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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌歴史散歩 11 中央区・創成川・鴨々川地区(1)

2017-11-20 20:46:35 | 札幌ぶらり散歩 & Other
  今回のコースはこれまでの史跡巡りとは趣を異にし、歴史的な史跡と現代の施設とが混合するコースだった。短い(約3km)コースだったが見どころ沢山のコースだったので、今回は創成川部分をレポすることにした。

                

 このコースは札幌市下水道河川局が発行する「創成川・鴨々川 川めぐりマップ」を片手に持っての歴史散歩だった。
 このコースの中で現代的な施設とは、創成川、鴨々川それぞれに設けられていた「分水施設」「吐口工」の存在だった。この施設はそれぞれの川を流れる水の量を調節する施設である。「分水施設」は川を流れる水の量を適量に抑えるために、一部の水を導水管で地下を通し、「吐口工」で再び川に合流させる施設である。
 札幌市によるとこの施設は平成23年に竣工されたそうだ。

 コースは、創成川に架かる北二条橋の近くにあった「吐口工」から創成川、それに続く鴨々川を上流に遡るものだった。
 
 ①創成川の吐口工

                
                ※ 創成川の向かって左側の壁から水が噴き出しているのが認められます。これが「吐口工」です。

                
                ※ 「吐口工」を正面から見たところです。かなりの水量が創成川に合流しています。
 この吐口工は整備された創成川公園の北端のところにあった。創成川を覗いてみると、コンクリートで岸辺が固められた脇から水が勢いよく流れ込んでいた。

 ②開拓使工業局跡

                
 マップによると、この「開拓使工業局跡」は現在の中央バスターミナルのところにあたるようだ。何かその痕跡を残す表示などがないかと探したのだが見つからなかった。あるいは見当違いのところを探していたのかもしれない。
 なお、当時の工業局庁舎は「北海道開拓の村」に保存されているそうだ。

 ③創成橋 

               

               
 創成川に架けられた「創成橋」は、札幌都心部を区画した際に東西南北の基点となった橋である。明治23年に建設されたが石造りで下部の構造がアーチ橋となっているところから日本橋(東京都)にちなんで「札幌の日本橋」と呼ばれることがあるという。(初耳!)
 橋は平成22年に復元改修されている。「創成橋」と命名したのは第2代の岩村判官だそうである。
 また、両側の欄干には「擬宝珠」が取り付けられているのも特徴の一つである。
 
 ④「大友亀太郎」像

                
 「創成橋」の袂に望遠鏡を手にした「大友亀太郎」像が建っている。
 この像はもともと昭和61年に彫刻家・松田与一の手によって制作され、創成川のほとりに建てられていたが、創成川公園の完成に伴って平成23年にこの地に移設されたという。
 大友の業績については、いろいろにところで語られているので、ここでは割愛させていただく。

 ⑤北海道里程元標 

                    
 「北海道里程元標」は、明治6年に北海道の起点であることを示すために、創成橋の東袂に置かれたそうだ。当時の標柱は、トドマツ製で一尺角(約30cm)で、高さ一丈二尺(約363cm)あり、当時は遠方からもその存在が確認できたという。
 現在の標柱は、平成23年に当時の標柱(石柱)を復元して再建された。
 なお、標柱の東面には対雁と島松、西面には篠路と銭函までの距離がそれぞれ表示されている。
 
 ⑥「札幌建設の地」碑

                     
 この碑も「創成橋」の近くに設置されている。
 歴史的な碑というには近代的なデザインで、広井大地を表す球体の上に東西南北の方角を指し示す方形が載り、その上には将来を表現したオブジェが置かれた碑になっている。
 この碑ももともとは昭和42年に設置されたそうだが、創成川公園の完成に伴って現在に移設されたそうだ。

 ⑦開拓使本陣跡(クラーク博士居宅跡) 

               

               
 南2条東1丁目(創成川沿い)には現在ビルなどが立ち並んでいるが、ここが開拓使本陣跡(クラーク博士居宅跡)ということだ。跡地のところには小さな案内板が設置されていた。
 開拓使本陣は宿舎の役目を持ち明治5年に竣工し、建築面積800㎡の木造平屋で当時としては最大の建物だったという。
 そして、この本陣がクラーク博士の居宅であったそうだ。

 ⑧二条市場 

               
 私が参考にした「川めぐりマップ」には「二条市場」について次のように書かれている。「かつて創成川は舟運と物流の拠点でした。二条市場は明治後期につくられた「二条魚町」に由来し、漁師たちが始めた小規模な鮮魚店から市民の台所へと発展しました」と記されている。

 ⑨創成川の分水施設 

               
               <fon size="1">※ 左側の格子状の柵から一部の水が導水管に取り込まれるようです。            
 創成川を流れる水の量を調節する施設だが、ここの取り入れた水の一部は導水管に導かれて地下を通り、①の「吐口工」で再び創成川に合流させる施設である。
 創成川公園が創成川の水際まで降りていける仕組みの親水公園としての性格ももっているため、増水による事故などを抑止するために設けられたものと考えられる。
 このような施設が、創成川の上流にあたる鴨々川にも一ヵ所設けられている。

 以上が創成川部分である。川はここから折れ曲がり市街地の方へと遡っていき鴨々川と名称が変わる。その部分については後日(2)としてレポすることにする。
         
 

 
 

北海道市町村長リレー講座 木古内町長

2017-11-19 19:46:00 | 大学公開講座
 当初の勢いはやや落ち着いたとはいえ、新幹線効果に沸く木古内町長は意気軒高だった。北海道新幹線の開通に尽力し、今その新幹線効果を最大化すべく走り続ける大森伊佐緒木古内町長の話を聞いた。 

 11月16日(木)午後、札幌大学の公開講座「北海道市町村長リレー講座」を受講した。今年度最後となる講座を担当したのは大森伊佐緒木古内町長だった。大森町長は「新幹線が教えてくれた仕事の魅力」と題してお話しされた。

                  

 大森伊佐緒氏は、1953(昭和28)年に地元の木古内町に生まれ、現在64歳。木古内町長5期目を務める方である。
 大森氏は、まず自分の履歴を語った。それによると…、
 地元木古内高校を卒業後、富士銀行に11年間勤めたそうだ。
 その後、父親が病弱のため経営していた建設会社を受け継ぐために昭和58年に帰郷し、建設会社社長として青函トンネル掘削工事に携わったとのことである。
 17年間建設会社の経営に携わった後、平成12年木古内町長選挙に出馬し、当選した後町長として現在に至っているとのことだった。

 大森氏の第一印象で特徴的なのは太い眉である。大森氏を紹介する方が「ゴルゴ13みたいな勇ましい眉毛」と称していたのには笑わせられた。そしてなんといってもその笑顔である。講演中も笑顔を絶やさなかったのが印象的だった。
 その笑顔が、その包容力が、きっと町長5選を果たす原動力になったのではと思わせられた。

 大森氏は、建設会社々長として青函トンネル掘削工事に携わり、北海道新幹線の開通を夢見たが果たせず、町長になってからは北海道新幹線の開通のために奔走し、就任4年目となる2004(平成12)年に北海道新幹線の建設が決まったことから、氏としては北海道新幹線との縁が強いと感じているようだ。
 そのこともあって、新幹線開通時には前回の失敗を繰り返したくない、という思いが強かったそうだ。前回の失敗とは、青函トンネル開通時の1988(昭和63)年には東北から観光客が殺到したが、1年もたたぬうちに汐が引くように観光客の姿が消えたそうだ。その主因は、当時は観光客を受け入れる体制が地元に整っていないったということだ。

 その失敗を教訓に、今回はいちはやく新幹線開通の6年前の2010(平成22)年に道南西部9町(木古内町・知内町・福島町・松前町・上ノ国町・江差町・厚沢部町・乙部町・奥尻町)による「新幹線木古内駅活用推進協議会」を発足させたという。
 そこには木古内町だけではなく、近隣の道南西部の9町が新幹線開通を機会に共に発展していこうとする姿勢が見られる。そして、そのための拠点として、新幹線木古内駅の駅前に道の駅「みそぎの郷きこない」を建設したそうだ。全国的に見ても鉄道駅の前に道の駅を建設した例は珍しいそうだ。

      
      ※ 道の駅「みそぎの郷 きこない」の外観です。

 道の駅の運営にしても木古内オンリーにならないところが大森氏の素晴らしいところだ。
 当初は町内の業者が優先して入居することを望んだそうだが、大森氏はけっしてそれを容認しなかったという。道の駅には道南西部9町の特産品を並べているということだ。
 道の駅「みそぎの郷きこない」は、来場者数で素晴らしい集客数を誇っていることはメディアでも度々取り上げられている。
 大森氏は、開業初年の28年度と比較すると、本年度は来客するは減少傾向だが、収益はむしろ伸びているという。道南西部9町が共に発展していくために、さらなる仕掛けを次々と考えているとも語った。
 大森氏の姿勢がきっと良い結果をもたらすような気がしてならなかった。

          
          ※ 道の駅「みそぎの郷 きこない」の内部の一部です。

 そして、今回の講演で木古内町のあれもこれもを話題にするのではなく(特に木古内町は「寒中みそぎ祭り」で有名なのだが)、一つのことに絞ってお話しされたことも私たち受講者にはより木古内町のことに関心を抱くことに繋がったと思う。

 今年はこれで市町村長リレー講座は終了である。これまで何度かこのリレー講座を拝聴して非常に興味深く思っている。というのも、さすがに地方自治体の首長ということでお話が上手である。さらには、それぞれが自信と責任感をもって自治体経営をしていることをうかがわせてくれる。
 来年度も、ぜひ受講したいと思っている。


コンサJ1残留決定! in 赤レンガテラスPV

2017-11-18 21:17:37 | スポーツ & スポーツ観戦
 J1残留を目前に控えていたコンサドーレは、ともにJ1残留争いを演ずる清水エスパルスと敵地清水で対戦した。残留の瞬間を多くのサポーターと共に喜びたいと、パブリックビューイングを開催した赤レンガテラスに駆け付けたが、願い通り見事な勝利でJ1残留を果たしてくれた! 

               
               ※ 私が座ったところからモニターを見たところです。緑の部分がモニターです。

 今日(11月18日)午後3時から、IAIスタジアム日本平(清水市)で清水エスパルスと対戦した。当初パブリックビューイングでの観戦予定はなかったのだが、急遽予定を変更し、赤レンガテラスに駆け付けた。
 赤レンガテラスに着いたときは試合開始1時間前だったのだが、観戦会場の「アトリウムテラス」(2階)の観戦スペースはほぼ隙間なく埋め尽くされていた。それでもなんとか隙間を見つけて座って観戦できるところを見つけることができた。
 帰るときに取材しているメディアの方に「何人くらいが観戦したとみましたか?」と伺うと、「400人くらい?」と話していた。

               
               ※ コンサが先制点を決めたときにはレプリカユニフォームをまとったサポーターが立ち上がって喜びを表しました。

 試合は前半11分と39分に共に途中加入のFWジェイが決定機をきっちりと決めて、GKのク クソンユンをはじめとした守備陣の健闘と相手の拙攻に助けられ2対0で勝利し、残り2試合を残してJ1残留を決めてくれた。
 1点目が試合開始後11分と早い時間の得点だったので、思わぬ展開に近くにいた人たちとハイタッチをして得点を喜んだ。
 試合としては、開始直後の20分くらいは、コンサが完全に試合を支配する展開に驚いた。
 画面にGKのク ソンユンがまったく現れず、試合が始まって20分後くらいにようやくクンが画面に現れるくらいコンサの調子は良かった。
 ところが、その後の試合運びは決して良い試合運びとは言えなかった。後半も同様で、試合全体としては清水の方が試合を支配していたのではないか。そういう意味では、決定力を備えたコンサの強みが如実に現れた試合とも言えた。
  
               
               ※ 2点目を決めた直後のジェイ選手の表情です。

 実は今シーズンのコンサは、ホームではそれなりに戦っていた(8勝4敗3分)のだが、アウェイでは1勝11敗3分と、内弁慶的な戦いを展開をしていて、本日の戦いも心配だったのだが…。
 ただ、アウェイの最近2試合は1勝1分と調子を上げていたのが期待するところだった。

               
               ※ ハーフタイムに私の席とは反対席の様子を写しました。

 素人なりにJ1残留を決めることができた要因を振り返ってみると、今シーズン加入し主力として活躍するジェイ、チャナテップ、兵頭選手らと、これまでの選手が上手く融合できた点にあると思っている。特に後半戦のジェイの決定力はコンサ残留に大きな役割を果たしてくれた。

               
               ※ 試合が終了し、勝利とJ1残留を喜ぶPVの観覧者たちです。

 来シーズンのことを話すのは少し早すぎると思うが、主力選手たちの去就が心配である。
 ジェイは? チャナテップは? クは?…、おそらく主力選手たちには他のチームも触手を伸ばすだろう。選手の入れ替えはプロサッカーの場合は常にあることだ。
 期待は今年活躍したような選手たちをコンサに導いた三上強化部長の慧眼と交渉力である。そこに私は期待したいと思っている。

社会に貢献する社長の言葉

2017-11-17 20:08:28 | 大学公開講座
 久しぶりに「良い講義を聴いたなぁ…」という思いに浸った。自らの理想と、会社の理念と経営が見事にマッチし、着実に前進する経営者の姿に感動を覚えた。会社のさらなる前進を願わずにはいられなかった…。 

 11月14日(火)午前、札幌大学の公開講座「地域創生入門」の後期講座の第8回目の講座が開講され受講した。
 第8回目の講座は「ともに働く人々の豊かな未来を目指して」と題して、札幌市発寒にある(株)特殊衣料の代表取締役社長の池田啓子氏の講座だった。

                    
 
 池田氏は当年67歳という会社の二代目社長である。パートで叔父の会社に入り、今から15年前に叔父に見込まれ二代目を託されたという。

 (株)特殊衣料は、事業として①リネンサプライ、②清掃、③福祉用具の3分野の事業を展開しているそうだ、リネンサプライは病院・施設のシーツやタオルの洗濯であり、清掃はやはり主として病院・施設の清掃作業、福祉用具はオリジナルの福祉用具の開発、製造、レンタル等を展開しているという。
 特色は、女性、障がい者、高齢者を積極的に雇用していることだ。社員数180名の中、女性は男性の2倍、障がい者は28名、60歳以上の高齢者を42名雇用しているという。

 池田氏が語った会社の理念は「介護から快護へ」へと銘打って社員には次のことを徹底して語りかけているという。
 「私たちは、お客様の気持ちを大切に、自らを高め、技術を磨き、信頼され、愛される企業として、常に最高の価値を創造し、ともに励みます」と…。
 こうした会社の理念は、どのような会社でも似たようなものを掲げている場合が多い。
 特殊衣料の凄いところは、その具現化に社長以下、全社員で情熱を傾けているように見えるところだ。
 その最たるものが、職場定着を目的とした数々の取組みである。障がい者の場合、どうしても職場での定着率の低さが問題だそうだ。
 その取組みの一つとして「ともにはたらくマナー本」を制作し、職場に配布しているという。さまざまな障害をかかえた同僚を温かく包み込み一緒に働こうとする職場づくりを進めているという。(この本は注目を集め、全国から配布希望が殺到したという)
 さらには「ジョブコーチ」を配置し、障がい者の支援体制を整えているそうだ。
 このようなさまざまな取組みの結果、大幅に定着率が向上したという。
 
 池田氏の凄いところは、そこに留まらないところだ。
 どうしても職場に定着しづらい障がい者たちのために、会社の隣に社会福祉法人「ともに福祉会」を起ち上げたことである。この施設において職業訓練、就労支援などの活動を展開しているという。

 つまり池田氏は、「(株)特殊衣料」において障がい者を雇用し、「ともに福祉会」において障がい者の就労支援を行っているということなのだ。
 今回のレポでは会社の本業についてあまり触れなかったが、本業がまた素晴らしい。
 専門家とチームを組み、次々と福祉用品の新製品を世に送り、ヒット作も数多いようだ。例えば、転倒した際に頭を保護するファッショナブルな帽子「アボネット」はかなりのヒット作となったという。また、その開発が一般企業の作業帽にも採用されたという。

               
               ※ 講義後、会社の製品を写すことをお願いすると、社長自ら製品を手に取ってくれた。

               
               ※ 写真上はヘッドギアのようだった転倒保護帽を、下の写真のような「アボネット」を開発・販売したそうだ。

 池田氏の思いは、確実に社内に浸透し、業績も好調を維持し、社員の士気も高いようだ。
 池田氏は最後に禅寺のお坊さんの言葉を紹介してくれた。
 それは「幸せとは」と題するものだった。
 1.幸せとは、人の愛されること。
 2.幸せとは、人にほめられること。
 3.幸せとは、人の役に立つこと。
 4.幸せとは、人に必要とされること。

 そして、2~4は仕事を通して得られるものではないか、と受講者に問いかけた。
 
 飾らぬ言葉で淡々と語る池田氏の言葉に誠実な人柄を感ずることができた。社会に貢献し続ける社業のますますの発展を願いたい。  

札幌歴史散歩 10 中央区・北海道神宮(2)

2017-11-16 22:10:54 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 北海道神宮の(1)では献木と寄金とか、献納に関する碑が多いと記したが、本殿から離れる第三鳥居の近くでは少し様相を異にする石碑も目立ってきた。このあたりはやはり神宮側の配慮があるのだろうか?私が目にした残り11の石碑類を紹介することにする。 
 
               
               ※ 表参道の第二鳥居からは離れたところに立つ「円山公園口鳥居」です。
  
 もう少し「札幌歴史散歩」が続く。石碑の多かった北海道神宮の第2弾である。この日(11月31日)は火曜日で平日だったが、神宮はけっこうな人出があった。境内には出店も出ていたが、どうやら七五三のお祝いに訪れる人が多かったようだ。
 
 ①樺太開拓記念碑 
 
                     
 この碑をみつけるのに多少苦労したが、円山公園口鳥居をくぐると左手に進む道を辿ると高さ4メートルの大きな白御影石製の石碑が目に付く。これが「樺太開拓記念碑」である。
 ポーツマス条約によって日本に編入された樺太島の北緯50度以南の地域が日本領となり、多くの開拓移民が樺太にわたり開拓に励んだ。碑の背面には、樺太の開拓の歴史が綴られ多くの先人の偉業を称え、犠牲者の慰霊の碑として引揚者40万人の赤誠を結集して建立したと刻まれている。(赤誠=少しもうそや偽りのない心)

 ②札幌興風会歌碑

                
 「樺太開拓記念碑」の向かい側に位置するのがこの「札幌興風会歌碑」である。
 興風会は、北海道にさまざまある短歌の結社の中でも北海道神宮にとても縁の深い結社だそうだ。
 明治40年4月に発会し、以降一度もかけることなく短歌会を催し、歌集を発行してきたそうだが、平成2年5月に歌集が通巻1,000号になったのを記念して碑を建立したということだ。

 ③宮崎芳男歌碑 

               
 この碑は、やはり「札幌興風会歌碑」の近くに建てられていて、「われの住む 北乃(の) 一生は さだめならむ 空も神苑も みな 蒼無限 芳男」と刻まれている。
 宮崎芳男は、明治34年栗沢町に生まれ、大正9年に訓子府町小学校の教員となってから教員の道を歩み、昭和37年に札幌琴似高校の校長を務めて勇退したという。その傍ら短歌を詠み、昭和5年ら「新墾」に入社して多くの歌集を編んだという。

 ④長谷部虎杖子句碑

                     
 この碑も、「札幌興風会歌碑」や「宮崎芳男歌碑」の近くに建っている。
 長谷部虎杖子(本名 本名英二郎)は明治20年宮城県に生まれ、両親とともに来道し、帝国製麻本別工場長を退職後、札幌神社の神職となり札幌神社頓宮社掌を務めた。その傍ら作句活動に励み、昭和39年には北海道文化奨励賞を受賞している。
 碑には「今日のいのち 神の謝しつつ 東風にあり」と刻まれている。
 建立は昭和43年6月、北海道開道100年を記念して建てられたそうだ。

 ⑤中山周三歌碑 

               
 この歌碑も上記の歌碑群の同じところに建っている。
 中山周三は大正15年札幌に生まれた。国学院大学高等師範部を卒業後、道内高校、藤女子大などで教鞭をとる傍ら、歌誌「原始林」の創刊に参加以来、同誌の編集発行人を長らくと務め、昭和29年には北海道歌人会設立発起人にもなるなど、北海道の歌人の重鎮として活躍した業績を称え、平成11年9月に歌碑が建てられたという。
 歌碑には「木のもとに来て拾へるにひるのまの ほとぼり持てり沙羅のしろはな 周三」と刻まれている。
 
 ⑥白野夏雲顕彰碑

                
 この碑も同じように歌碑がたくさん建っている一角にあった。
 白野夏雲とは、第6代の札幌神社の宮司だそうだ。白野は札幌神社を官幣中社・大社に昇格させるために大きな功績があり、その功績を称えて明治43年に建立されたという。

 ⑦献植、創立二十周年(札専) 

               
 この碑も歌碑がたくさん建つ中の一つとして建っていた。
 由来等について調べたが、どうしても分からなかった。ただ、碑名からも札幌専門店会が創立20周年を迎えたことを記念して、境内に植樹をしたことを記念して碑を建てたと思われる。
 
 ⑧大典記念梅林碑(大正天皇)

                
 この碑は、歌碑群のところからは離れ、梅林が多く植えられている一角に建てられていた。
 ウェブ上を調べてみると、北海道庁の拓殖課技術員の研修を目的とした「甲寅會」が、大正天皇の即位を記念して、梅林植樹したのを記念した碑だとのことである。
 碑は上部に「大典記念」と刻まれ、その下に「梅林碑」と刻まれている。建立は大正5年5月ということである。

 ⑨吟魂碑 

               
 その「大典記念梅林碑」の近くに、この「吟魂碑」は大小色とりどりの自然石でできた台座の上に碑が置かれていて「吟魂碑」と大きく描かれている。
 碑は、昭和45年9月、日本詩吟学院岳風会北海道本部が創立30年を記念して建てられたようである。

 ⑩門人桜植樹記念碑

                
 この碑も梅林内に建てられていた。自然石でできた碑の碑面中央には「門人桜植樹記念」と刻まれている。碑は「北海道正調追分節隆城門人会」が師匠の須藤隆城の還暦を祝って建立されたそうだ。
 建立年は調べたが残念ながら分からなかった。

 ⑪開拓三神鎮座百年記念「明治の森」 

               
 この碑を見つけるのに多少苦労をした。というのも、「明治の森」と称するだけあって、木々が繁る林のやや奥に建っていたからだ。
 碑には「献木 明治の森」と刻まれている。
 碑は、島義勇が三神(「大国魂神」、「大那牟遅神」、「少彦名神」)を背負い札幌入りし、札幌神社に三神を鎮座してから100年を記念して建てられたそうだ。
 碑を建立しのは、札幌市老人クラブ連合会が昭和46年5月4日に建てられたと記されている。

 以上、今回は11の碑を紹介したが、その中で目立ったのが句碑も含めて歌碑の類の多さである。歌碑は市内各地にもさまざまなところに建っている。そうした歌碑と、神宮内に建てられる歌碑には何か違いがあるのだろうか?

 北海道神宮内に建てられている碑を(1)、(2)を通じて21の碑を私は自身の目で確認することができたが、先述したように北海道神宮境内には31基の石碑があるとも伝えられている。今期は冬が近づいていることもあり、これ以上の探索は無理だが、来シーズンにも機会があったら残りの石碑を探してみたい。 
                                            (2017/10/31)
 

桑田真澄が己の野球人生を語る

2017-11-15 18:52:49 | 講演・講義・フォーラム等
 元巨人軍エースの桑田真澄は言う「自分の人生は挫折の連続だった」と…。そしてさらに彼は言う「自分は幸運だった」と…。しかし、挫折を乗り越えるために、彼は壮絶な努力を自分に課していたようだ。桑田真澄が己の野球人生を語るのを聴いた。

                    

 11月10日(金)、前日に引き続いて「ビジネスEXPO」のビジネスセミナーを聴くためにアクセスサッポロに馳せ参じた。
 この日のプログラムは、ドリーム講演と銘打って現在野球評論家として活動している桑田真澄氏が「試練が人を磨く」と題して講演した。
 さすがに有名人とあって受講希望者が殺到し、およそ100名程度のメイン会場は入りきらず、私はサブ会場でプロジェクターでの同時中継を見ながらの受講となった。

 桑田氏は冒頭、自分は野球が大好きであり、素晴らしいスポーツだと思っている。と話した後、「自分の人生は挫折の連続だった」と語った。
 まず、生年月日が1968(昭和43)年の4月1日だったことだという。4月1日は早生まれに属するために、特に小学生時代は遅生まれ(前年の4月2日以降に生まれた人)に比べて1年おくれの状態で体格的なハンディを背負った小学生時代だったと振り返った。
 さらには、小学校時代には野球チームに入ったときには、飛び級で上級生チームに加わったために「いじめ」で野球を辞めてしまったこと。清原選手との出会ったときには、清原の怪物ぶりにそれまで培った自信が粉々に砕かれたこと。さらにはPL学園入学時も周りのレベルの高さから野球を辞めようと思ったこと。そしてプロでも肘の故障で挫折を味わったという。

 そうした挫折をなぜ乗り越えられたのか、ということについて、桑田は「自分は幸運だった」と何度も口にした。
 幸運とは、母親の存在を指している。彼の母は彼が挫折する度に「ぜったいあきらめてはダメ」、「この後、何があるか分からない」、「自分らしく、自分のペースで」と励まし続けてくれたという。
 この母の言葉から、自分らしくとは何だろうと考えたときに、上背もない、投球も飛びぬけて速いわけではない、自分は総合力で勝負しようと心に決めたそうだ。このあたりが桑田の真骨頂のように思える。

 桑田はまた、中学時代にまったく不得意だった勉強で努力することで成績が向上する楽しさを知ったという。つまり「努力」が楽しいことを自覚したという。
 彼の努力の極意は「けっして沢山しないこと」だという。少しを集中して、それをコツコツだという。彼の言葉を借りれば「短時間集中継続型」が大事だと話した。

 桑田はまた、物事には裏と表の二面性があるという。野球をする上において、桑田はその「裏」と「表」の両立を目指していたという。
 例えば、学生時代には「野球」と「勉強」の両立。プロの時代は「結果」と「プロセス」、引退後は「戦略」と「収益」というように、相反する二つのことを両立させるように心がけていたそうだ。
 彼が誇らしげ(?)に語ったことは、中学、高校を通じて授業中に居眠りしたことは一度もなかったことだという。

 桑田はまだまだ多くのことを語った。その語り口は、メディアから伝わる桑田そのもので、静かに、穏やかに語り続けるもので、自分を美化するでもなく、卑下するでもなく…。

 彼の講演で面白いと思ったのは、事前に彼のサインをした色紙をたくさん(30枚くらい?)用意して、話の節々で受講者に問いかけ、それに応えた方に色紙をプレゼントしていたことだ。
 そして、桑田氏はメイン会場だけではなく、サブ会場にも姿を見せてくれ、サブ会場の人たちにも色紙をプレゼントしていた。
 私はもちろんその対象とはならなかったが、色紙は桑田自身が手渡しするのだが、一度だけ私の傍を通ってプレゼントしたときがあった。そのとき彼の体格がごくごく普通であることに(身長174cm)改めて驚いた。
 プロ野球界では小柄に属する体格で、巨人軍のエースとして君臨し通算173勝もあげたということは、相当な努力なくしてなしえなかったもの、と改めて桑田真澄の偉大を知らされた思いだった。

札幌歴史散歩 10 中央区・北海道神宮(1)

2017-11-14 20:17:23 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 さすが北海道神宮である。さまざまな石碑などが集中している感がある。ある新聞によるとその数31基とのこと。31基を一気に紹介するのは、さすがに食傷を覚えるであろう。よって2回に分けて紹介することにした。 

               

 北海道神宮境内の石碑類が31基とリード文で紹介したが、私は残念ながらそこまで多数の石碑を見ることはできなかった。
 というのも私の場合は、事前に北海道神宮の社務所に伺い、「境内の石碑の場所が分かるものはないだろうか?」と尋ねた際に、社務所スタッフの方からそれらの場所を示す北海道神宮発行のパンフをいただいた。私はそれを頼りに石碑巡りをしたのだ。そのパンフによると石碑等の数は22ヵ所だったのだ。私はそのうち、1ヵ所だけどうしても見つけられない石碑以外は見つけることができたので、21ヵ所の石碑類のうち、今回は10ヵ所の石碑を紹介したいと思う。
 
 ①皇太子殿下(昭和天皇)御成婚記念植樹碑 

                    
 今上天皇の父君である昭和天皇が御成婚を記念して植樹されたことを記す記念碑である。
 この碑は意外に目立たないところに立っている。北海道神宮の第一鳥居を過ぎ、第二鳥居が近くなった左手の大きな木が繁茂する小高い丘の中腹に立っている。注意すると見つけられるが、見過ごしてしまう場合もありそうだ。
 碑には大正13年5月と刻まれていたので、建立年だと思われる。 

 ②「献杉木壹千本」碑 

                    
 第二鳥居を過ぎ、玉砂利の参道を外れて右手に入ると、参道脇に札幌軟石製の石碑が立っている。
 資料によると、事業に成功した助川貞二郎氏が大正5年に北海道神宮に杉木を一千本献納したことを記念して建立されたようだ。

 ③福玉仙吉献桜百五十株記念碑 

                    
 「献杉木壹千本」碑からそれほど離れていないところにこの碑は立っている。
 福玉仙吉は開拓使初代判官の島義勇の従者として来道した。島は翌年罷免されて東京に戻ったが、福玉は北海道に留まり農業を営んだという。
 その後、島は佐賀の乱の首謀者の一人として捕縛された後、斬首の上梟首にされた。それを知った福玉はかつての主である島の死を悼んで明治8年に北海道神宮の境内に150本の桜の苗木を献納したその記念碑である。

 ④さざれ石

               

                
 史跡や石碑ではないが、本殿に入る前の右側に鎮座する「さざれ石」も紹介しておく。
 さざれ石とは、小さな石が集まったもので、石灰成分によって一つの岩になったものを「さざれ石」と呼ぶそうだ。さざれ石は日本各地の神社で見ることができるが、その理由は古くから神霊の宿る石と信じられているからだそうだ。
 最近の人たちは、いわゆるパワースポットの一つとして、この石に触ると頭が良くなるといわれて人気のスポットの一つになっているようだ。国歌の一節にも入っていることはご承知のとおりである。

 ⑤島義勇の像 

               
 島義勇が北海道開拓の礎となったことについて私が説明するまでもないことなので、そのあたりについては割愛する。ただ、島が開拓使判官を命ぜられ、明治2年、国造りを行った神として古事記が記す大國魂神・大那牟遅神・少彦名神の三神の御霊代を背負い札幌入りしたことはあまり知られていないかもしれない。
 そして島は札幌の街づくりを計画する際、当時の札幌神社を円山に決めたといわれている。
 明治49年、明治天皇の神霊を合祀して札幌神社が北海道神宮となり10年経ったことを記念して、本殿入り口脇に高さ4メートルの大きな像が建てられたそうだ。
 
 ⑥「御即位十年記念献木」碑(大正天皇) 

               
 この碑は、表参道から一本それた散策路のそばに立っている。
 資料によると、大正天皇の御即位10年を記念して、当時の札幌銀行会社懇話会が100株の桜の木を献納して植樹されたことをこの碑は示しているという。

 ⑦奉納太々神楽寄金之碑 

               
 この碑は、裏参道から境内を本殿方向に進んでいく途中の林の中に立っている。
 若干資料にあたったが、見当たらなかったので私の拙い推測を記してお茶を濁す。この碑は、北海道神宮で催される太々神楽を行うために寄金を集めたことを記す碑のようである。建立は、「明治二十四年六月大祭日建」となっている。
 なお、太々神楽とは、伊勢神宮に奉納される太神楽のうちでも最も大掛かりな神楽のことを言うそうだ。

 ⑧御鎮座五十年玉垣門記念碑 

                
 北海道神宮の本殿から第三鳥居に向かって進むと、右手の林の中に三つの碑が並んで立っている。その中で、自然石を少し加工しただけの古びた碑がこの「御鎮座五十年玉垣門記念碑」である。碑は札幌神社が遷宮して50年にあたり玉垣門を造成した記念碑ではないかと言われている。
 札幌神社が円山に遷座されたのが明治4年だから、それから50年後というと大正11年に建立されたことになるようだ。


 ⑨皇軍全勝祈祷之碑(日清戦争) 

                    
 三つ並んだ碑の真ん中に位置するひときわ大きな円筒状の碑が「皇軍全勝祈祷之碑」である。この碑は、明治27年から翌28年にかけて戦われた日本と中国(当時の清)間の日清戦争における勝利を祈願して建立されたものと思われている。

 ⑩日露戦役記念碑 

                    
 三つ並ぶ中、最も本殿から離れた位置に立つ白っぽい小さな碑が「日露戦役記念碑」である。
 日露戦争は、明治37年から翌38年にかけて日本とロシアの間で、主として朝鮮半島と満州南部で戦われ、日本軍の勝利に終わった戦争である。
 その建立の由来などについてははっきりしないところが多い。そもその「戦役記念」とは何を意味するのだろうか?「勝利」という文字を使用せず「戦役」としたところに何か意味がありそうにも思われる。勝利という結果だったとはいえ、非常に大きな犠牲を伴った戦争だったことを意味し、後世に伝えようとしたのだろうか?

               
          ※ 境内を散策しているとき、枯葉の中でせっせと餌を探すエゾリスがいた。人慣れしているのかまったく逃げる気配がなかった。

 やはり北海道神宮の境内に建つ石碑は他所とは趣の違う石碑が多い。特に目立つのが献木と寄金とか、献納に関する碑である。神宮が、あるいは神宮の森が多くの方々の基金や献納によって成り立っていることが分かる。
 また、時代を画した記念の石碑が多いことも、やはり北海道神宮ならではと思わされた。
                                             (2017/10/31)
 

DMOって何?

2017-11-13 23:48:58 | 大学公開講座
 講師からいきなり「DMOとは何か知っていますか?」と問われた。「DMOなんて聞いたことがないなぁ…」と思いながら、講義を聴き続けた私であるが、私の勉強不足も思い知らされた公開講座だった。 

 北大の観光学高等研究センターの公開講座が始まった。講座のテーマは「デスティネーション・マネジメントと地域のこれから」と題するもので、6回連続講座である。
 その第1回講座が、11月9日(木)夜、開講された。
 最初の講座は高等研究センター長の西山徳明教授の予定だったのだが、事情により木村宏特任教授が代わって務められた。

                  

 木村氏の用意されていたテーマは「ロングトレイルの普及から考えるデスティネーション・マネジメント」というものだったが、講座の第1講目ということもあって、全体テーマについての説明から入った。
 その冒頭に話されたのが、「DMOとは何か知っていますか?」という問いだった。恥ずかしながら、私は初耳だった。しかし、よく聞くと「DMOとは、Destination Management Organizationの頭文字をとった言葉である」ということだ。
 なんてことはない。デスティネーション・マネジメントとは、講座の募集要項の中でも「観光地経営の視点に立った観光地づくり」と説明されているではないか!つまりDMOとは、観光地経営の視点に立った観光地づくりを進める組織・機関ということになる。

 つまり北大の観光学高等研究センターでは、研究的視点からDestination Managementについて研究を進め、その研究の成果を観光地振興に寄与していこうとしていることの一端を公開講座の形で私たちに聞かせてくれるということのようである。
 観光学高等研究センターがこうした研究を推進する背景には、観光の姿が従来とは変質してきていること、あるいはインバウンドの増加などがあるようだが、それとともに現政権が進める「ローカル・アベノミクス」の推進があるという。
 確かに現政権は、「観光」を国の重要な産業の一つと位置付け、「観光先進国」を目指しているとメディアも伝えていたように記憶している。
 その観光先進国実現のために、より戦略的に観光地経営を考えようと、研究機関の力も借りようということなのだろう、解釈する。

             

 さて木村氏の専門分野である「ロングトレイル」についてである。
 近年は、人々の健康志向もあってロングトレイル(長距離自然歩道)を楽しむことが静かなブームになっているという。その動きにメディアも熱い視線を送っているということだ。
 そうした中、現在東日本大震災からの復興の意味もあって、青森県八戸市から福島県相馬市までの総延長約700kmにもなる東北4県の太平洋沿岸を繋ぐ「みちのく潮風トレイル」の整備が進んでいるという。
 整備は環境省が主導する形で、各県や市町村の連携で進められているらしいが、連携をスムーズに進めるためにもDOM的発想で準備が進められているという。
 具体的には宮城県名取市に「トレイルセンター」を設置し、沿線6ヵ所にサテライトを置いて、「みちのく潮風トレイル」の整備・振興を図っていくことになっているそうだ。
 各県、各市町村にまたがる運動・組織のために難しい課題も山積しているということだが、モデルケースとしての成功を願いたい。

             
  
 私はこの「みちのく潮風トレイル」のことを3年前に知り、さっそく関係機関からマップを取り寄せたのだが、その結果当時はまだコースがぶつ切り状態だったために、ガッカリした経験を持っている。
 全線開通は平成30年度ということだ。つまり曲がりなりにも全線が開通し、全てを歩けるようになるのは平成31年からということのようだ。
 700kmはとても無理だがねその一部でも歩いてみたい気がするのだが…。

札幌歴史散歩 9 南区・石山地区

2017-11-12 17:02:13 | 札幌ぶらり散歩 & Other
 南区・石山地区は「石山緑地」に代表されるように、札幌軟石の採石場があったところで、そのことに関する史跡も多いところである。少し広範囲となったが、石山地区界隈を巡った。 

 このところサンドイッチ的に一日おきに「札幌歴史散歩」を投稿している。こうした史跡めぐりは他サイトでも取り組んでおられる方が多いためか、アクセス数が芳しくないのだが、今の私にとっては大きな関心事なので、もう少し続けたいと思っている。お付き合いのほどを…。

 石山地区となると、札幌都心から直線距離でも10km以上離れているので、この日は自家用車で石山地区に出かけた。目指すは「石山緑地」である。ここは石山軟石採石場跡を公園化しているところである。この「石山緑地」に併設されている駐車場に車を駐車し、史跡巡りをした。

 ①石山軟石採石場跡

               
               ※ 今回は敢えてアート的なところを除いて、採石場跡らしいところを写した。

                
               ※ この石山地区を訪れたときはすでに夕刻近くだったため写真がいつも以上に鮮明でないことをお断りします。
 「石山緑地(石山軟石採石場跡)」は、史跡というよりは芸術的な公園としての方が札幌市民には良く知られた存在である。
 石山軟石は、約4万年前に支笏火山が大噴火した際に、大量の火砕流堆積物を噴出し、それが20kmも離れた石山地区に降り積もり、その溶結部が石材として注目され、明治時代に石材として注目され、建築物の資材として盛んに利用されたという。
 その採掘場の跡を北海道の彫刻家集団がユニークなアート空間として公園風に再生させたのが「石山緑地」である。
 現在でも札幌市内の様々なところで札幌軟石を使った建物が見られることは良く知られている。

 ②石切山街道碑 

               

                           
               ※ 碑の横に建てられた副碑には名称の由来や札幌軟石の歴史が刻まれていました。
 「石山緑地」からおよそ900m、かつて国道230号が走っていた、現在は市道平岸通沿いに、札幌軟石製の大きな石碑が建っている。これが「石切山街道」碑である。
 この街道の名称は、平成6年に公募で街道名が決まったということで、いわゆる愛称の類のようだ。現在の「石山」は、かつて「石切山」と称していたことからこの名が付いたようだ。

 ③旧石山郵便局(ぽすとかん) 

               

               
 「石切山街道」碑から平岸通を南に350mほど戻った交差点のところに札幌軟石製の2階建ての建物が目に入る。「旧石山郵便局(ぽすとかん)」である。1940(昭和15)年に建築された郵便局舎を再利用しているものである。
 現在は、イベントスペースとして使用されるほか、民間の会社も入居しているようである。内部観覧もできるようだが、私が行ったときは夕刻近かったこともあり、扉は閉まっていた。

 ④旧定山渓鉄道石切山駅(現石山振興会館) 

               

               
               ※ 旧駅舎の建物の傍には駅名板が立てられていました。          
 「旧石山郵便局」の道路向かいに白い木造の建物が建っている。この建物が「旧定山渓鉄道石切山駅」である。
 1918(大正7)年に開通した定山渓鉄道は、豊平から定山渓までの区間を半世紀にわたって運行したそうだ。1969(昭和44)年の鉄道が廃止された後、現存する唯一の定山渓鉄道の駅舎である。駅舎は木造だが、基礎部分には札幌軟石が使われている。
 現在は、石山商店街振興組合の事務所として活用され、向かいの「旧石山郵便局」とともに、石山地区の歴史を物語るシンボルとして親しまれているそうだ。

 ⑤石森和男歌碑 
 
               

               
 この碑は平岸通沿いに建つ石山小学校の敷地内にあった。
 石森和男という方は、北海道においては高名な歌人だったようで、藻岩山ロープウェイ下には、この地より立派な歌碑が建っているようだ。
 石山小学校HPによると、「この碑は、開校80周年を記念して卒業生の辻勝三氏と岩本光正氏が、石切り場で栄えた石山の姿を後世に伝えようと石山に縁の深い歌人石森和男氏の歌碑を建立した」となっているが、石森氏が石山とどのような縁なのかについて、少し調べたのだが分からなかった。
 なお、歌碑には「にぐるまも 輪をかたむけてあぶなしや 石まろびころぶ 石山の里」
と刻まれている。


               ※ 石山神社の境内に至るには札幌軟石製の急な石段を上らねばなりません。 
               

               


 ⑥石山開基百年記念碑 

               

               
 石山小学校の道路向かい、少し奥まったところに小高い丘があり、札幌軟石で造られた急な階段を上ると、右手に立派な台座に乗った石碑が目に入る。これが「石山開基百年記念碑」である。碑は石山の歴史を誇示するように台座から本体までふんだんに札幌軟石が使用されていた。
 碑は石山地区が開基百年を迎えた1974(昭和49)年に建立されている。

 ⑦石山神社境内碑群 

               

                              
 石山神社では2004(平成16)年に石山神社創祀120年の記念事業として、境内内に散在していた碑を一括して現在地に移設したということだ。
 それらの碑は、◇山の神、◇山乃神忠魂碑、◇稲荷大神(碑)、◇招魂碑、◇天照皇大神、◇八幡大神、◇春日大明神(碑)の七つの碑である。

 
 石山の歴史を少し調べてみた。石山地区は1974(昭和49)年に開基百年を迎えているということだから、遡ること百年前1875(明治8)年に初めて開墾の鍬がおろされたことになる。
 そして石山地区は平岸村の一地区に含まれたそうだが、その平岸村は1872(明治5)年に開村したとなっていることから、石山地区は平岸地区よりは少し遅れて開墾されたということのようだ。
 なお、平岸村は1902(明治35)年に豊平村に吸収合併され、さらに豊平村(当時は町)1961(昭和36)年に札幌市に吸収合併されたということである。

 最後に石山地区へのアクセスであるが、地下鉄「真駒内駅」からのバス便が適していると思われる。
 「真駒内駅」より、「空沼」行き、「滝野」行きに乗車し、「石山東3丁目」で下車すると徒歩3分で「石山緑地」に到達する。
 見学域内の徒歩距離は、2.8キロ程度と高齢者には少し辛い距離かもしれない。
 帰りは、石山神社下のバス停「石山小学校」から乗車することができる。
                                             (2017/10/31)

AI(人工知能)はどこへ行くのか?

2017-11-11 21:51:14 | 講演・講義・フォーラム等
  AIが将棋や囲碁のプロ棋士を凌駕したニュースはもうかなり前のニュースのような気もする。それほど進化し続けるAIはどこへ行くのか?そして、人間とAIの関係はどうなっていくのか?AI研究の第一人者に聞いた。

               

 11月9日(木)午前、アクセスサッポロで開催された「ビジネスEXPO」のセミナープログラムの基調講演を受講する機会を得た。
基調講演は、人工知能学会の前会長であり、はこだて未来大学の副理事長である松原仁氏「人間は人工知能とどう付き合っていくべきか」と題して講演した。

 松原氏は冒頭に、「人工知能についての明確な定義はない」と話された。
 概念的には、工学的な目的として「人間のような知性を持った人工物を作ることが目標」だという。また、科学的には「コンピュータを題材にして知能について研究すること」だという。
 う~ん、難解である。具体的には、松原氏は「個人的には鉄腕アトムを作りたい」とおっしゃった。少しイメージができるかもしれない。

                    

 さて、AI(人工知能)の発達の歴史にはこれまで3度の波があったと松原氏は言う。
 1度目は1950年代、2度目は1970年代だという。その2度とも夢は描かれるのだが、現実が追い付いていなかった。そして今、2010年代に入って3度目のブームが訪れていて、今度こそはどうやら本物との雰囲気が出てき始め、企業や政府研究機関が本腰を挙げてAIの研究をスタートしたそうだ。
 その背景には、ビッグデータとIoTの存在が大きいという。

 AIが今どのように産業に応用されているかというと、自動車の運転支援、出入国などの個人認証、肺がんや大腸がんの写真検査、社内メールの管理など、さまざまな分野に及んでいるという。現在のAIの得意分野は画像認識の分野において優れているそうだ。

 将棋や囲碁において、すでに人間を凌駕する力量を備えたAIであるが、全てにおいて人間に取って代わるということではないという。
 AIが人間に取って代わることのできない分野には、想定外の状況における判断、新しい枠組みを思いつくこと、新しい価値を創造すること、等々の分野である。

 ということは、将来において私たちの仕事がAIに取って代わられそうな職業として、一般事務員、会計監査係員、給食調理人、銀行窓口係、タクシー運転手などが考えられるという。シンクタンクなどの予想では、現在の日本の労働人口の49パーセントが取って代わられるとの予測もされているそうだ。

                    

 最後に松原氏は、人間と人工知能(AI)のこれからについて、次の4点を指摘された。
 ①人間と人工知能で役割を分担する
 ②「人間+人工知能」として賢くなっていく
 ③人工知能をいいものにするのも、悪いものにするのも人間次第である。
 ④賢くなった人工知能を人間が受け入れるにはある程度の「とき」が必要と思われる。

 そして、松原氏が指摘した4点を具現化した形で私たちが認識できるのは「スマートフォン」であるとした。確かに、スマホを使用することによって私たちが得たい情報が瞬時に、多量に得ることができるようになった。
 そのスマホを良い方向に使用するか、そうでない方向に利用するかは人間次第である。スマホの良さに気づいた人たちは、今や老若男女すべてが使用し始めたのも、松原氏が指摘したことに当てはまるような気がする。

 どうやら人工知能(AI)第三の波は、私たちの生活を大きく変えようとしているようである。今夜のテレビが伝えていた。中国では商品の売買においてスマホ決済が常識になりつつあると…。
 技術の進歩には、必ずと言ってよいほど「光と影」がある。「影」の部分がはびこることに十分留意しながら、人工知能(AI)が私たちの生活に「光」をもたらしてほしい。