八十八選巡り№18は籠古川のほとりに建つ広壮な敷地を持つ龍雲寺に関する3つの物件である。龍雲寺については、次の文章を参照いただきたい。
篠路の開拓に活躍した荒井金助の長男・好太郎の妻ナツは、明治5(1872)年に開拓使から200円を借りて家を建て、荒井家の菩提を弔うための寺とした。その後、明治19(1886)年にナツが自宅を寄付することで、寺号を公称されることになった。昭和59(1984)年、北海道庁からの依頼により本堂が寄贈され、昭和61(1986)年4月に北海道開拓の村へと移築復元された。なお、寺の新本堂は昭和59(1984)年10月に完成している。
※ 八十八選には入っていないが、上記文章の出てくる荒井金助の長男・好太郎の墓もあったので写真に収めた。
※ 龍雲寺境内の一角に関係する墓などが並べて建てられていた。(後方の住宅はお寺とは関係ない?)
〈76〉龍雲寺の馬頭観音
「龍雲寺の馬頭観音」は、龍雲時の敷地の南端に近いところに〈77〉の荒井金助と早山清太郎の碑と並んで建てられていた。その馬頭観音には北区が次のような説明板を建てていた。
篠路の開拓時代、農家の人たちとともに、その手足となって開墾に汗を流した農耕馬たち。この農耕馬の健康を願うとともに、魂を慰めるため当時の開拓農民により、篠路開拓者の心のよりどころとして、ともに歩んだ龍雲寺境内に大正9(1920)年に建てられたものです。
〔住 所〕北区篠5条10丁目 龍雲寺内
〔訪問日〕10月7日
〈77〉荒井金助と早山清太郎ゆかりの地
上述したように篠路開拓の先駆者である二人の墓が、先の馬頭観音と並ぶように龍雲時敷地の南端に建てられていました。その説明文です。
江戸時代末期、幕吏荒井金助は石狩地方開拓のため、発寒にいた「在住武士」配下の早山清太郎に命じて篠路を調査させ、農民を入植させた。早山は、石狩地方で初めて米づくりに成功したのを始め、篠路の開墾、道路開削などに貢献し、明治維新前後の基礎を築いた。龍雲寺には2人の墓がある。
〔住 所〕北区篠5条10丁目 龍雲寺内
〔訪問日〕10月7日
〈78〉龍雲寺のイチョウ
龍雲寺に近づくと、お寺の前に見上げるようなイチョウの大木が屹立している。春の新緑の季節、深秋の黄葉の季節はおそらく素晴らしい光景を現出させるのではないか、と想像させるほど素晴らしいイチョウの木である。私が訪れた時は黄葉に季節には若干早かったようである。龍雲時のイチョウについての説明文章です。
篠路開拓者の心のよりどころだったこの寺に、鋤柄松太郎が新天地開拓の記念にとして植えたと伝えられています。このイチョウき、北区内で唯一北海道自然環境等保全条例で保存樹に指定されているもので、樹齢ははっきりしませんが、優に100年を超えているそうです。
〔住 所〕 北区篠5条10丁目 龍雲寺前
〔訪問日〕 10月7日