田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道南の旅を振り返る Ⅳ

2021-09-20 14:50:27 | 道内の旅

 道南の旅4日目は、島牧村と寿都町の二つの町村のみとなった。二つの町村共にこれまでと比べそれほど見どころも多くなかったため、帰路を急いだ。ただ、今話題(?)の寿都町にはちょっとしたエピソードがあった…。

◆第4日 9月16日(木)

◇島牧村

 島牧村は旅からのレポートでも「見どころがそれほどない」とレポしたが、私が唯一興味があったのは高さ70m、幅35mという道内最大規模を誇る「賀老の滝」だった。しかし、この滝に至るには内陸奥深く相当に入らねばならないようだった。とても気軽の寄ることができるところではないと考え諦めた。するともう他には見どころらしいところはなかった。そこで…「名もなき岩」である。

 ■名もなき岩

   

※ 名もなき岩ですが、岩の頂のところに灯台が立っています。

   

 「島牧村には何もないなぁ…」と思いながら走っていると、目前に大きな岩が現れ、その岩の頂に灯台のようなものが見えた。特別名前は付けられてはいないが、地元の人たちにとっては特別な岩ではないか、と思いカメラに収めた。

 

◇寿都町

 寿都町は昨年放射性廃棄物(核のごみ)の最終処分場選定に向けた文献調査に神恵内村と共に応募したことから、俄かに注目を浴びることになった町である。私はこの応募の中心人物となった片岡町長のお話しをあるところで聴いたことがある。そうしたことも含めてレポしたい。

 ■弁慶岬

   

※ 日本海を背にした「武蔵坊弁慶」像です。

 島牧村から寿都町に入って間もなく、岬の突端に「武蔵坊弁慶像」が立っている。なぜここに弁慶像なのか?その謂れについて、弁慶像の裏に説明があった。それによると、「奥州を逃れた義経・弁慶一行は蝦夷地に渡り、この地に滞在した。弁慶は、毎日この岬の先端に立って同志の到着を待っていたが、再会することはできませんでした。そんな弁慶の姿を見ていたアイヌの人たちはいつしかこの岬のことを「弁慶岬」と呼ぶようになったと言われています。」とあった。

 それにしても道内には義経伝説が伝えられているところが数多い。何故なのだろうか?          

 ■寿都鰊御殿

   

※ 釘を1本も使わずに建設したという鰊御殿です。

   

 寿都町市街地からかなり岩内町側に寄った歌棄町地区の道路際に大きな木造建築が目に入る。釘を一本も使わずに建てられたという広壮な鰊御殿である。内部には鰊漁で賑わっていた当時の漁具や生活用具などが展示されているという。現在は内部がリニューアルされて「そば処」として利用されている。朝早かったこともあり、開店前で入店は叶わなかった。                        

 町長さんご自慢の風力発電

   

※ 地元で「だし風」と呼ばれる局地的な風が吹く場所に建てられた11基の風車です。

   

 「町長さんご自慢の」と冠言葉を付けたが、実は寿都町の風力発電について、私は町長さんご自身から直接お話を聴いたことがあったのだ。

 それは今から6年も前のことになるが、札幌大学が「市町村長リレー講座」を開催していて私も受講していた。そのゲストとして2016年10月4日に寿都町の片岡春雄町長が招請され「地域資源を生かした町づくり」と題してお話しされたのだ。

 片岡町長はお話を伺った時にすでに3期目ということだったが、町長自身がリーダーシップを発揮してぐいぐいと街をけん引しているという印象だった。その話の中で、赤字だった町立診療所を改革したり、風力発電に取り組み町の財政改善に寄与しているなど、自らの成果を自信満々に語っていたことが印象的だった。特に風力発電については、一度躓いたものの片岡氏の主導で成功に導いたものと胸を張られていた。

 その風力発電の風車は寿都町市街から離れた海岸沿いに11基が並んでいた。私がお話を聴いたときは売電料が年間3億5千万円とお話していたが、現在では7億円とも伝えられている。そのことも影響しているのだろうか?通過してきた自治体の中では建てられていた公共施設などがなんとなく他町村より立派に見えたのは私の先入観によるせいだったのだろうか?

 そんな寿都町がさらなる財源を求めて放射性廃棄物の最終処分場選定の文献調査に応募したことは正しい選択だったのだろうか??

   

※ 寿都町の道の駅「みなとま~れ寿都」の前面です。

   

※ 道の駅のすぐ裏には寿都漁港がありました。

おまけの八雲町(熊石地区)

 実は国道229号線は、通過した乙部町とせたな町の間に八雲町があったのだ。その部分は旧熊石町にあたる。その旧熊石町は2005年に八雲町と合併して八雲地用に組み入れられてしまったためにパスしたが、熊石地区にレポしたいスポットがあったので最後にレポすることにする。

■奇岩雲石

   

※ ご覧のような不思議な形をした岩石が積み重なっていました。

   

 熊石地区の「奇岩雲石」は国道229号線上に道路標識に案内が出ていたのだが、周りに駐車場もなく、どこがそれなのか分からなかった。案内板からしばらく走ったところで、地元の方を見つけたので聞いてみると、通り過ぎてかなり離れてしまっていることを教えられた。戻って近くの民家横に路上駐車させてもらい、「奇岩雲石」に近づいた。

 なるほどそれは「奇岩」と呼ぶにふさわしい形態をしていた。まるで雲のような形をした岩だった。その岩の上には小さなお社が建てられていた。そこには「奇岩雲石」についての説明書きがあった。それによると、「450余年前、アイヌの酋長タナケシが和人の頭領蠣崎義弘配下の工藤九郎左衛門祐兼(すけかね)とその弟祐致(すけとき)が奇岩雲石まで敗走したとき、にわかに黒雲がわき起こり稲妻が鳴り響き、あたりは真っ暗闇と化したのです。アイヌ軍は驚いて引き下がり祐致はその隙に逃げ去りました。後に戦は和人が勝利し、祐致はその戦勝に感謝してここに八雲神社を建立しました。」とあった。

 寿都町を過ぎ、岩内町からはこれまでも何度かレポしたことがあるのでパスすることにする。その後私は岩内町⇒仁木町⇒余市町⇒小樽市を通過して、自宅へ帰着した。

 4日間の合計819Kmを走破した長い長い「道南の旅」4日間だったが、中身の濃い4日間でもあった。                                        


道南の旅を振り返る Ⅲ

2021-09-19 18:24:30 | 道内の旅

 今回の「道南の旅」を振り返ってみると、昨日の第2日目、そして本日の第3日目がハイライトだったのではと振り返っている。それほどこの二日間は盛りだくさんであり、内容も濃い二日間だった。それでは内容の濃かった第3日目を…。 

◆第3日 9月15日(水)

 ◇上ノ国町

 国道228号線は松前町の白崎岬からは青函海峡に別れを告げ、日本海沿岸を走ることになる。上ノ国町はいわば本格的に日本海沿いに面した最初の町ということが言えそうだ。

■北海道夜明けの塔

   

 「北海道夜明けの塔」は国道228号線から外れ、夷王山方向に向かう。するとその夷王山の麓の小高い丘の上に突然高い塔が現れた。「北海道夜明けの塔」(あるいは単に「夜明けの塔」とも称しているようだ)である。「北海道~」と聞いて何か謂れがあるのかな?と思ったが、設立経過は上ノ国町の開基800年を記念して高さ800寸(24.24m)の塔をふるさとのシンボルとして建設したということのようである。

■夷王山墳墓群

   

※ 墳墓の一つ一つをよく見ると、わずかに盛り上がっている ことが分かります。

 「夜明けの塔」の近くに「勝山館跡」という史跡があるがその館跡に接するように非常にたくさんの墳墓が存在していた。墳墓は室町時代のアイヌの墓と類推されるそうだが、一つ一つの墓に白い標柱が立てられ、その部分は土がわずかにも盛り上がっていた。判明した墳墓の数は600余基だという。

■勝山館跡

   

※ 海が臨める丘の上に広がっていた勝山館跡です。左手一番奥が武田氏が住んでいたところと考えられています。

   

※ 勝山館跡の最も高いところに位置していたのが「館神八幡宮跡」と考えられています。

   

※ 残念ながら休館だった「勝山館跡ガイダンス施設」の建物です。

 国の指定史跡にも指定されている「勝山館跡」は、松前氏の始祖である武田信広が1470年頃に築いた山城跡である。資料によると館跡からは中国製青磁や瀬戸・美濃焼、金属製品、木製品など多数出土されたそうだ。出土品からはアイヌが使っていたものも含まれることからアイヌも混住していたと考えられているそうだ。

 勝山館跡はそのご16世紀末まで松前氏の拠点として存在したという。

 なお、館の近くには「勝山館跡ガイダンス施設」という資料館的施設が建っていたが、コロナ禍とあって入館は叶わなかった。 

◇江差町

 江差町は「桧山振興局」館内の振興局所在地ということで、周辺の中心地的存在であり、歴史もある町である。そのような江差町の代表的なスポットを見て回った。

■開陽丸記念館

   

※ 開陽丸の案内施設などを兼ねる「海の駅」です。

   

※ 復元され記念館として開放されていた「開陽丸」です。

   

※ 開陽丸で目に付いたのがたくさんの大砲です。まさに戦艦でした。

   

※ 船内にはこのような砲弾があちこちにたくさん展示されていました。

   

※ 船内に展示されていた開陽丸の全体模型です。

   

 開陽丸の看板から眺めた鴎島です。

 江差町の代表的観光施設というと「開陽丸」が頭に浮かぶ。私もまずは江差市街地から伸びる鴎(かもめ)島の麓に係留されている「開陽丸記念館」を訪れた。江差沖で沈没し、実物大で復元された開陽丸は想像していたより大きなものだった。(上甲板長約72m)内部は記念館となっており入場料500円を納め見学したが、開陽丸は完全な戦艦だった。全てが戦闘用に装備された船で、船腹からは多くの砲門が顔を覗かせ、船内には数多くの弾丸が並べられていた。

 開陽丸は旧幕府軍が接収し、戦略上非常に重要な戦艦だった。その旧幕府軍が江差地方を制圧するために出向いた際に江差沖で座礁、沈没してしまった。旧幕府軍にとってはこの開陽丸を失ったことで新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、箱館戦争の帰趨に大きな影響を与えたと言われている。          

■江差追分記念館(江差山車会館)

   

※ 江差追分会館(江差山車会館)の外観です。

       

※ 山車会館内には、本物の山車が2台展示されていました。その1台です。

   

※ 追分会館内の一隅には追分名人の顕彰するコーナーがありました。

   

※ 追分会館内の伝習演示室と呼ばれるステージ付きのホールの緞帳にはニシン漁最盛期の江差の様子が描かれていました。

   

※ 江差追分の師匠(向かって左から二人目)による「江差追分」を始めとする民謡が披露されました。

 江差といえば郷土芸能「江差追分」を外して語ることができない。その江差追分を語る会館が街中にあった。ここも入館料500円を納め見学させてもらった。展示で興味深かったのは、追分会館より、山車(江差ではヤマということだ)会館だった。江差では毎年8月の9日~11日までの3日間「姥神大神宮渡御祭」と称して、13台の大きな山車が街を練り歩くそうだ。その様子を映像で知ることができ、改めて江差の歴史の深さを知る思いだった。

 それから一日に3回披露される江差追分の師匠による実演を聴くことができたのが幸運だった。「北海鱈釣節」、「江差追分」、「ソーラン節」と3曲を堪能することができた。                          

■姥神大神宮(横山家)

   

※ 姥神大神宮の本宮です。

   

※ 栄華を誇った横山家の広大な建物です。(休館中)

 江差にニシンをもたらしたとされる姥神大神宮も市街地に近いところにあった。渡御祭の派手な祭りの様子を映像で見た後だったこともあり、私の中では大きな存在になっていたが意外に質素な神社だった。

 さらに大神宮の前には、漁業・商業・廻船問屋を営んでいたという横山家の広壮な住宅があったが、現在は休館中ということで入館は叶わなかった。

■アネロイド気圧計

   

※ 街の一角に立っていたアネロイド気圧計です。

 観光案内などでは紹介されていないが、私には興味があったので付近にいた住民にその場所を尋ねて訪れた。「アネロイド気圧計」というと、今では学校の百葉箱や理科室にあるくらいのものかと思われるが、その大型のものが江差の市街地に立てられているのだ。

 高さ2mほどの石柱の中に直径30cmの気圧計が備えられ、漁師たちが天候の変化を予想するのに役立てたという。1928(昭和3)年に設置されたそうだ。

 

◇乙部町

■滝瀬海岸(シラフラ)

   

   

 乙部町滝瀬海岸に広がるシラフラは今回の旅の一つの目的だった。「シラフラ」とはアイヌ語で「白い傾斜地」を意味するそうである。私はこの不思議な光景を写真で見た時に「ぜひ行ってみてこの目で確かめたい」と思っていた。江差町から向かうと乙部町の市街地に入る前にある。案内板が設置されているが注意しないと見逃すこともある。

 案内に従い車を進めると行き止まりとなる。そこから徒歩で海辺に向かうとそこは崖の上だった。ふと横を見ると、やや離れた位置に白い壁が広がっていた。これまで見たことのない光景に息をのんだ。シラフラに近づいてみたいと思ったが、その場から崖を下りる道はなかった。シラフラは全長500mほどあるということだが、見どころは夕陽に白い壁が茜色に染まるところが素晴らしいらしい。ぜひその光景を体験してみたいものだ。

■くぐり岩

   

 同じ滝瀬海岸に海辺に突き出た岩の一部に穴が開いていて、そこを潜ることができる岩があった。シラフラを眺めたところからやや離れたところの海岸にあったが、こうした奇岩(?)はけっこう他にもありそうである。

 乙部町にはもう一つの奇岩「鮪(しび)の岬」という鮪の肌をしたような奇岩があるらしいのだが、残念ながら私はその場を発見できなかった。(見過ごしてしまった?)

■箱館戦争官軍上陸の地碑

   

 「箱館戦争官軍上陸の地碑」は乙部町の乙部漁港のところに立っていた。碑は木製で柱状のものだが、特徴は先端に官軍の象徴である鉄カブトを模したものが載っかっていた。

 傍に立てられていた説明板によると、明治2年4月9日、新政府軍参謀・山田市之充率いる1,500人の兵が軍艦「更鉄」、「春日」など8隻が乙部海岸に分乗して着岸し、この地から新政府軍の猛攻撃が開始され、旧幕府軍の敗戦が始まったという。

 

◇せたな町

 「せたな町」は、2005年に旧瀬棚町、大成町、北桧山町の3町が合併して誕生した町である。したがって、海岸線も長い町だった。

子熊岩

   

 「親子熊岩」はせたな町大成地区を走っていた時に道路際で出会った。なるほどよく見ると、海に落ちそうな子熊を母熊が抱きかかえるよう救っている図に見える。

 日本海追分ソーランラインと称される229号線(227号線とは江差郊外から分岐する)は岩礁が連続する海岸線である。したがって名前は付けられていない岩が数多く出現した。あるいは地元民だけが知っている名前の付いた岩は数多いのかもしれない。 

■三本杉岩

   

 こちらは旧瀬棚地区の瀬棚漁港近くに立つ岩礁である。ちょうど海岸近くに三本の細い岩が並立している。その様が三本の杉の木が立っているように見えることから名付けられたようである。

■日本初の洋上風車

   

   

 観光施設ではないため案内などはなく、場所を探すのに右往左往したが瀬棚港の外れにそれらしい風車が立っていた。ただ、洋上といっても港の内側にあったので「果たして見えているのがその風車かどうか?」自信が持てなかった。帰宅して調べてみると確かに自分が見た風車が “日本初” のものであったことを確信した。

 日本初の洋上風車は「風海鳥」という愛称が付けられ平成16年4月から本格稼働を開始したという。資料によると年間発電量は一般家庭約1,000世帯分に相当するらしい。

 風力発電というと、風の強い海岸線に多いが、その多くは海岸線の陸上に設置されているものがほとんどである。陸上の設置の場合は地権や騒音問題などが風力発電普及のネックになっているとも聞く。洋上発電はそうした問題をクリアする意味でも将来性のある発電設備の一つなのではないかとも思える。

 自然エネルギー利用の発電設備としての将来性が期待できる一つではないかと思えるのだが…。

 

 レポしたようにこの日も数多くのスポットを巡り回った。走った距離も4日間では最も長い237Kmを走行した。


道南の旅を振り返る Ⅱ

2021-09-18 18:12:25 | 道内の旅

 9月14日(火)、この日はこの旅の主たる目的である故坂口一弘氏の仏前で生前のお付き合いのお礼を述べた後、木古内町、福島町、知内町、松前町と巡り歩いた。ちょうど函館から青函海峡沿いに面する町村を巡り歩いたことになる。それぞれの町村で興味ある史跡や施設に触れた旅だった。

◆第2日 9月14日(火)

 この日はまず、この旅の主たる目的である故坂口一弘氏のお宅に伺い、仏前にお参りすることであった。奥さまに最も迷惑をかけない時間帯と考え、午前10時にお邪魔し故坂口氏の笑顔の遺影が掲げられた仏前でお参りをさせていただいた。奥さまからは坂口氏の遺品を贈られ、それを有難くいただきお宅を退去した。

このことで、私の中でずーっと気になっていたことに一つの区切りがついた思いである。

◇木古内町

■サラキ岬(咸臨丸座礁地点)

   

※ 咸臨丸終焉の地の案内板です。赤い矢印の方向が座礁地点だということです。

   

※ 咸臨丸の復元模型が展示されていました。

   

※ 広場の一角におかれた錨ですが、後年実物であることが判明したということです。

「サラキ岬」は、函館市から木古内町に向かう国道228号線のすぐ脇に大きな看板と咸臨丸の復元模型があるので見落とす心配はない。

「咸臨丸」といえば、勝海舟に代表される江戸幕府代表が咸臨丸を駆って太平洋を往復したことで有名な軍艦である。その後、戊辰戦争時は榎本武揚率いる旧幕府軍に属するものの、新政府軍からの攻撃を受けエンジンなどを損傷し帆船となったそうだ。その後新政府は戊辰戦争に敗れ北海道移住を余儀なくされた仙台・白石藩の旧臣401名を乗せて小樽へ向かう途中、木古内町サラキ岬沖で座礁したが、付近住民の懸命な救助で幸い犠牲者は出なかったが咸臨丸は数日後に破船・沈没したそうだ。時に1871(明治4)年9月12日だったという。

ところで「サラキ岬」とカタカナの地名が気になった。サラキ岬があるところは亀川地区であり地名は関係がない。調べたところ、「サラキ」とはアイヌ語で「葦」を意味するという。北海道の地名の多くはアイヌ語に由来していると言われているのでこの説どおりなのだろう。

■木古内町郷土資料館「いかりん館」

   

※ 残念ながら休館していた木古内町郷土資料館「いかりん館」の建物です。

 この旅では訪れた地域を知るために訪れた地域の資料館を訪ねようと思っていた。そこで木古内町の資料館を訪れることにした。資料館は地域(鶴岡小学校)の閉校した後の校舎を利用してオープンしたという。木古内町の中心から5キロほど内陸に入ったところに資料館はあった。しかし、ここも緊急事態宣言下のため閉館中だった。このことから私は以降の町村で地域の資料館を訪れることを断念した。

 なお「いかりん館」という愛称について、私はこの辺りで捕れるイカにちなんだものかと考えていたが、調べてみるとやはり咸臨丸に関連していて、咸臨丸のイカリが展示されていることから命名されているとのことだった。

 ■道の駅 みそぎの郷きこない

   

※ 「みそぎの郷 木古内道の駅」です。

   

※ 道の駅の隣にあるJR木古内駅です。

 木古内町の道の駅は、他の道の駅と違い国道沿いの立地ではなかった。建っていたところは、鉄路の駅と隣り合って建っていた。鉄路の駅と道の駅の競演といった感じである。

 鉄路の方の駅は、北海道新幹線が開通し北海道の玄関口となる駅であり、道南いさりび鉄道の始発駅でもある。駅舎は新幹線開通に合わせて建設されたらしく真新しい感じだった。そして道の駅のほうも新幹線開通よりは一足早くオープンしたそうであるが、集客率、売上高においても有数の道の駅と言われている。

 私はざあーっと見ただけであるが、なるほど魅力が詰まった道の駅といった印象だった。

 

◇知内町

■新幹線展望塔

   

※ 「道の駅 しりうち」と隣に立つ「新幹線展望塔」です。

   

※ 展望塔から見た新幹線の線路です。

 青函海峡沿いを走る国道228号線は知内町市街地を過ぎる頃から内陸に向かう。そして北海道新幹線の鉄路と国道が交差するところに「道の駅 しりうち」があり、その横に「新幹線展望塔」が建っていた。高さは約14mとのことだが、私も一応塔の頂まで上ってみた。なるほど線路のすぐ横に建っているので写真撮影には絶好のスポットと思われた。

 ■日本最古の墓出土地

   

※ 道の駅の敷地内に立てられていた「日本最古の墓出土地」碑です。

 「道の駅 しりうち」の敷地内にその碑は立てられていた。この地は発掘調査において旧石器時代の墓と考えられる日本最古の土壙が発見されたという。その土壙からはコハクや小玉・垂飾・石刃・石刃核・細石刃など14点が出土され、平成3年に重要文化財に指定されたそうだ。

 

◇福島町

■青函トンネル記念館

   

※ 「青函トンネル記念館」の外観です。

   

※ 記念館内に展示されていたトンネル掘削機の先端の掘削ドリルです。

   

※ ちょっと古風にも見える各種の計測機器や道具などです。

   

※ 記念館の入口に展示されていた潜水調査船「くろしお」です。(本物?OR復元模型?)

 函館方面から来ると福島町の中心街に入る前に左側に円筒形の特徴的な建物が目に入るが、それが「青函トンネル記念館」である。

 入館料700円(横綱記念館と共通券で)を払い館内を見学した。館内はトンネルの掘削に使用した機械類やパネル展示によってトンネル工事の様子が説明されていた。私にとってはトンネル工事を記録した映像により工事の困難さを実感することができた 。

 また、記念館の前に北大の潜水調査船「くろしお」が展示されていたが、記念館スタッフに伺うと、トンネル建設時に海底ボーリング調査に活躍したことから展示されているとうかがった。

■横綱千代の山・千代の富士記念館

   

※ 横綱記念館の外観です。館外には二人の横綱の土俵入りの銅像がありました。

   

※ 館内の展示品の一部です。(写真は千代の富士の遺品です)

   

※ 館内に再現されていた相撲部屋と土俵です。ここで毎年九重部屋の夏合宿が行われていました。

 この「横綱記念館」(略称)は、福島町市街地の「道の駅 横綱の里ふくしま」の隣に建っていた。その外観は福島町が生んだ二人の大横綱の記念館に相応しく堂々とした建物だった。館内には、二人の横綱の綱や優勝トロフィーが展示されていた。特に千代の富士は優勝回数も多かったことからその展示も充実していたように映った。ただ、二人の活躍を伝える各種の映像機器等はほとんどが故障していて使用できず、ちょっと残念だった。

 館内には九重部屋の土俵が再現されていた。そこで管内スタッフに「ここで夏には九重部屋の合宿が行われているのですか?」と問うたところ「以前は毎年夏にここで合宿をしていたが、ここ2年はコロナ禍のため中止となっています」とのことだった。

■伊能忠敬北海道測量開始記念公園

   

※ 伊能忠敬が測量している様子を表した銅像です。(下の写真は背後から)

   

 福島町の中心街から6~7キロ走った吉岡地区の道路傍に公園はあり、その一角に伊能忠敬が測量をしている姿の彫像が立っていた。

 像の傍に立っていた説明板によると1800(寛政12)年、蝦夷地測量のために函館に渡ろうとしたが強風の影響もあり上陸したのが現在の福島町吉岡地区だったという。そこで伊能は吉岡から測量を開始したという。当時はもちろん歩測によっての測量だったが、伊能は遠く厚岸まで足を伸ばして測量をしたという。その時伊能は55歳。驚くべき健脚であり、粘り強い精神の持ち主だったことが伺われる。

■トンネルメモリアルパーク(青函隧道建設記念碑)

   

※ 遠く竜飛崎を望む丘に設置された「青函隧道建設記念」碑です。

 前記記念公園のある吉岡地区は青函トンネル工事の北海道側の前線基地として名高いところである。この吉岡地区の小高い丘に「トンネルメモリアルパーク」があった。パークからは遠く本州側の前線基地となった竜飛崎が遠望され、そこには「青函隧道建設記念」碑が立っていた。

 

◇松前町

■松前公園(松前城下町、松前城、松前藩主松前家墓所、松前藩屋敷)

   

※ 松前町の商店街の建物群です。(下の写真も)

      

 松前の街中に入っていったとき「おっ!」と目を見張った。街中全体が江戸の町でも入ったような錯覚を受けたのだ。というのも目に入る建物すべてが白壁の町家風造りだったのだ。郵便局も、銀行も同様だった。調べてみると、松前の商店街は町を上げて松前藩の城下町造りに取り組んでいるとのことだった。 

   

※ 松前公園内には北限とも云われる竹林がありました。

    

※ 特別な桜の木なのでしょうか?「純愛霞」という札がかけられていました。 

 また、城があったところは他の町同様に「松前公園」として整備している。その松前公園は桜の名所としてつとに有名である。この時期はちろん桜は咲いてはいなかったが、有名な桜の木や見本園などが公園内に点在していた。また、公園内には松前藩にまつわるさまざまな史跡・施設が点在していたが、そうした松前公園を巡り歩いた。

《松前城》

   

※ 搦手二の門から撮った松前城の天守閣です。

   

※ それなりに風格を感じさせる天守閣です。

お城というと天守閣である。松前城の「天守閣」も立派に再建されていた。見たところ昨年見た弘前城の天守閣より立派に見えたが、実際はどうなのだろうか?残念ながら緊急事態宣言下のため内部見学(松前城資料館)は出来なかったが、外からでも天守閣の威容は十分に感ずることができた。

《松前神社》

   

※ 公園内にあった「松前神社」です。

 松前城の天守閣近くには「松前神社」が建っていた。松前神社は松前藩の始祖・武田信広を祭神とする神社だそうだ。神社としての規模はそれほどでもなく、建物もやや古風な感じがした。

《松前藩主松前家墓所》 

   

※ 塀に囲まれた一角が「松前藩主松前家墓所」です。下の写真は塀の中の様子です。

   

 松前公園内にはところどころに墓石が目についたが、公園の奥の一角に囲いをした墓所があった。いかにも他の墓石とは一味も二味も違う雰囲気を纏った墓所だった。一つ一つはけっして大きなものではなかったが、いかにも藩主の墓所という趣があった。

《松前藩屋敷》

   

※ 「松前藩屋敷」の入場門は閉じられていました。

   

※ 奉行所を再現した建物です。

   

※ こちらは武家屋敷を再現した建物です。

   

※ こちらは旅籠の「越後屋」です。

   

※ こちらは商家の「近江屋」です。 

 ここを訪れる前「藩屋敷」とはいったい何だろうか?と思いながら公園の一番奥にあるところを訪ねた。するとそこは松前藩の当時の街並みを再現したところだということが屋敷前の説明板で分かった。ところがそこも屋敷内の見学は閉鎖されていた。残念!と思っていたところ、そこのスタッフが「建物の中は入れないが、外から見学はよろしいですよ」と声をかけてくれた。好意に甘えて敷地内を見学させていただいたが、敷地内には「奉行所」、「武家屋敷」、「商家」、「旅籠」などの建物が再現されているところを見て回ることができた。

 その他にも公園内にはたくさんの寺社や石碑などが点在していたが、この日の私はたくさんの見どころを見て回ったこともあり、疲れもあったので見学を終えることにした。

 この日は青函海峡沿いの4町を巡り歩き、他にも感じたことがあるが、そのことについては別の機会に触れたいと思う。

 たくさんの見どころを見て回り、すっかり疲れた私はこの日「道の駅 北前船松前」の駐車場で車中泊をした。                                             


道南の旅を振り返る Ⅰ

2021-09-17 16:31:36 | 道内の旅

 他人が旅したことを振り返る文章を読んでも興味はないかもしれない。しかし、旅した本人とすれば、自ら旅したことを振り返り自分の中に落とし込み記憶の棚に留める作業は欠かせないプロセスである。今回の道南の旅4日間を振り返ってみたい。できればお付き合いください。

◆第1日目 9月13日(月)

  ◇長万部町

 ■平和祈念館 

   

※ 校倉様式が印象的な「平和祈念館」です。

   

※ 「平和祈念館」の前庭には写真のような本郷新の彫刻作品が5体展示されていました。

「平和祈念館」は鉄道線路を挟んで国道の反対側、文化センター、スポーツセンターなど公共施設が集まっている一角にあった。建物の前庭にはたくさんの彫刻作品などが展示されていた。解説によると本郷新の作品「嵐の中の母子像」、「わだつみのこえ」など5点が展示されていた。祈念館内部は残念ながら緊急事態宣言下のため入館は叶わなかった。内部には原爆の惨状を描き続けた丸木位里、俊夫妻の作品、円空作の「観音菩薩坐像」などが展示されているという。

 ところで、私はここを訪れる前から「なぜ長万部町に平和祈念館が?」という疑問を抱き続けた。帰宅して調べてみると、長万部町で43年間も開業された医師・工藤豊吉氏が私財を投じて建設し、長万部町に寄贈したということが分かり、納得したのだった。

 ■植木蒼悦記念館 

   

※ 小ぶりながら入口も含めて建物全体に特徴が伺える「植木蒼悦記念館」です。

植木蒼悦(本名・悦郎)は大正・昭和初期に活動した北海道有数の水墨画家であり俳人だそうだ。植木の作品の中でも特に彼の生き方を投影したという河童の絵が有名だそうだ。その河童絵をはじめ油彩画、句書など100作品が展示されているそうだ。

 ところで植木蒼悦と長万部の関係であるが、これがまた分からなかった。植木の履歴を詳しく調べたが、植木が長万部に居住した事実はなかったようだ。また、特別にこだわったこともなかったようだ。実は、この記念館も植木蒼悦の熱心なコレクターだった上記の医師・工藤豊吉氏が町に寄贈したということが判明した。

 両館ともに館内見学が叶わなかったが、いつかまた再訪し内部を観覧してみたい。

 

 ◇八雲町

 ■噴火湾パノラマパーク(八雲町情報交流物産館 丘の駅)

 このパークは一度訪れた経験があった施設であるが、小高い丘の上から噴火湾が一望できるという絶好なビューポイントである。一帯は花畑、冒険広場、オートキャンプ場、等々レジャー施設が集中しているところでもある。しかし、ここも施設は閉鎖されていた。それも駐車場自体が閉鎖されていたため、噴火湾のビュー写真も撮ることができなかった。

 ■日本最北の関所「山越内関所」跡 

   

※ 私が見誤った建物です。右には「山越内関所」、「通行手形」の表示が見えるのですが…。

   

※ 説明によると関所に付属して設置されていた井戸だそうです。

   

※ ウェブ内から拝借した本来の「山越内関所」を再現したJR山越内駅舎です。

 江戸後期の1801年、函館の亀田から移設された「山越内関所」は1861(文久元)年に廃止されるまで、日本最北の関所として存在したという。

 関所跡は国道5号線のすぐ脇にあった。ところが私はここでポカを犯してしまった。国道脇に「日本最北の山越内関所」、「通行手形」と大書された表示があり、その奥に風格のある建物があったので、それが関所跡に復元された関所だと判断した。ところが帰宅してよく調べてみると、関所を復元した建物はその場所からやや離れたJR山越駅として使用されている建物だということが判明した。う~ん。うっかりミスである。

 ◇森町

 ■森町地熱発電所

   

 ※ 山腹に設置された「森地熱発電所」です。

   

 ※ 発電所から山の下に伸びる導管です。

   

※ 管の先に設置されていた「蒸気生産設備」です。

   

 ※ 「蒸気生産設備」の周辺に広がっていたビニールハウス群です。

 以前から北海道唯一の地熱発電所を一度見てみたいと思っていた。そこでこの機会に訪れてみた。発電所は国道5号線から5~6キロ内陸に入った小高い丘の上にあった。観光施設ではないので、案内などは特になくそこにいたるまで数人の地元の人に道をたずねながらなんとか到達することができた。

 発電所は北海道電力が所有するもので1982(昭和57)年に運転を開始し、出力は2.5キロワットといわれている。予約をしていなかったので内部見学は叶わなかったが、蒸気を排出する大きな煙突がいかにも地熱発電所らしかった。解決できなかった問題として、その丘の上の発電所から大きな導管(直径1m近いもの)が丘の下まで走っていたのだが、その導管は数百メートル離れた平坦なところまで導かれ、そこに「蒸気生産設備」という施設があった。それがどのような設備なのかはよく分からなかった。特徴的だったのはその設備の周辺にたくさんのビニールハウスが広がっていた。近くにいた人に伺うと、取り出した蒸気を利用してビニールハウス内の熱源としているとのことだった。

 脱炭素社会が叫ばれる今、こうした自然エネルギーを活用する発電が火山大国北海道においてもっと普及してもと思うのだが、やはりコストが見合わないのが現状なのかなぁ、と思われる。いつの日かコストの問題を解決して地熱発電所も発電エネルギーの一翼を担う日が来るのではと思っているのだが…。

 ■旧幕府軍鷲の木上陸地碑

   

※ 鷲の木海岸に設置されている上陸の地碑とその説明板です。

   

※ 上陸の地からは砂原岳が見守っています。

       

※ 上陸の地からほど近くの墓地には「箱館戦争鷲の木戦没者之碑」が立てられていました。 

 榎本武揚率いる旧幕府海軍は戊辰戦争で追い詰められた結果、蝦夷に逃れて独立政権「蝦夷共和国」設立を夢見て北海道に向かい、道南の鷲の木海岸に投錨し上陸した。その地が現在の森町の鷲の木地区である。上陸の地碑は国道5号線からあまり離れていない鷲の木海岸にあった。榎本たちが目ざした箱館・五稜郭は新政府によって箱館府が設置されていたために、箱館からやや離れた鷲の木を上陸の地に選んだと思われる。この鷲の木から榎木軍は連戦連勝で箱館五稜郭を陥落し、「蝦夷共和国」の設立を宣言したという。しかし、長くは続かなかった…。そのことについては皆さま知ってのとおりである。

 この日、私は森町の「道の駅 YOU・遊・もり」で車中泊をした。      


道南旅日記 No.3

2021-09-16 14:53:00 | 道内の旅

今朝、島牧村を出発して寿都町、岩内町を通り、午後2時過ぎに無事帰宅しました。

島牧村には道内最大規模の滝があるそうですが、かなり山奥にあるらしくとても行くことは出来ませんでした。その他には特に名所等は無いようだったので寿都町に入りました。
寿都町では、「弁慶岬」、「寿都町鰊御殿」、そして町が運営する(?)風力発電の風車をチェックしました。岩内町以降はこれまでにも訪れレポしているので、通過するだけでした。
ただ、余市町の「フゴッペ洞窟」を見たことがなかったので立ち寄りましたが、やはり緊急事態宣言下のため、見学は叶いませんでした。
ということで、本日の走行距離は168kmでした。今回の道南の旅4日間で総計819kmとなりました。
けっこう疲れましたので、ゆっくり休んで明日からゆっくりと旅を振り返ることにします。
写真は今日のものはあまり良いものがないので、一昨日木古内町のサラキ岬に展示されていた、サラキ岬沖で座礁破船した「咸臨丸」の1/4サイズの模型を写したものです。

道南旅日記 No.2

2021-09-15 16:50:00 | 道内の旅

今日は松前町から、上ノ国町、江差町、乙部町、せたな町を通って島牧村まで「日本海追分ソーランライン」をひたすら北上しました。計237kmのドライブでした。その風景の中で特徴的なのは風力発電の風車が目立ったことでした。おそらくここ十数年でこうした光景になったものでしょう。風力発電には功罪がかしましいですが、CO2を発生しないという利点から今後も増えていくのでは?と思いますが、どうなのでしょうか。

さて、今日も各地の主だったポイントをチェックしましたので、それを記すことにします。
◇上ノ国町「北海道夜明けの塔」、「勝山館跡」
◇江差町「海陽丸記念館」、「江差追分会館」「姥神大神宮」
◇乙部町「滝瀬海岸(シラフラ)」、「くぐり岩」、「箱館戦争 官軍上陸の地碑」
◇せたな町「親子熊岩」、「三本杉岩」、「日本初洋上風車」
ふーう、以上を駆け足で見て回りました。おかしなもので、公的施設は軒並み休業中ですが、有料施設の海陽丸記念館や江差追分会館はオープンしています。ちょっと釈然としませんが、まあせっかく訪れたのですから観覧できたことをヨシとしたいと思います。
明日は、寿都町、岩内町を通り帰札の予定です。岩内以降はこれまで何度か訪れているので、観光はせずに通過するだけです。
添付した写真は乙部町の滝瀬海岸のシラフラという白い崖が続く異様な海岸風景を撮ったものです。

道南旅日記 No.1

2021-09-14 17:08:00 | 道内の旅

今朝、坂口家を訪れ仏様の御前にて生前のご指導・ご鞭撻に篤くお礼をさせていただきました。このことで、私の中ではようやく坂口様とお別れができたように思います。

さて、旅日記の方は、本来なら本日はNo.2としなければならないところですが、昨日投稿を失念したために、本日がNo.1となってしましました。
昨日は長万部町、八雲町、森町の各所を巡りました。訪れた所を箇条書します。
◇長万部町「平和祈念館」、「植木蒼悦記念館」 *しかし両者ともに休館のため入館ならず。
◇八雲町「日本最北関所跡」
◇森町「森町地熱発電所」、「榎本武揚蝦夷上陸の記念碑」
以上が昨日でした。
次に本日訪れた所です。
◇木古内町「咸臨丸座礁地点」(サラキ岬)「郷土資料館」(休館) 
◇知内町「日本最古の墓出土地碑」、「新幹線展望塔」
◇福島町「青函トンネル記念館」、「横綱千代の山、千代の富士記念館」、「伊能忠敬北海道測量開始記念公園」、「トンネルメモリアルパーク」
◇松前町「松前公園」、「松前城」、「松前藩屋敷」など、松前藩関連の諸施設。
と非常に盛りだくさんのところを見て回りました。詳しくは、帰宅してから写真と共にレポしたいと思います。
本来であれば、各地の資料館を見たいと思っていたのですが、さすがに公的施設は緊急事態宣言下のため軒並み休館となっているため諦めました。
明日は上ノ国町、江差町、乙部町の各所を訪れたいと考えています。
写真は松前城です。松前町は街自体も城下町を意識した街づくりに努めているようです。街並みが見事です。
 

道南を旅してきます

2021-09-13 09:22:25 | 道内の旅

 突然であるが道南を旅して来ようと思い立った。といっても、それが第一の目的ではない。第一の目的は、今年2月に突然逝去された函館市の故坂口一弘氏の霊前に、生前お世話になったお礼に参らねばと思い立ったのだ。

 故坂口一弘氏のことについて拙ブログでも何度も取り上げてきた。坂口氏とはリタイア後に知己を得た方だったが、アウトドアの達人の坂口氏からは多くの教えや刺激をいただいた。そのことで私のリタイア後の生活はそれまでとは比べものにならないほど豊かなものとなった。坂口氏の後を追って(いや、実際にははるかにレベルは違っていたのだが)山旅、歩き旅に道内はおろか、全国に足を伸ばすことになった。坂口氏との語らいは、私にとっていつもいつも楽しいものだった。

           

※ 故坂口一弘氏の写真を奥さまが投稿した際に掲載したものをお借りしました。

 それほどお世話になった坂口氏にしっかりお礼をしたいと思いながら、コロナ禍の中、なかなか実現することができなかった。現在もまだ緊急事態宣言下であるが、二度のワクチンも摂取したことから、奥さまにお伺いを立てたところ “快諾”(?) していただいたので、明朝に念願を実現できることになった。

 さて、函館まで遠出するのでできれば函館周辺の未登の山を登りたいと思ったのだが、最近の体力低下を自覚する私には山へ向かう気力が湧いてこない。そこで無理はせずにこの機会に未知の道南を旅してみようと思い立った。その時思い出したのが10数年前に妻と旅した沖縄旅行だった。この時私たちはレンタカーを駆って、沖縄島の全市町村を巡りその市町村に関わるサムシングを収集することを自分に課した。これが妻からは非常に不評を買ってしまったのだが、それをまた自分に課してみようと思い立った。幸い今回は妻の同行はなく私一人の旅である。自由にふるまえる気楽さがある。

 コースは中山峠を越え、噴火湾沿いを通って函館を目ざし、函館からは松前、江差を通って日本海側を北上して岩内町から札幌へ戻ろうと計画した。その途上、私にとってこれまで通過するだけの町や、初めて訪れる町の観光的名所的なところを1~2ヵ所は必ず訪れようと計画してみた。

 例えば、◇長万部町「植木蒼悦記念館」、◇八雲町「噴火湾パノラマパーク」「山越内関所跡」、◇森町「北海道電力森地熱発電所」といった具合に私の視点から見て、ぜひ訪れてみたいとところをピックアップして訪れてみたいと思っている。

 旅先での宿泊方法は、これまた坂口氏直伝の車中泊を予定している。しかし、この車中泊も私の年齢ではかなり辛くなってきている。狭い車内で体を移動するのが大変なのだ。今回は無理をせずに大変さを感じた時には宿を取ろうとも思っている。ということで車中泊も「今回が卒業旅行かな?」との思いが強い。

 旅先からは「道南旅日記」と題してレポしたいと思っている。あるいはいつもお付き合いいただいているブログ子の方たちのブログに「いいね」ポチを付けることができないかもしれないがご容赦いただきたい。それでは故坂口氏の弔い&道南の旅” に行ってきます! 


札響の記念演奏会を聴く

2021-09-12 17:14:48 | ステージ & エンターテイメント

 久しぶりのクラシックをフルオーケストラで聴いた。クラシックに疎い私だが、集団で奏でる弦の音はいつ聴いても心地よく耳に響く。札幌交響楽団誕生60周年記念の第640回定期演奏会を聴いた。

  

 札幌市民の誇り「札響」の演奏会は時折り聴く機会があるが、定期演奏会に足を運んだことはなかった。定期演奏会は札響のコアのファンが聴くコンサートという先入観があり私には敷居が高かった。

 それが今夏は楽しみにしていたPMFのコンサートが軒並み中止になったこともあって、「記念」という言葉に弱い私は、「では札響の記念演奏会を聴いてみよう」と思い立った。そのコンサートが本日午後1時から札幌コンサートホールKitaraであったのだ。

 緊急事態宣言下ということもあり、入場者は定員の50%に制限された中での開催だった。

      

 演奏された曲目は、

 ◇シューベルト/交響曲ロ単調D759「未完成」

 ◇ブルックナー/交響曲第7番(ノーヴァク版)

の2曲だった。

 指揮者はマティアス・バーメルト(スイス人)という札響の首席指揮者である。

          

 新聞報道によると、演奏曲目を選定したバーメルトはブルックナーの交響曲第7番を「交響曲の不朽の名作」と呼ぶ。そしてシューベルトの名曲「未完成」の組み合わせはいわば王道の選曲だという。

 クラシックファンにとっては王道ということだが、私にとってはどちらの曲とも耳慣れない曲だった。だから札響の演奏のどこがどうのという力量はないのだが、リード文でも触れたように私はオーケストラで聴く弦の響きが何より心地良く耳に響く。本日の演奏でもブルックナーの交響曲第7番の出だしで、ヴァイオリンの囁くようなトレモロを背景にチェロが奏でるシーンが私には絶品だった。

 クラシックに素養のない私にとって、これからも頻繁に聴くということはないかもしれないが、時折りクラシックに触れることも忘れないでいたいと思っている。

 なお、本日の演奏会は記念演奏会ということで、来場者にはコットンバッグ、缶バッジ、不織布マスク(2枚)、札響楽団員のメッセージ集などが配布された。また、演奏会後には北海道新聞の号外も発行された。

   

        


リベンジ!小樽市・穴滝

2021-09-11 20:06:11 | フットパスウォーク & トレッキング

 長く単調なプロローグの向こうに想像していたよりは大きな洞窟と、予想よりはやや小ぶりな滝があった。気温が上がった本日、洞窟内はとても涼しくマイナスイオンに満ちていた。私はしばしこの心地良い空間に佇んだ。

 先日(9月4日)、穴滝を目ざしたものの周辺を彷徨するばかりで、肝心の「穴滝」には辿り着けなかったという失態を演じてしまった。

 そこで本日、そのリベンジを果たそうと再び小樽に向かった。本日の最高気温は26.5℃とかなり気温が高いコンディションだった。

   

※ 「穴滝」に向かう起点となる「天神浄水場」の建物です。

 本日も私はまた出遅れてしまい、天神浄水場の奥の車止めゲートのところをスタートしたのは12時15分だった。そのゲートのところに掲げられていた案内板によると「穴滝」までは3kmと出ていた。

   

※ 「天神浄水場」より林道を1.5kmほど進むとゲート(前方)があって、先行車が1台駐車していました。

   

※ 林道に設けられた車止めゲートです。左の立木に「穴滝まで3キロ」の表示があります。

 ここから長い長いプロローグが始まった。(ということは長い長いエピローグも待っているということなのだが…)林道歩きである。林道は大きめの砂利が敷かれていて、とても歩きにくい。その上けっして急ではないが、緩い上りがずーっと続いていた。気温が高かったこともあり、歩き始めて間もなく汗まみれになってのトレッキングとなった。途中で「穴滝」から帰りの男女(夫妻?)に出会った。伺うと、他にはトレッキングしている者はいないという。山オヤジ(ヒグマ)が気になったが、鈴を付けて携帯ラジオの音量を高くすることで用心して「穴滝」を目ざした。

   

※ 写真のような単調な林道歩きが延々2.5キロも続きました。

   

 林道歩きをすること45分、ようやく右手に「穴滝まで500m」の分岐の表示が見えた。結局、単調な林道歩きは2.5kmだったことになる。

   

※ 左は林道の続き、右の細道が「穴滝」への道です。前方に「穴滝まで500m」の案内表示が見えます。

 林道を外れると急に道は細くなり、あまり整備が行き届いていない登山路のような様相を呈していた。中には雑草が覆いかぶさっているようなところもある。雨の後や、朝露に雑草が濡れている時は下半身はかなり濡れそうである。また、「穴滝」から流れてくる水の流れのために何回も渡渉を繰り返さねばならなかった。

   

※ 道が急に細くなりました。

   

※ どこが道か分かりますか?雨後や朝露では下半身は早々に濡れそうです。

   

※ こうした流れを何度も越えて「穴滝」へ向かいます。

   

※ 中にはこうした泥道もなんどか現れました。

 分岐から山道を歩くこと15分。前方に大きな岩が見えてきた。さらに進むと大きな洞窟が現れた。想像していたよりははるかに大きな洞窟だった。あるガイド本によると幅30m以上、奥行き10m以上、高さ5m以上だという。

   

※ ようやく前方に洞窟らしきものが見えてきました。

   

※ 目的地の洞窟の入口です。

   

※ 洞窟内はうまく撮れませんでした。

 「はて、滝はどこだろうか?」と洞窟の奥へ進むと、その先に滝があった。こちらは予想していたよりはやや小さな滝である。滝の高さは5mくらいだそうだが、これが紛れもない「穴滝」である。予想より小さいということは、現在が渇水期にあることとも関係しているようだ。

   

※ 洞窟の一方の端に滝が見えました!目的の「穴滝」です!

   

※ 寄って

   

※ 寄って

   

※ 裏へ廻って

 私は付近の岩に腰を下ろし、しばし滝を眺めていた。すると、洞窟内のどこからかそよ風と滝の飛沫が私の頬を撫でてくれ、非常に気持ちが良かった。まさにマイナスイオンたっぷりである。誰もいない洞窟内で私はしばしマイナスイオンを楽しんだ。

 簡単に近づかせてくれなかった「穴滝」であるが、苦労しただけ価値が倍増した小樽市の「穴滝」だった。