白石歴しるべウォーキング№2は、Bコース(本郷通・本通・平和通り)4.5Kmを巡り歩いた。チェックポイントはたった5ヵ所だったが、それぞれ趣のあるチェックポイントが多いコースでもあった。
今回のチェックポイントは、(Aコースからの続きの番号で)⑪ヒグマ騒動の地 ⑫白石神社 ⑬白石本通墓地 ⑭水源池通 ⑮長浜万蔵翁の銅像 の5ヵ所である。
見知らぬ地域をウォークする場合、例えマップがあったとしてもスタート&ゴールの地点を見出すのに苦労する場合が多い。いわゆる土地勘がないためだ。今回のスタート&ゴール地点である「白石あかつき公園」を見つけるのにもちょっと苦労してしまった。
※ Bコースのスタート&ゴールとなった「白石あかつき公園」です。
それではチェックポイントを順次レポすることにする。
⑪ヒグマ騒動の地
案内所によると、明治5(1872)年にはこの地でヒグマが討ち取られ、明治29(1896)年には住民がヒグマに大けがを負わされた場所だという。辺りは豊平川を挟んで札幌都心から近いところあるが、明治時代はヒグマが出没するようなところだったようだ。案内書によると現在地には「東白石まちづくりセンター」がありセンター内に捕獲されたヒグマが展示されているかのような写真が載っていたので、まちづくりセンターに伺ったのだが、そうしたものはなくセンター長さんによると「どこか別のところに展示されているのでは?」ということだった。(調べてみたい)
※ ヒグマ騒動の地跡の表示と、後は「東白石まちづくりセンター」の建物です。
⑫白石神社
最初のチェックポイントが特定されると、あとは割合スムーズに巡ることができるものである。次のポイント「白石神社」は苦労することなく辿り着くことができた。
白石神社は2000年代の正月三が日の初詣客の参拝客数が北海道神宮に次ぐ北海道で2陣目の集客数を誇ったという大きな神社である。境内には2000年代に入っても市内で唯一湧水が存在しておりその水が造る池とその周りの森が荘厳さを演出していた。
訪れる前に「直筆の御朱印がいただけるか」伺ったが「書き置きしかしていない」との残念な回答だった。いたしかたないが書き置きの御朱印をいただいてきた。(そのレポは後日投稿します)
※ 堂々とした風格の白石神社の本殿(拝殿)です。
⑬白石本通墓地
住宅街の中に忽然と現われたのがこの「白石本通墓地」だった。案内所によると、明治初期に白石地区にはAコースで巡った「白石中央墓地」が存在していたのだが、白石村の東側に居住する人々が「近い場所に墓地がほしい」との願いから、開拓使の許可を得ずに自主的に造成したようだ。正式に許可が出たのは明治35(1902)年のことだったという。
私が訪れた時には墓地全体に墓石がやや疎らな印象を受けた。近年になり墓じまいをする人や、あるいは民間の墓地に墓を移動する人が増えたせいなのだろうか?
ここの墓地の特徴は、周りにレンガ工場などがあったからだろうか?戒名・死亡年月日などを彫り込んだ粘土の素焼きに上薬をかけて焼き上げた茶色い土管型や角柱型の墓が多数あったという。現在もそれが残っているということで捜し歩いたところ、墓地の中央付近に数個の土管型の墓を見つけることができた。
※ 「白石本通墓地」を示す看板と、「白石歴しるべ」の看板(右側)です。
※ 写真のように空き地が目立った「白石本通墓地」でした。
※ 苦労して(?)して見つけた土管型の墓石です。
⑭水源池通
明治29(1896)年、月寒に新設された独立兵大隊のために、西岡水源地から水道管を引き、明治42年にその上に維持管理のために造られた道路が現在の通りだそうだ。今は道幅の広い幹線道路となっていて、当時の面影を偲ぶことはできないが、「白石歴しるべ」の看板が立っていたところには由緒ありそうな松の木が立っていた。どうやら個人の持ち物のようで説明書きはなかったが、おそらく当時の名残を伝えるもののように思えた。
※ 西岡水源地に繋がる「水源池通り」です。
※ 「水源池通」を表示する看板と、いわくありげな松の木です。
⑮長浜万蔵翁の銅像
この「白石歴しるべウォーキング」で初めて故人を顕彰する銅像に出会った。銅像が建てられていたところは「本郷通商店街」の一角だった。長浜万蔵は昭和31(1965)年、住宅街などがなかった地に商店街を誕生させた功労者だそうだ。商店街の通りはサクラ並木も造られ賑わいを創出させたようである。
※ 本郷通商店街のサクラ並木です。
※ 長浜万蔵翁の銅像が商店街の一角に建っていました。
以上、一周約4.5キロのコースだったが、マップを手に知らなかった街並みを巡り歩くことはいつも楽しく感じている。残り2コースも楽しみながら巡り歩きたいと思っている。