円山公園は、円山原始林と連続し、北海道神宮と隣接していることもあり多くの自然が残されている。公園内には、北海道や札幌開拓にまつわる銅像、石碑が多数建てられていた。
円山公園は、1880(明治13)年、札幌官園の樹木試験場として円山養樹園が開設したのが始まりという。その後、1901(明治34)年に養樹園が旭川に移転したのを機に、円山を公園として整備したいという声が上がり、1903(明治36)年に札幌区(当時)が借り受け、公園としての整備が始まったという。
10月30日(月)、中央区の山鼻地区の史跡巡りを終えた私は、自転車を駆ってそのまま円山公園に移動し、さっそく公園内の石碑巡りを開始した。幸いなことに「円山パークセンター」(公園管理事務所)に立ち寄ると、碑の位置を示したマップが用意されていたので、それを頼りに順に巡って回った。
すると思いもかけないところに、たくさんの石碑が建立されていることを確認することができ、私にとっては収穫の多い散歩であった。
①逓信従業員殉難碑
円山公園内にある「坂下野球場」の裏側になど立ち入ったことがなかった。しかし、そこにはたくさんの石碑群があった。
まず目に入ってきたのが、高さ6mにもなる大きな「逓信従業員殉難碑」だった。白御影石製の立派な石碑である。
1930(昭和3)年建立ということだが、郵便の配達中の事故な亡くなった方を祀っていると思われるが、昔なら冬期間に吹雪などに巻き込まれて亡くなられた方もたくさんいたのではと思われる。現在702名の方々が祀られているそうだ。
②北海道方面委員慰霊碑
続いての石碑の見つけるのにけっこう手間取った。「坂下野球場」の裏側はそれほど整備されているとは言い難く、あちこちと彷徨った末に、小高いところに「北海道方面委員慰霊碑」を見つけた。
こちらも高さ6mにもなる大きな白い円柱の石碑だった。
「北海道方面委員」ということが私には分からなかったが、帰宅して調べてみると、戦後になって民生委員と名称が変わったことが分かった。現在、民生委員は児童委員も兼ねているということだが、犠牲的精神で任に当たられている方々に報いるための碑ということだろう。1936(昭和11)年に建立され、その後改修されたということだが、現在9千名もの方々が祀られているそうだ。
③北海道鉄道殉難碑
続いて、「北海道方面委員慰霊碑」のすぐ隣のさらに小高い所に広場のように芝生が張り巡らされた中に「北海道鉄道殉難碑」があった。こちらは、前の二つの碑とは違い、芝生の広場に一角に、小さく四角い碑が建っていた。
辺りを圧するような大きな碑が多い中でシンプルなデザインが目を引いた。建立は1958(昭和28)年となっていた。
④山下秀之助先生歌碑
この歌碑のあたりになると、円山動物園に歩いて向かうときに目にする光景になってくる。歌碑はそうした遊歩道から離れ、小高い丘の上に上ったところに静かに佇んでいる。
山下氏は医師として札幌鉄道病院に勤める傍ら、大正から昭和にかけて文壇歌壇でも活躍され、没後道内の歌人たちの手によって建立されたもののようだ。
碑には「志ろがねに かヾやく雲の 空に満ち 無際限なる いのちの流れ 秀之助」と刻まれている。1957(昭和32)年建立。
⑤殉難消防員之碑
この碑は、円山動物園に向かう遊歩道からも目にすることができる。立派な台座の上にやや古びた碑石が載せられた格好になっている。
1923(大正12)年建立となっているが、1968(昭和43)年の開道100年、自治体消防制度20周年を期して改修されたとなっている。この際に台座などが整備したものと推察される。
⑥円山原始林碑
円山登山道の入り口にあって、登山をする際はいやでも目に入る碑であり、白御影石の石柱に「天然記念物 円山原始林」と刻まれている。
その碑から少し離れたところに副碑が建っている。そこには天然記念物に指定された経緯が綴られている。それを転写すると…。
「天然記念物 円山原始林 指定年月日 大正十年三月三日
この原始林は、明治のはじめ開拓使時代から保護され、その後、北海道庁が現生天然保存林に編入し大正十年に天然記念物に指定された。樹種は場所によって違うが、山麓の肥沃地にはカツラが発達し、上部にはミズナラが多く、山腹には、シナノキ、エゾイタヤ、オオバボダイジュなどの大木がめだち、これらに、ヤチダモ、センノキ、オヒョウ、サワシバ、キタコブシなどが混生している。林床には、ネマガリササが多いが、エゾイスガヤ、シダ類などの多いところがある。この原始林は、北海道温帯北部の代表的な天然林で学術上非常に貴重なものである。 注意事項(中略)
文部省 北海道教育委員会 昭和四十三年十月二十七日建設」
と刻まれていた。
⑦島判官紀功碑
円山公園の中でも最も人が行き交い、春には花見客で賑わう一角に平板の大きな碑(高さ8m)が屹立している。これが「島判官紀功碑」である。
島判官の人となりについては、私が説明するまでもないので省略するが、碑には490字もの漢文でその功績が綴られているという。
碑は1929(昭和4)年に建立されたという。
⑧包丁塚
公園内を南から北側へ横断し、北海道神宮への参拝路そばに「包丁塚」が座っている。
塚は1972(昭和47)年に調理師団体により建立され、年に一度使い終わった包丁などの法要を執り行っているそうだ。
⑨開道百年行幸啓記念碑
包丁塚からそれほど離れていないところにこの碑は建っている。
1968(昭和43)年、北海道は開道100年にあたり、また、札幌市も創建100年を迎えた。
この年には記念のイベントが数々催されたが、その式典には天皇・皇后両陛下が来道された。その際に、記念の植樹が行われ、記念碑が建てられたそうだ。
⑩岩村通俊像
円山公園内のやはり参拝路そばの木立の中の目立たぬところに「岩村通俊像」が建っている。
岩村通俊というと、島義勇が描いた札幌開拓の計画を実際に手掛けた2代目の開拓使判官であり、後の初代北海道長官である。
岩村の像は1933(昭和8)年、本山白雲によって制作され、大通西11丁目に建立されたが、戦時中に金属類の供出命令によって撤去されたが、1967(昭和42)年開道100年を記念して佐藤忠良により制作され、現在地に建てられたそうだ。
⑪母子像・ふるさと
円山公園の端、北1条西28丁目の旧札幌市長公邸跡に、全体が丸い形をした像が建っている。
ハンガリー出身の彫刻家ワグナー・ナンドールが制作した像だそうだが、ワグナー・ナンドール記念財団が札幌市へ2011(平成23)年 に寄贈したものだという。
全体が丸い形をしているのは、人類共通の母と子の愛情を球体で表現したそうだ。
この「円山公園」の石碑巡りのアクセスは、地下鉄「円山公園駅」から「円山公園パークセンター」まで約300m、徒歩5分である。
見学域内の移動距離は歩測で約2.5kmであった。
(2017/10/30)
円山公園は、1880(明治13)年、札幌官園の樹木試験場として円山養樹園が開設したのが始まりという。その後、1901(明治34)年に養樹園が旭川に移転したのを機に、円山を公園として整備したいという声が上がり、1903(明治36)年に札幌区(当時)が借り受け、公園としての整備が始まったという。
10月30日(月)、中央区の山鼻地区の史跡巡りを終えた私は、自転車を駆ってそのまま円山公園に移動し、さっそく公園内の石碑巡りを開始した。幸いなことに「円山パークセンター」(公園管理事務所)に立ち寄ると、碑の位置を示したマップが用意されていたので、それを頼りに順に巡って回った。
すると思いもかけないところに、たくさんの石碑が建立されていることを確認することができ、私にとっては収穫の多い散歩であった。
①逓信従業員殉難碑
円山公園内にある「坂下野球場」の裏側になど立ち入ったことがなかった。しかし、そこにはたくさんの石碑群があった。
まず目に入ってきたのが、高さ6mにもなる大きな「逓信従業員殉難碑」だった。白御影石製の立派な石碑である。
1930(昭和3)年建立ということだが、郵便の配達中の事故な亡くなった方を祀っていると思われるが、昔なら冬期間に吹雪などに巻き込まれて亡くなられた方もたくさんいたのではと思われる。現在702名の方々が祀られているそうだ。
②北海道方面委員慰霊碑
続いての石碑の見つけるのにけっこう手間取った。「坂下野球場」の裏側はそれほど整備されているとは言い難く、あちこちと彷徨った末に、小高いところに「北海道方面委員慰霊碑」を見つけた。
こちらも高さ6mにもなる大きな白い円柱の石碑だった。
「北海道方面委員」ということが私には分からなかったが、帰宅して調べてみると、戦後になって民生委員と名称が変わったことが分かった。現在、民生委員は児童委員も兼ねているということだが、犠牲的精神で任に当たられている方々に報いるための碑ということだろう。1936(昭和11)年に建立され、その後改修されたということだが、現在9千名もの方々が祀られているそうだ。
③北海道鉄道殉難碑
続いて、「北海道方面委員慰霊碑」のすぐ隣のさらに小高い所に広場のように芝生が張り巡らされた中に「北海道鉄道殉難碑」があった。こちらは、前の二つの碑とは違い、芝生の広場に一角に、小さく四角い碑が建っていた。
辺りを圧するような大きな碑が多い中でシンプルなデザインが目を引いた。建立は1958(昭和28)年となっていた。
④山下秀之助先生歌碑
この歌碑のあたりになると、円山動物園に歩いて向かうときに目にする光景になってくる。歌碑はそうした遊歩道から離れ、小高い丘の上に上ったところに静かに佇んでいる。
山下氏は医師として札幌鉄道病院に勤める傍ら、大正から昭和にかけて文壇歌壇でも活躍され、没後道内の歌人たちの手によって建立されたもののようだ。
碑には「志ろがねに かヾやく雲の 空に満ち 無際限なる いのちの流れ 秀之助」と刻まれている。1957(昭和32)年建立。
⑤殉難消防員之碑
この碑は、円山動物園に向かう遊歩道からも目にすることができる。立派な台座の上にやや古びた碑石が載せられた格好になっている。
1923(大正12)年建立となっているが、1968(昭和43)年の開道100年、自治体消防制度20周年を期して改修されたとなっている。この際に台座などが整備したものと推察される。
⑥円山原始林碑
円山登山道の入り口にあって、登山をする際はいやでも目に入る碑であり、白御影石の石柱に「天然記念物 円山原始林」と刻まれている。
その碑から少し離れたところに副碑が建っている。そこには天然記念物に指定された経緯が綴られている。それを転写すると…。
「天然記念物 円山原始林 指定年月日 大正十年三月三日
この原始林は、明治のはじめ開拓使時代から保護され、その後、北海道庁が現生天然保存林に編入し大正十年に天然記念物に指定された。樹種は場所によって違うが、山麓の肥沃地にはカツラが発達し、上部にはミズナラが多く、山腹には、シナノキ、エゾイタヤ、オオバボダイジュなどの大木がめだち、これらに、ヤチダモ、センノキ、オヒョウ、サワシバ、キタコブシなどが混生している。林床には、ネマガリササが多いが、エゾイスガヤ、シダ類などの多いところがある。この原始林は、北海道温帯北部の代表的な天然林で学術上非常に貴重なものである。 注意事項(中略)
文部省 北海道教育委員会 昭和四十三年十月二十七日建設」
と刻まれていた。
⑦島判官紀功碑
円山公園の中でも最も人が行き交い、春には花見客で賑わう一角に平板の大きな碑(高さ8m)が屹立している。これが「島判官紀功碑」である。
島判官の人となりについては、私が説明するまでもないので省略するが、碑には490字もの漢文でその功績が綴られているという。
碑は1929(昭和4)年に建立されたという。
⑧包丁塚
公園内を南から北側へ横断し、北海道神宮への参拝路そばに「包丁塚」が座っている。
塚は1972(昭和47)年に調理師団体により建立され、年に一度使い終わった包丁などの法要を執り行っているそうだ。
⑨開道百年行幸啓記念碑
包丁塚からそれほど離れていないところにこの碑は建っている。
1968(昭和43)年、北海道は開道100年にあたり、また、札幌市も創建100年を迎えた。
この年には記念のイベントが数々催されたが、その式典には天皇・皇后両陛下が来道された。その際に、記念の植樹が行われ、記念碑が建てられたそうだ。
⑩岩村通俊像
円山公園内のやはり参拝路そばの木立の中の目立たぬところに「岩村通俊像」が建っている。
岩村通俊というと、島義勇が描いた札幌開拓の計画を実際に手掛けた2代目の開拓使判官であり、後の初代北海道長官である。
岩村の像は1933(昭和8)年、本山白雲によって制作され、大通西11丁目に建立されたが、戦時中に金属類の供出命令によって撤去されたが、1967(昭和42)年開道100年を記念して佐藤忠良により制作され、現在地に建てられたそうだ。
⑪母子像・ふるさと
円山公園の端、北1条西28丁目の旧札幌市長公邸跡に、全体が丸い形をした像が建っている。
ハンガリー出身の彫刻家ワグナー・ナンドールが制作した像だそうだが、ワグナー・ナンドール記念財団が札幌市へ2011(平成23)年 に寄贈したものだという。
全体が丸い形をしているのは、人類共通の母と子の愛情を球体で表現したそうだ。
この「円山公園」の石碑巡りのアクセスは、地下鉄「円山公園駅」から「円山公園パークセンター」まで約300m、徒歩5分である。
見学域内の移動距離は歩測で約2.5kmであった。
(2017/10/30)