豊平区の「月寒公園」は、各区にある総合公園の中ではけっして大きな公園ではないようだが、実に多彩な公園である。二つの野球場、テニスコート、ボート池、各種の遊具広場、等々…。その一角、小高い丘に「歴史の森」が展開し、地域の歴史を語るさまざまな石碑が建っていた。
実は、この「札幌歴史散歩」の掲載順を間違えてしまった。前回投稿したPart 3は10月28日に訪れ、今回の「月寒公園」が訪れたのは10月27日だった。
それはちょっとアクシデントとして、今回は「月寒公園」で見ることのできた石碑についてレポすることにする。
「月寒公園」へ行くには、やや不便なところがある。地下鉄を利用した場合は東豊線の「美園駅」、「月寒中央駅」からともに徒歩で10分ほどかかる。
バスの場合は、月寒公園の周辺に何か所かバス停があるようだ。
さて、リード文でも触れたが、「月寒公園」は札幌市内の総合公園としては決して広い公園ではないようだが、家族連れが憩うにはさまざまな要素が詰まっていて、楽しい公園と私には映る。そんな中、公園の中心から少し離れるが、小高い丘を登ったところに「くつろぎの森」と「歴史の森」が連続して配置されている。
落葉が降り積もっている中を、まずは「くつろぎの森」にある「月寒開基百年之碑」を目指した。
① 月寒開基百年之碑
この碑は、月寒開基百年にあたる昭和45年9月に、明治初期に月寒を開拓した先駆者の苦労をしのび、その偉業をたたえて地元有志により建てられたものだそうだ。
当時、月寒に入植した人たちは、南部藩士が主体で44戸(185人)だったという。
② 永遠の像
この像は「月寒開基百年の碑」のそばに建っている。この彫像は、昭和36年5月1日の札幌市と豊平町の合併にあたり、豊平開拓の先人の遺業をたたえ、郷土豊平の発展的終えんを祈念して昭和37年9月に月寒公園内に建立されたそうだ。4人の全身裸像からなる彫像の作者は、竹中敏洋氏である。
※ 続いて私は「くつろぎ森」から続く、「歴史の森」へと進んだ。
③ 忠魂碑
月寒公園と隣り合わせのようにして「月寒神社」がある。その境内のすぐ横、月寒公園内にこの「忠魂碑」は建っていた。
忠魂碑はどこでも地域から出征した兵士の霊を慰めるために建てられているが、この碑は日露戦争で散った豊平町出身の兵士たちの霊を慰めるために、大正4年8月に建立されたと記されていた。
④ 開町五十年記念碑
「歴史の森」の中央付近に、やや古びた石碑が建っていたが、これが「開町五十年記念碑」である。
札幌市との合併になるはるか前の大正9年、豊平町が開かれて五十年を記念して有志が建立したと説明板に書かれていた。
⑤ 吉田善太郎功労碑
「開町五十年記念碑」と肩を並べるようにして建つ大きな碑が「吉田善太郎功労碑」である。吉田善太郎は、地域の中心人物として多くの公職を務めながら、地域に尽くし地域の多くの人たちから敬慕を受けていたようだ。特に吉田の業績として特筆されるのは、清田から北野、大谷地、下白石を経て月寒川に至る、延々6kmに達する水田用水路を造りあげたことだそうだ。そうした吉田善太郎の功績をたたえて、大正2年11月に地元有志をはじめ、多くの賛同者たちの手によって建てられたそうである。
⑥ 阿部輿助表懿徳碑(あべよのすけのいとくをひょうする)
阿部輿助は山形県の出身だが、若いころは苦労しながらも刻苦勉励して財を得た。その財を故郷で生活に苦しむ人を助けたいと63戸の農民を誘致して入植させ、自費を投資ながら農民を助けたという。それだけではなく、道路や橋の建設、小学校の創設、消防組の編成、役場庁舎建設の負担など多方面に業績を残したという。
そうした功績をたたえて、大正9年に当時の有志によって建立されたという。
※ 「歴史の森」を終えた私は、公園の反対側になる高台野球場の方に向かった。こちらには歴史を語るというよりは、さまざまな形で後世に残そうする碑が建っていた。
⑦ 北光星第八句碑
大正12年、現在の北見市に生まれた北 光星(本名:孝義)は、道内で作句活動に励むが、昭和34年豊平に居を構えて俳人として活動し、平成11年には北海道文化賞を受賞したという。その受賞を祝い、併せて北の喜寿を祝って句碑が建立されてそうだ。
碑には、「開拓や 斧よ 木霊よ 遠郭公 光星」と刻まれている。
⑧芥子澤新之介歌碑
高台野球場がある公園の端にその碑はあった。
芥子澤新之介(本名:田中彌藤次)は、明治27年新潟に生まれるが、実家の老舗酒造家が倒産し、北海道に移住した。小樽高商を経て、早大に進学するが、そこで短歌に目覚め、短歌の道に入った。
早大卒業後、幾多の変遷を経て北海道(雪印乳業?)に職を得ながら、短歌の創作に勤しみ、自我に徹し孤独を慈しむ作風が多くの人を魅了し、北海道歌壇に大きな功績を残したそうだ。昭和47年、多くの賛同者により歌碑が建立されてという。
その歌碑には、芥子澤作の「あかしやは花の さく日も静かにて すでにちりくるさ むき地のうへ 新之介」と刻まれている。
⑨昭和53年度「はたちのつどい」記念碑
芥子澤新之介の歌碑の近くに小さな碑が建っていた。
それはタイトルのとおり、昭和53年度に二十歳を迎えた人たちが、その記念に建てたものらしい。公園内にこうした碑が建っているのは、この年度だけである。何か特別の年だったのだろうか??
以上、月寒公園内にある碑だけを巡って歩いたが、公園内は平たんではなく、坂道が多く、歩く距離はそれほどではないが、けっこうな負荷のかかる見学になりそうだ。
(2017/10/27)
実は、この「札幌歴史散歩」の掲載順を間違えてしまった。前回投稿したPart 3は10月28日に訪れ、今回の「月寒公園」が訪れたのは10月27日だった。
それはちょっとアクシデントとして、今回は「月寒公園」で見ることのできた石碑についてレポすることにする。
「月寒公園」へ行くには、やや不便なところがある。地下鉄を利用した場合は東豊線の「美園駅」、「月寒中央駅」からともに徒歩で10分ほどかかる。
バスの場合は、月寒公園の周辺に何か所かバス停があるようだ。
さて、リード文でも触れたが、「月寒公園」は札幌市内の総合公園としては決して広い公園ではないようだが、家族連れが憩うにはさまざまな要素が詰まっていて、楽しい公園と私には映る。そんな中、公園の中心から少し離れるが、小高い丘を登ったところに「くつろぎの森」と「歴史の森」が連続して配置されている。
落葉が降り積もっている中を、まずは「くつろぎの森」にある「月寒開基百年之碑」を目指した。
① 月寒開基百年之碑
この碑は、月寒開基百年にあたる昭和45年9月に、明治初期に月寒を開拓した先駆者の苦労をしのび、その偉業をたたえて地元有志により建てられたものだそうだ。
当時、月寒に入植した人たちは、南部藩士が主体で44戸(185人)だったという。
② 永遠の像
この像は「月寒開基百年の碑」のそばに建っている。この彫像は、昭和36年5月1日の札幌市と豊平町の合併にあたり、豊平開拓の先人の遺業をたたえ、郷土豊平の発展的終えんを祈念して昭和37年9月に月寒公園内に建立されたそうだ。4人の全身裸像からなる彫像の作者は、竹中敏洋氏である。
※ 続いて私は「くつろぎ森」から続く、「歴史の森」へと進んだ。
③ 忠魂碑
月寒公園と隣り合わせのようにして「月寒神社」がある。その境内のすぐ横、月寒公園内にこの「忠魂碑」は建っていた。
忠魂碑はどこでも地域から出征した兵士の霊を慰めるために建てられているが、この碑は日露戦争で散った豊平町出身の兵士たちの霊を慰めるために、大正4年8月に建立されたと記されていた。
④ 開町五十年記念碑
「歴史の森」の中央付近に、やや古びた石碑が建っていたが、これが「開町五十年記念碑」である。
札幌市との合併になるはるか前の大正9年、豊平町が開かれて五十年を記念して有志が建立したと説明板に書かれていた。
⑤ 吉田善太郎功労碑
「開町五十年記念碑」と肩を並べるようにして建つ大きな碑が「吉田善太郎功労碑」である。吉田善太郎は、地域の中心人物として多くの公職を務めながら、地域に尽くし地域の多くの人たちから敬慕を受けていたようだ。特に吉田の業績として特筆されるのは、清田から北野、大谷地、下白石を経て月寒川に至る、延々6kmに達する水田用水路を造りあげたことだそうだ。そうした吉田善太郎の功績をたたえて、大正2年11月に地元有志をはじめ、多くの賛同者たちの手によって建てられたそうである。
⑥ 阿部輿助表懿徳碑(あべよのすけのいとくをひょうする)
阿部輿助は山形県の出身だが、若いころは苦労しながらも刻苦勉励して財を得た。その財を故郷で生活に苦しむ人を助けたいと63戸の農民を誘致して入植させ、自費を投資ながら農民を助けたという。それだけではなく、道路や橋の建設、小学校の創設、消防組の編成、役場庁舎建設の負担など多方面に業績を残したという。
そうした功績をたたえて、大正9年に当時の有志によって建立されたという。
※ 「歴史の森」を終えた私は、公園の反対側になる高台野球場の方に向かった。こちらには歴史を語るというよりは、さまざまな形で後世に残そうする碑が建っていた。
⑦ 北光星第八句碑
大正12年、現在の北見市に生まれた北 光星(本名:孝義)は、道内で作句活動に励むが、昭和34年豊平に居を構えて俳人として活動し、平成11年には北海道文化賞を受賞したという。その受賞を祝い、併せて北の喜寿を祝って句碑が建立されてそうだ。
碑には、「開拓や 斧よ 木霊よ 遠郭公 光星」と刻まれている。
⑧芥子澤新之介歌碑
高台野球場がある公園の端にその碑はあった。
芥子澤新之介(本名:田中彌藤次)は、明治27年新潟に生まれるが、実家の老舗酒造家が倒産し、北海道に移住した。小樽高商を経て、早大に進学するが、そこで短歌に目覚め、短歌の道に入った。
早大卒業後、幾多の変遷を経て北海道(雪印乳業?)に職を得ながら、短歌の創作に勤しみ、自我に徹し孤独を慈しむ作風が多くの人を魅了し、北海道歌壇に大きな功績を残したそうだ。昭和47年、多くの賛同者により歌碑が建立されてという。
その歌碑には、芥子澤作の「あかしやは花の さく日も静かにて すでにちりくるさ むき地のうへ 新之介」と刻まれている。
⑨昭和53年度「はたちのつどい」記念碑
芥子澤新之介の歌碑の近くに小さな碑が建っていた。
それはタイトルのとおり、昭和53年度に二十歳を迎えた人たちが、その記念に建てたものらしい。公園内にこうした碑が建っているのは、この年度だけである。何か特別の年だったのだろうか??
以上、月寒公園内にある碑だけを巡って歩いたが、公園内は平たんではなく、坂道が多く、歩く距離はそれほどではないが、けっこうな負荷のかかる見学になりそうだ。
(2017/10/27)