田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

白石歴(れき)しるべウォーキング №4

2023-04-23 18:03:21 | 札幌ウォーク & Other Walk

 白石歴しるべウォーキングの最終回となる№4のDコース(東札幌・白石中央通り)4.7Kmは、白石区複合庁舎をスタート&ゴールとする7ポイントを巡り歩くコースだった。

        

 今回のチェックポイントは、(続き番号で)㉒横丁通 ㉓白石のリンゴ園跡    ㉔エゾオオカミ捕獲の場所 ㉕白石村水田発祥の地 ㉖納豆博士・半澤洵生誕の地 ㉗豊平外三ヵ村聯合用水路 ㉘望月寒川 の7ポイントである。

 今回はスタート地点の白石区複合庁舎から南郷通を西に向かうコースだったのでスムーズにコースに乗ることができた。

   

   ※ 白石地区の中心に建つ改築されて数年しか経っていない白石区複合庁舎です。

㉒横丁通

 白石区複合庁舎から南郷通りを真っすぐ西に向かうと、現在「米里行啓通」という大きな通りと交差する。その「米里行啓通」こそが、その昔「横丁通」といわれた通りである。このウォーキングのCコースで「白石村1番」のことに触れたが、その白石村1番から白石神社までの間を1番から50番まで区角割りをして住民が住んだのだが、1番から7番までの区画が雪解け水で浸水することから、居住地として適さないことが分かり、住民が移り住んだところに造られた道路を「横丁通」と呼ばれるようになったそうだ。その後、昭和35(1960)年の町名変更で「横丁通」との名称は廃されたそうだ。

   

   ※ (元)横丁通りの名に相応しくない(?)広い通りです。

㉓白石のリンゴ園跡

 明治初期、北海道の開拓を担った北海道開拓使はアメリカから輸入した果樹の栽培を奨励したという。その中でも白石村ではリンゴの栽培が普及したが、その中心が先の「横丁通」界隈だったという。そのリンゴ園も徐々に宅地化が進むことによってやがて廃れていったそうだ。

「白石歴しるべ」の標識は、先の「横丁通」と共に「きよみず公園」内に並べて立てられていた。

   

   ※ 住宅街の中に、突然このような畑地が現れリンゴ園だった名残が伺えます。

   

   ※ 「横丁通」と「リンゴ園跡」の標識が同じところに立っていました。   

㉔エゾオオカミ捕獲の場所

 エゾオオカミが捕獲されたということは、開拓が始まったばかりの明治初期の白石地区は原始林や荒地が多く、ヒグマ、エゾオオカミ、エゾシカなどがかっ歩する世界だったそうだ。エゾオオカミは明治20年頃に害獣として駆逐され絶滅されたが、この場所で捕獲されたエゾオオカミは明治10年にこの場所で昼寝をしているところを村人に火縄銃で撃ち取られたという。その剥製は世界でただ1頭のエゾオオカミの雄の標本として北海道大学附属植物園の博物館に展示されているそうだ。 

   

   

   ※ 標識は(株)池田製菓の本社工場兼店舗の脇に立っていました。

㉕白石村水田発祥の地

 開拓当初、北海道では稲は育たないと言われていたが、この地に入植した旧白石藩の人たちは故郷から種籾を取り寄せ、失敗を続けながらも諦めることなく米作りに挑み続け、ついに明治16年に初めて米を収穫することに成功し、白石米第一号が誕生したという。その地が国鉄函館本線に近い「白生公園」一帯だったそうだ。

   

   ※ 標識は「開田碑」と並んで立っていました。

㉖納豆博士・半澤洵生誕の地

 北海道帝国大学の教授であり応用菌学の権威である半澤洵氏が誕生したのは札幌郡白石村だった現在地(白石区中央1条5丁目)だったそうだ。

 半澤氏はそれまで雑菌も含む稲わらでの納豆づくりを、純粋な納豆菌の培養に成功し、経木(薄皮)の容器を使用することで衛生的な納豆の量産化を確立し、納豆博士と親しみを込めて周りから呼ばれるようになったそうだ。

   

㉗豊平外三ヵ村聯合用水路

 飲料水などの生活用水路として精進川から取水して豊平川へ注ぐ平岸用水路が明治6年に造られたが、稲作が盛んになると、この用水路からさらに豊平、平岸、白石、上白石の各村へ注ぐ1号~4号用水路が豊平外三ヵ村聯合用水路組合によって造られたという。表示板が立っている「もつき公園」は1号用水路が流れていたところだそうだ。

   

   

   ※ 1号用水路が流れていたという「もつき公園」です。

㉘望月寒川(モ・チキサップ川) 

 白石の母なる川モ・チキサップ川は、真駒内南部の丘陵を源として、白石一帯を流れ月寒川に合流する12キロの二級河川である。川を流れる水は地域住民の生活用水、農業用水として欠かせないものであったとともに、大雨時などは家屋浸水、田畑の水没などの害ももたらしたモ・チキサップ川は白石村民にとって喜びと悲しみをもたらした忘れえぬ川だという。現在は周りをコンクリートで固められ地域の住民との関連も希薄になっているという。

   

   

   ※ この日のコースで最も下流にあたる望月寒川です。

   

   ※ 反対に最も上流にあたる望月寒川です。

 以上で「白石歴しるべウォーキングマップ」に掲載されていた28ヵ所の歴標(標識が掲示してある場所)の全てを回ったが、巡り歩いている中で「白石歴しるべ」に登録されている物件は他にもあるらしいことが分かってきた。ウォーキングマップに載ったところは、ウォーキングコースとして抱合されるに相応しいところがリストアップされた結果のようだった。

 そこで私は Dコースを終えた後、白石複合庁舎内の地域振興課に伺い「白石歴しるべ」の資料の提供をお願いした。すると、かなり分厚い資料をいただくことができた。それを参考に調べてみると、私がまだ訪れていないところとして①北都団地、②旧本通倶楽部、③北海道暗渠排水施設発祥の地、④逆川、⑤大谷地駅跡、月寒駅跡、⑥菊亭公爵入植跡地、⑦板橋地区跡、などが残っていることが判明した。これらの跡地等がどこに位置するのかはまだ分かっていないが、おそらく白石区内の各所に散在しているものと考えられる。一度ではとても廻りきれないものと思われる。あせらずにじっくりと巡りながら白石の歴史にもう少しこだわってみることにしたいと思っている。