウス沼
トンネウス沼は、以前から何度も訪れたことのある沼だった。沼の前には「札幌あいの里高等支援学校(旧札幌拓北高校)」の校舎が建っているが、対岸には「あいの里公園」が広々と広がっている。沼は貴重なトンボ類の生息地として有名で旧拓北高校の生徒たちが観察活動を続けていたことが記憶にある。しかし、景色としての沼は水草が沼面を覆っていてあまり美しい光景とはいえないのが残念である。札幌市北区制作の説明板には次のように説明されている。
※ 「あいの里公園」入口に設置されていた公園案内図です。
※ 鮮やかなグリーンが広がるあいの里公園でした。
※ 「あいの里公園」内にある「トンネウス沼」をいろいろな角度から撮ってみました。できるだけ水草が写らないようにしながら…。沼の向こうの建物は「札幌あいの里高等支援学校」の校舎です。
ここあいの里公園内にある「トンネウス沼」。地区における雨水貯留機能をもち、茨戸川に水門でつながる旧河川で、水深1メートル前後、ひょうたん型で周囲は1キロメートル。この池は、流れがないうえ水深が比較的浅く、水草が豊富にあるところから、貴重なトンボの生息地となっている。昭和61年の調査によると、「セスジイトトンボ」、「オオイトトンボ」、「アジイトトンボ」など希少種三種のほか、「ギンヤンマ」など十数種のトンボが確認されている。
〔住 所〕 北区あいの里4条8丁目 あいの里公園
〔訪問日〕 10月7日
〈87〉あいの里開発記念碑
「あいの里開発記念碑」はあいの里の住宅街の一角に建つ「拓北会館」(あいの里地区はもともとは拓北と称していたようだ)の前庭に建てられていた。その碑の傍には次のような説明板が設置されていた。
※ 拓北会館の左手に建つのが「あいの里開発記念碑」です。
※ その記念碑を大写ししたものです。
米の一大生産地から「あいの里団地」へと造成工事が本格化していく中で、拓北宅地開発期成会が昭和57(1982)年に建立した。白みかげ張り30センチメートルの台座の上に自然石を並べ、その上に日高産の赤石高さ1.6メートルを添えてある。碑前に黒みかげ製の碑文がある。
※ 記念費の台座のところには写真のような碑文が添えられていました。
その碑文を紹介すると…、
此の地域一帯の開拓は明治十五年畑作藍の耕作に始まる民間資本の投入による大規模組織的開拓の嚆矢であった先人達は頻発する天災と挫折に耐え此の地の農業を次第に安定させのち雑穀主体有名馬産地としての歩程を辿る大正末期には造田が開始され昭和二十年代には水田耕作が確立同四十年篠路地区随一の米生産地となった昭和四十五年に始まる稲作生産調整により大巾休耕転作の止むなきに至り営農の指標を定め難き折しも石狩湾新港に呼応する宅地開発の札幌市長構想を知り昭和四十八年五月地区有志相謀り同年失月四十七名を以て拓北宅地開発期成会を設立日本住宅都市整備公と折衝に入った大規模にとの要望に応え不賛同地主を積極的に勧誘最終七十六名の会員となる昭和四十八年十二月二十五日土地区画整理事業として契約成立同五十四年着工工事施工は北海道住宅供給公社である開拓当時の故事にちなみ「あいの里」と命名された茫漠たる原始の地に開拓の鍬が打ち下ろされて百星霜余かつて農地として開発された此の地が今三万有余の人口を収容する大住宅地に変容する時の流れを思い昔日の感にたえず此の地の農業の終焉に当り先人の労苦を偲び往時の歩程を後世に伝えんと此の碑を建立する。
昭和三十七年十一月二日 吉成數也書
〔住 所〕 北区あいの里4条6丁目 拓北会館前
〔訪問日〕 10月7日
〈88〉「あいの里」竣工記念碑
いよいよ八十八選の最後である。JR「あいの里教育大」駅を出ると、左手に大きな鉄製のモニュメントが目に飛び込んでくる。これが『「あいの里」竣工記念碑』である。北区では八十八選の最後に未来志向の意を込めてであろう、あいの里地区を代表する文教施設として建設された北海道教育大学札幌校をイメージした記念碑を選んだようだ。この選択にはおそらく誰もが同意できる選択のように思われる。その「あいの里」竣工記念碑についての説明文はなかなか見つからなかったが次の文章が参考になると思われる。
※ 「あいの里教育大」駅を出て、左手のところに大きなモニュメントが建てられています。
※ モニュメントはちょうど線路をまたぐ陸橋のところにあります。
※ 正面から写すとかなり巨大なモニュメントです。
平成2(1990)年の宅地完成を記念して、ギリシャ神話に登場する学問と芸術の女神「MUSE(ミューズ)」をイメージしたモニュメントが建てられました。国内外で鉄やステンレスなど金属を使った創作活動をしている彫刻家・国松明日香の作品です。
〔住 所〕 北区あいの里4条6丁目 JRあいの里教育大前
〔訪問日〕 10月7日
北区歴史と文化の八十八選巡りを終えて
以上、20回に分けて「北区歴史の文化の八十八選」をレポートしてきたが、とても心楽しい八十八選巡りだった。私にとって八十八選の多くは以前に訪れたところであったが、今回の取り組みで初めて訪れることができたところも多い。例えば、「北大遺跡保存庭園」や素人相撲の方の石碑を二つ出会えたこと、また北区が畑作、米作地帯として栄えたことから数多くの馬頭観音の類の石碑が数多く現存していたことも新しい発見だった、等々…。
さらに再訪できたところでも、屯田みずほ通り、屯田防風林、北27条公園通り、安春川の散策路など札幌ならではの素晴らしい通りを再び歩くことができたこと、などたくさんの収穫を得た。
そして何より、このシリーズの特別版でレポした百合が原地区の先達者・中西俊一氏との出会いはこのシリーズの何よりの僥倖だった。氏から伺ったお話の数々は北区の歴史を知るうえで大きな助けになったことは言うまでもない。今回改めて “北区の歴史の文化” を意識しながら巡ったことで北区のことを深く理解する機会を与えてもらった思いである。
この「北区歴史の文化の八十八選」巡りは私の中で永く記憶に残る取り組みの一つとなった思いである。
さて、次は…、と思いを馳せているが、近づく季節は冬…。しばらくは私も冬眠をむさぼって、来る春にはまた何か新しい目標を見つけたいと思っている…。