田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

映画 №352 Dr. コト―診療所

2022-12-21 11:33:33 | 映画観賞・感想

 大きな空が懐かしかった…。青い海が懐かしかった…。13年前に僅か3日間の滞在だった与那国島だが、その時の思い出がスクリーン上で鮮やかに蘇った。しかし、それよりもヒューマンなストーリーは映画の醍醐味を十分に堪能させてくれた2時間半だった。

      

 昨日、12月20日(火)午後、映画Dr.コト―診療所」が上映されている札幌シネマフロンティアに足を運んだ。話題の映画の封切直後(12月16日公開)とあって、平日にも関わらずかなりの観客で客席は埋まっていた。

 「Dr.コト―診療所」はTVドラマとして人気だった作品だが、TVドラマの放送が終わってから16年ぶりに映画で復活するということで話題となっている映画である。私は基本的にTVドラマは観ない方なので、TVの「Dr.コト―診療所」もほとんど観ていない。ただ、与那国島の旅から帰って再放送分を多少観た記憶はあった。

   

 映画の出演陣は主演の吉岡秀隆、柴咲コウをはじめ、ほとんどの出演陣が同じということも話題を集めている。吉岡秀隆や時任三郎が白髪交じりとなっていたところに16年の年月を感じさせられたが…。またTVドラマで子役の原剛洋役を演じていた富岡涼は、その後芸能界を引退していたのだが本作に限って復帰したことも話題となっていた。

 映画はDr.コト―(吉岡秀隆)が20年前に赴任した志木那島で相変わらず離島の医師として島民の健康を守っていた。ただ16年前と変わったのはDr.コト―が診療所の看護婦だった彩香(柴咲コウ)と結婚し、彼女が身籠ったというところからスタートし、そこからさまざまな話題が展開するというストーリーだった。

 さて、映画の舞台となった「志木那島」とは架空の島で、実際は日本の最西端に位置する「与那国島」をモデルとして、実際に与那国島でロケされた映画である。その与那国島に私は13年前の2009年にわずか3日間だけだったけれど滞在した体験があり、そのTVドラマで使われた診療所の建物が与那国島の比川地区に残されていたのを見学もしていた。私の与那国島の旅はとても刺激的な旅だったので非常に濃く記憶に残る島なのだ。しかし、そのことを語るのが本旨ではないので触れないが、映画に映し出されるシーンの一つ一つがとても懐かしかった。

  

 映画はさまざまな要素が含まれる内容だったが、主題は離島においてDr.コト―の厚意に頼らねばならない医療体制の貧弱さを問うものだったと私はみた。そのことを本作で始めた登場した研修医役の高橋海人(King & Princeのメンバーの一人)が指摘する演技がなかなか好演だったと私には映った。

 映画レビューを覗いてみると、TV版「Dr.コト―診療所」の熱烈ファンが多く投稿していたようだが、期待が大きかっただけにやや厳しめの批評が多く感じたが、私には脚本の確かさ、吉岡秀隆をはじめベテランの方々の演技の巧さが相まって十分に楽しむことができた映画だった。また映画の終末もDr.コト―の運命がどうなったのかを、観ている者に委ねたところも、私には「なるほど…」と思わせるものだった。

  

 比川の穏やかな海辺、久部良の活気ある港、西崎(いりざき)の荒々しい断崖、東埼(あがりざき)の与那国馬が草を食む草原、そしてDr.コト―が自転車で往診に駆け回る与那国島の広々としたサトウキビ畑…。そのどれもが私の目には懐かしく、懐かしく映った映画「Dr.コト―診療所」だった…。   

※ 掲載した写真は全てウェブ上から拝借したものであることをお断りします。 


北海道立文学館 吉本隆明展を視る

2022-12-20 12:14:27 | 作品展・展覧会等

 雑食性を自認する私だが、そんな私でも「吉本隆明」は視界に入っていなかった。「戦後思想界の巨人」とも称される吉本だが、私には関心外だった。それがひょんなことから特別展の入場券が手に入ったのだが…。

        

 12月18日(日)午後、中島公園内にある「北海道立文学館」に足を運んだ。文学館で開催中の「歿後10年 吉本隆明 廃墟からの出立」特別展を見るためである。

   

 リード文でも触れたが、私にとって「吉本隆明」という人物は視界に入っていなかった。というのは何を隠そう私にとっては彼の言論など難解すぎて、著書を手に取ってみようとも思わなかったからだ。ところが!某日、ある講演会に出向いたときに知り合いの方から「行ってみないか?」と問われ、入場券をいただいたのだ。雑食性を自認する私である。そこまで言われたら行かないわけにはいかないだろう、と考え文学館に出向いてみたというわけである。

 展覧会場は日曜日の午後というのに閑散としていた。やはり一般人には少々縁遠い人物と受け取られているようである。私はせっかくの機会だから、少し丁寧に見て回ろうと考えた。特に吉本氏の少年期、青年期を詳しく見ることによって彼の思想がどのようにして形成されていったかを知りたいと思った。

   

 少年時代の吉本に影響を与えたのは、東京月島の彼の家のあった近くにあった塾の教師:今氏乙治(いまうじおとじ)だったようだ。今氏は早稲田大で英文学を学び、自身も詩や小説を書いていたという。さらに彼は今氏の蔵書をむさぼるように読んだという。吉本の時代(1924年生まれ)に塾に行っていたということは、吉本は比較的恵まれた少年時代を過ごしたようだ。彼はそこで詩で表現することの面白さに気付いたようだ。

 吉本の思想形成に決定的な影響を与えたのは太平洋戦争であったことは、吉本に関心のある方にとっては常識なのかもしれないが、そのことが今回の特別展ではよく理解することができた。太平洋戦争が始まった1941年は吉本が17歳の時である。彼は太平洋戦争は日本がアジアの植民地を開放するための戦争だと信じて疑わず、多感な時期を戦争礼賛で過ごし、勤労奉仕に汗を流しながらも詩作に没頭していた時期でもあった。

 吉本は富山県魚津市の日本カーバイド工業に勤労動員されていた時に終戦を迎えたが、その衝撃ために何も考えることができずひたすら海を見て過ごしたと展示物に書かれていた。

 さらに吉本にとって決定的な影響を与えたのは、その後1945年に進学した東工大で遠山啓教授に出会ったことだという。遠山教授の「量子論の数学的基礎」を聴講して、決定的な衝撃を受けたと吉本は告白している。

 そして彼の思索、執筆活動が始まっていくのだが、それから吉本が著した膨大な著書群を見た時、「これはもう降参」と私はその後の展示を見て廻ることを早々に諦めた。

 展示を見て回ることを諦めた私であるが、一つの展示が私の眼を射止めた。それは「影響を受けた本は?」、「最も困難だった出来事は?」、「最も好きな言葉は?」という質問に答えている展示があったので、それをメモした。

 それによると、影響を受けた著書としてファーブル著の「昆虫記」、作者不詳の「新約聖書」、マルクス著の「資本論」を挙げている。

 困難な出来事では、吉本は結婚のことを挙げている。彼は同人誌を発行していた時に同人だった黒澤和子という人と恋愛関係に陥ったらしい。ところが黒澤は既婚婦人だった。

吉本と黒澤、そして黒澤の主人との三角関係となり、相当に苦労して結婚にこぎつけたらしいことを吉本は吐露していた。

 最後の好きな言葉ではマタイ伝の「ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遺される人々を石にて撃つ者よ……」と答えている。(1965年に答えたことだそうだ)

 吉本隆明が戦後言論界においてどのような位置を占めたのか私には知る由もないが、日本の学生運動など左派の運動に大きな影響を与えた人物だということだけはおぼろげながら認識している程度である。 

          

 彼の歿後10年を期してこうした特別展が道立文書館のような公的施設で開催されること自体、彼の発表し続けた思想自体が普遍性を帯びているということの証だろうか?      


冬の夜 語り、歌声のぬくもり

2022-12-19 16:56:20 | ステージ & エンターテイメント

 タイトルを見て「なんじゃ!こりゃ?」と思われたかもしれない。これがなんと朗読の会なのだ。由緒ある歴史的建造物の中で聴く朗読は雰囲気が抜群だったが、私は再び朗読を聴くことの難しさを味わったのだった…。       

 12月17日(土)夜、国指定の重要文化財に指定されている「豊平館」「不思議の庫無本工房」という不思議な団体が主催する朗読会が開催され参加した。

 朗読会のプログラムは掲載したとおりなのだが、〈第1部〉が個人朗読と称して3人の読み手がそれぞれ自ら推奨する作品を朗読した。そして〈第2部〉はゲストとして招請された女性コーラス「ら・のーぱ」のいわゆるママさんコーラスの発表だった。そして〈第3部〉は「朗読とスクラッチアートで味わう小川未明」と題する朗読、という三部構成だった。

※ この夜のプログラムです。

※ 会場となった由緒ある雰囲気を醸し出す豊平館の2階ホールに描かれた「豊平館」

の額とシャンデリアです。

 メインはやはり〈第1部〉なのだと思われたが、これが私にとっては難問だった。私の耳が衰えてきている証なのかもしれないが、読み手の声がどうしてもクリアに伝わってこないのだ。したがって、聴いていても物語の世界へ入っていけないのだ。要因は前述したように私の耳にもあるだろう。それと共に、朗読者がマスクを装着し、マイクを通して私たち伝わるという方式も関係しているように思えた。最近の講演などでは聞き手との間に距離があることもあり、話し手はマストを外すことが多い。できればこの夜も聞き手との間に距離があったのだからマスクを外して朗読してほしかったという思いである。何せ、朗読の場合は手元に何一つ資料などはない。読み手から発する声だけが全てなのだから主催者の配慮がほしいと思ったのだが…。

※ 読み手の方と私たちはこれだけ離れていたのですから…。顔を出さないようにとの主催者の指示に従って…。

 〈第2部〉の女性コーラス「ら・のーば」の歌声について、私は正直言ってとても感動した。メンバーはわずか8名である。紹介によると1996年、江別市立野幌中学校に通う生徒の母が集まって結成したという。以来30年近く活動を続けているというから年齢もそれなりに加わったグルーブである。彼女らが最初に披露したスタジオジブリの名作アニメ「天空の城ラピタ」のエンディングテーマ「君をのせて」を聴いたときにグッときてしまった。アマチュアとしての一生懸命さと歌い込んだ巧さがミックスされた素晴らしい歌声に思わずグッときてしまったのだ。その後に繰り出された数曲(プログラム参照)も心地良く私の耳に入ってきて、心が洗われるひと時だった。

※ わずか8名の女性コーラスでしたが、素晴らしいコーラスを聴かせてくれました。

 〈第3部〉の「朗読とスクラッチフートで味わう小川未明」は、あべゆうこさんという描くスクラッチアートが素晴らしい効果を発揮した。「負傷した線路と月」というなんとも不可解な題が付けられた物語である。つまり線路やその周囲の植物や風景を擬人化した物語なのだが、スクラッチアートが無理なくその不思議な世界へ導いてくれた役割を果たしていた。私たち聴いている者は幻想的な紙芝居を見ている気分で物語の世界へ入っていくことができた。

※ 十数枚映し出されたスクラッチアートの一部です。

 と3部構成の内容を簡単に紹介したが、主催した「不思議の庫無本工房」(ふしぎのくら むほんこうぼう)という不思議な名前のグループだが、札幌市の南沢にあって、もともとは紙芝居の文化活動から始まったグループだという。その活動を通して既存出版社の紙芝居や絵本からは見つけられないような隠れた名作などを掘り起こし、オリジナルの紙芝居や絵本を制作して希望する方に届ける活動をしているために「工房」と名乗っているようだ。併せて今回のような表現活動を柱としたイベントにも取り組んでいるということだった。

 最近、イベント欄を検索していると、さまざまな朗読の会が市内では頻繁に、といえるほど開催されている。私から見ると一種のブームのようにも思えるのだが、私にはその隆盛の意味を測りかねている。機会があればもう少しこの種の会に参加してその真相に辿り着きたいと思っているのだが…。

 不思議な楽しい夜だった…。


砂澤ビッキ展ギャラリーツアー

2022-12-18 12:50:35 | 作品展・展覧会等

 同じ展覧会でも学芸員による説明を受けながらの観賞(ギャラリーツアー)は、作品に対する理解度が格段に違う。(特に私の場合は…)砂澤ビッキの豊穣なる迷宮世界、蠢動するようなエネルギーを孕む旺盛な制作欲の一端を窺い知ることができた??

        

 11月の末から(正確には11月22日から)道立近代美術館「砂澤ビッキ展」が開催されていることは知っていたが、私は開催要項を見て12月17日(土)に学芸員によるギャラリーツアーがあることを知り、この日まで観覧するのを控えていた。

 午後2時ギャラリーツアーの開始時刻に行ってみると、なんと定員10名のところに50名近くの人が集まっていた。私と同じように考える人が多いということか?それでもこの日の担当だった五十嵐学芸部長は「互いの間隔を取りながらお聞きください」と全員を受け入れてくれた。

        

 五十嵐氏はまず、「ビッキは多面的な人である」とビッキを紹介した。ビッキは単に木彫作家だけではなく、抽象的絵画、彫刻、工芸、デッサン、書、マンガなどさまざまな表現活動を手掛けた人であると話された。なるほど、展覧会にはマンガの展示こそ無かったものの、木彫をはじめ、抽象絵画、デッサン、書なども数多く展示されていた。五十嵐氏は「ビッキの場合、一つの作品を手掛けているうちにアイデアが次々と浮かんできたのではないか」と推察した。

 最初の展示は樹を使った昆虫や生き物を象った彫刻だった。ビッキの作品は「動く、動かす」が一つにテーマだったと話された。樹を使った昆虫や生き物たちの彫刻に「樹蝶」、「樹兜虫」、「樹海老」、「樹蟹」などという作品名が付けられ手足が動くように作成されていた。また、生き物たちの背には〈ビッキ文様〉と称する独特の文様が施されているのも特徴のひとつだった。

   

   ※ これは「樹海老」である。展示されていたのは全長1.5mくらいの大作だった。

 続いておびただしい「裸婦デッサン」が展示されているコーナーに導かれたが、それらのデッサンを眺めているとビッキが制作した抽象的な木彫作品はこれら裸婦デッサンが基礎となっていることが理解できた。

 ビッキが大きな作品作りに取り組み始めたのは、私も今夏に訪れた音威子府村の旧筬島小学校校舎をアトリエとした以降だったという。ここでは大木を前にして、その大木からイメージされる形を活かす作品が多く生まれたという。ビッキは「木に自分の思いを押し付けてはいけない。木にはその木が持っている形がある」と述べたそうである。展示されていた〈神の舌〉〈風〉などはその典型だろう。

       

       ※ 彼の代表作の一つ(?)「神の舌」です。

 最後にビッキ晩年の作品として〈樹華〉という作品がある。イタヤの木の台座に、ヤナギの木の皮をはいだ枝をたくさん差すことによって華に見立てたものである。その作品の横にビッキのメモが展示されていた。それを書き写したので紹介します。

   樹華   樹華は 森と匠の村、森の 形態をとってあり 茂る自然林 その伸長する 枝葉は村を 象徴する ビッキ」 

          

            ※ 「樹華」です。

 その他にもいろいろと説明をうかがったのだが、ここでは省略したい。ともかく、展覧会は砂澤ビッキという異才が放つエネルギーに満ちた空間だった。特に木彫作品などは私が苦手とする抽象作品が多かったのだが、それら一つ一つの作品から砂澤ビッキの魂の叫びを聴く思いだった。作品展は1月22日まで続く。興味のある方はぜひ覗いてみることをお勧めしたい。            

※ 掲載した最初の写真以外はウェブ上から拝借しました。


北海道の黎明期 北を目指した男たち~合田節を堪能~

2022-12-17 12:43:46 | 講演・講義・フォーラム等

 合田一道節は健在だった。豊富な知識を縦横に操り、聴いている者たちを合田ワールドに誘う話術は健在だった。松浦武四郎、坂本龍馬、榎本武揚と北海道との関りを興味深くお話された。今回もまた合田一道節を堪能した。

   

 12月14日(水)午後、ほっかいどう学「かでる講座」の今年度第9回(今年度最終回)の講座が開催され参加した。このところ確か3年続けて「かでる講座」の最終回は合田一道氏が講義されていて、私は毎回楽しみにしている講座である。

 合田氏についてはご存じ方も多いと思われるが、新聞記者からノンフィクション作家に転じた方である。氏は主として明治以降の近現代における北海道に関わる史実を掘り下げて文章として著している方である。そのため明治以降の北海道の開拓に関わった人達については特に造詣が深く、それらの人々のことを語るといつも興味深いお話を聴くことができるのだ。

   

 今回もその延長線上で「古文書に見る北を目指した3人の男~武四郎、龍馬、榎本~」と題してお話された。講義ではその他の方々についても言及されたが、本レポートでは3人に絞って合田氏が話されたことをレポートしたい。

        

 まず、松浦武四郎である。彼は蝦夷地を探検すること実に6度に及ぶ。そのうち前半3回は自費で、後半の3度は幕府に召し入れられ幕命によって踏査している。武四郎は蝦夷地を探検するたびにその眼差しはいつも先住民族のアイヌに注がれていたことは有名な話であるが、合田氏もそのことを強調された。その最も顕著な例が明治新政府となって、武四郎は開拓使の開拓判官を命じられるが、その時蝦夷地の新たな地名を新政府から命ぜられた。その際、新政府からの条件として「道」という字を加えることだったそうだ。武四郎は数あった候補の中から「北加伊道」という地名を推薦したという。その中の「加伊」という字であるが、それは武四郎が蝦夷地を探検していた時にアイヌ民族の古老から「カイ」とは「この国に生まれた者(=アイヌ民族)」という意味であることを知らされたことから、アイヌ民族に対する武四郎の並々ならぬ思いが込められていたことが想像される。結局は「加伊」は「海」に改められて現在の北海道となり、武四郎は「北海道の名付け親」とも称されている。 ※ (=アイヌ民族)の表記は私が独自に記したものである。

 武四郎は開拓使の中で島義勇と開拓判官を務めたが、上司である島と意見を違えたことから開拓判官を辞し、江戸に戻ったという。武四郎には役人などより在野で自由に活動する方が似合っていたのかもしれない。

     

 続いて、坂本龍馬である。坂本龍馬が蝦夷地に渡った形跡がないのは史実でも明らかである。しかし、龍馬はその生涯で少なくとも2度にわたって蝦夷地に渡ろうと試みたという。その一つは元治元年(1864)勝海舟率いる神戸海軍塾の塾頭となって、海軍塾所属の黒龍丸を駆って蝦夷地開発を目論んだ矢先、京都にて池田屋騒動に遭遇し多くの同志を失い、龍馬自身も負傷してしまうという不運に見舞われ計画は頓挫してしまう。
 いま一つは、慶應3年(1867)龍馬は海援隊隊長となり、伊予国大洲藩所有の「いろは丸」を借用し海援隊の業務を遂行するとともに、密かに蝦夷行も企図していたという。ところが「いろは丸」は4月23日の初航海において紀州和歌山藩の明光丸と衝突して沈没してしまうという「いろは丸事件」に遭遇してしまい龍馬の思いは雲散霧消してしまった。

 そしてこの年の11月、龍馬は近江屋において刺客に襲われ絶命し、蝦夷地開発の夢は断たれてしまった。龍馬の思いは、龍馬の甥である坂本直寛に引き継がれ、直寛は北見(野付牛)、浦臼で開拓の鍬を奮ったことは多くの人が知るところである。

          

 そして榎本武揚である。合田氏は榎本のことを当初は、「新政府転覆などと吹聴し、多くの若者を死に追いやり、自分だけは生き残って新政府の中で要職を務めるといったとんでもない奴」と見ていたが、榎本を調べるほどに「榎本とは稀にみる傑物である」と考えるに至ったという。そう思い至ったわけは、榎本は箱館戦争の敗戦が必至な情勢の中、五稜郭開城前夜に自決を図ったが部下に阻止されたという事実が分かったこと。そして敗戦後に刑務所に収監された際には「ないない節」などというまるで刑死を恐れぬ戯れ歌を作っていたことなどから、けっして助命を願うような人物ではないことを知ったという。

 そして黒田清隆の進言により明治政府に取り立てられてからは、日本国が危機に陥った時には必ず顔を出していた、ということから榎本への見方が180度変換したそうだ。例えば、ロシアとの間で難しい交渉だった樺太・千島交換条約を締結したこと。さらには、明治22(1889)年2月、大日本帝国憲法発布式にあたっては儀典掛長を務め、同日に暗殺された森有礼の後任として文部大臣を務めた。森有礼は日本の学校制度を創設するために奔走した人物だったが、実質的には榎本が学校制度の普及を担ったといえるかもしれない。

 以上、北海道に関わった三傑物について合田氏は氏独特の見方もまじえ、興味深くお話された。講座は上記の3人の他、島義勇、美泉定山坊、飯沼貞吉、大岡助右衛門、熊坂長庵、などといった人物にも及んだが、それらについてのレポは省略する。 

 合田氏は本年88歳だという。声にやや張りが失われたかな?と思われたが、まだまだ矍鑠とした感じである。できれば来年もまた、合田氏の興味深いお話を伺いたいと思っている。


日本人はどんな画家が好みなのか?

2022-12-16 15:48:53 | 講演・講義・フォーラム等

 朝日新聞社が世界の画家の中で誰が好みか?の調査をしたという。その結果は??また北海道ゆかりの日本画家・岩橋英遠は空知郡江部乙村(現滝川市江部乙)の開拓農家に生まれ苦労しながら画家を志し大成したという。興味深い「美術への誘い」講座だった。

 

 12月13日(火)午後、中央区民センターにおいて「中央区民センター講座」が開講され受講した。講座は北海道美術館協力会アルテピアの皆さんが講師を務める「美術への誘い」というテーマの講座だった。講座の構成は、

  岩橋英遠

  世界の名画10

  道内美術館巡り・個人美術館を訪ねて

の3本立てだった。

 岩橋英遠(いわはし えいえん)は前述のとおり明治36(1903)年、空知郡江部乙村の開拓農家の家に生まれ、病弱の父に代わって農作業に従事しながら独学で画を描いていたが、画に対する思い断ちがたく21歳にして上京した。

 その後英遠は苦学して出世し日本画壇の重鎮として活躍し、文化勲章まで受賞した大家である。英遠は上京後に北海道へ帰ることはなかったが、故郷北海道への思慕の思いは強く、数多くの北海道に関する画を残している。

        

※ 岩橋英遠の「道産子追憶之巻」ですが、4片に切り分けられ上から冬、春、夏、秋の順になっていますが、実際はこれらが一枚の絵として繋がっています。

 講座では、彼の画を19点にわたって画像で紹介してくれた。私は道立近代美術館が所蔵する「道産子追憶之巻」と題する長さ29mにもわたる北海道の春夏秋冬を描いた一大絵巻を観た時、一気に彼のファンになった。それくらい道産子を惹き付ける画である。

    

    ※ 「道産子追憶之巻」の秋の部分を大写ししましたが鮮明でないですね。細かに見える白い点は秋のトンボの群れを描いています。

 もう一つ、道庁赤レンガ庁舎の壁面を飾る「阿寒湖畔の松浦武四郎」も印象に残る画である。彼の画は故郷である「滝川美術自然史館」に数多く所蔵されているという。機会があればぜひ訪れて鑑賞したいと思っている。

    

    ※ こちらはあかん湖を踏査する松浦武四郎を描いたものです。

 ②の「世界の名画10選」は、前述したとおり朝日新聞社が「世界の画家で好きな画家は誰か?」という調査をしたという。その結果をもとにそれぞれの作家の代表作を紹介いただいた。その結果と作品は次のとおりである。(何時の時点での調査だったかは聞き忘れた)

◇第10位 ポール・セザンヌ       「りんごとオレンジ」

◇第 9位 ラファエロ・サンティオ    「牧場の聖母」 

◇第 8位 パブロ・ピカソ        「ゲルニカ」

◇第 7位 ヨハネス・フェルメール    「真珠の耳飾りの少女」

    

◇第 6位 レンブラント・ファン・レイン 「夜警」

◇第 5位 ミケランジェロ・ヴォナローティ「最後の審判」

  

◇第 4位 ヴィンセント・ファン・ゴッホ 「鴉の群れ飛ぶ麦畑」

◇第 3位 ピェール=オーギュスト・ルノワール 「女優ジャンヌ・サマリーの肖像」

◇第 2位 レオナルド・ダ・ヴィンチ   「モナ・リザ」

◇第 1位 クロード・モネ        「睡蓮の池 夕暮れ」

 

という結果だったそうだ。貴方の順はどうでしょうか?

 最後は、道内にある個人美術館についての紹介だった。その個人美術館とは…、

 木田金次郎美術館(岩内町)

 西村計雄記念美術館(共和町)

 神田日勝記念美術館(鹿追町)

    

    ※ 神田日勝の未完の馬はあまりにも有名ですね。

 三岸好太郎美術館(札幌市)

 神田日勝以外はそれぞれ生まれ故郷に美術館が建設されている。神田日勝は東京生まれであるが、日本の敗戦直前に鹿追町に移り住み、そこで農業の傍らに画を描き続けたが、夭逝してしまった画家を記念したものである。

 美術に対してそれほど関心があるとは言えない私だが、これまでに訪れていないのは「神田日勝記念美術館」だけである。機会があればぜひ訪れてみたい。

 前述したように美術に格別関心のない私だが、こうした初心者向けの講座は大歓迎である。美術ファンの底辺を広げる為にも北海道美術館協力会アルテピアの皆さんが積極的に講座を開催されることを願いたいと思う。

※ 掲載した写真は全てウェブ上から拝借しました。


プラスチックごみ問題を考える

2022-12-15 14:27:08 | 講演・講義・フォーラム等

 2050年には海を漂うプラスチックごみの量が、海に生きる魚の重量を上回る予想があると聞いて驚いた。それほど海中のプラスチック汚染が進行しているということのようだ。いったい地球はどうなってしまうのだろうか?

 12月12日(月)午後、私が所属する「めだかの学校」は10月から続けているSDGs学習会」の第3回目の学習を行った。私たちの「SDGs学習会」は札幌市が実施している「札幌市出前講座」を活用し、SDGsに関する講座を選び、6回講座として計画したものである。 今回はその3回目の学習として「私たちの生活とプラスチックごみ」と題して、札幌市環境局環境事業部循環型社会推進課の職員の方に講師を務めていただいた。

   

   ※ 「SDGs学習会」の担当であるK女史が講師である札幌市の担当者(左側)を紹介しています。

 その講義の冒頭で聞いたのが、リード文で紹介したことだった。1950年以降に世界で生産されたプラスチックは累計で83億トンだそうだ。そのうちリサイクルされたのはわずか9%で、残りは地上、あるいは地中、そして海洋に流出しているという。

 プラスチックはその性質上、時間の経過とともに風化し、細分化され、大きさが5mm以下の微細な破片となってしまう。こうした状態のプラスチックはマイクロプラスチックと称されている。講義では紹介されなかったが、今やマイクロプラスチックがさらに細分化され大きさが100nm(ナノメーター 註:nmとは1nmが1mmの1/1,000の単位である)以下のものをナノプラスチックとも呼ばれるようになったようである。

   

   ※ ネット上からマイクロプラスチックの画像を探して掲載しました。

 海洋を漂うプラスチックごみの量が早晩海中の魚の重量を上回ると聞いて恐怖を感じたのは…。すでにその傾向が出てきているとも言われているが、マイクロプラスチック、あるにはナノプラスチックを魚たちがプランクトンなどの餌と間違え体内に取り入れることによって、そうした魚を口にする私たちの体内にもプラスチックが蓄積されるのではないか、という恐怖を感じたのだ。すでにそうした魚が出現しているとも聞いた。そのことが将来多くの魚たちに影響を及ぼすこととなったら、私たちは刺身や寿司を口にすることが恐ろしくなってしまうのではないか、と思ったのだ。

     

     ※ 同じくネット上から、魚の体内から出てきたマイクロプラスチックです。

 ところで講座の方は、そうした恐怖を煽ることではなく、増え続けるプラスチックごみをいかに減らすか、あるいは増え方をどう抑えるか、について啓蒙することにあった。

 札幌市では使用済みのプラスチックの再資源化に力を入れているという。そのためにもゴミの分別をより徹底してほしい、との要望があった。ただ、その分別においても電池類の分別はかなり厄介そうである。注意をしてごみとして出す必要があることを痛感した。

 講座のまとめとして「暮らしにおけるプラスチックとの付き合い方」について次のようにまとめられた。

 プラスチックは軽くて丈夫、そして衛生的で密閉性が高い、さらにさびや腐食に強く、大量生産が可能ということで瞬く間に世界を席巻してしまった。これだけの利点を備えたプラスチックを完全に排除した生活は考えられない。今、私たちに求められていることは、それぞれの生活に合った形で、不必要なプラスチックの使用を減らしていくことが大切であると強調された。

  

  ※ 私たちの体内にもマイクロプラスチックが蓄積する恐れが考えられる概念図です。

 私自身の生活を振り返っても、今やプラスチック無しの生活は考えられない。しかし、一方で地球は危機に瀕している。(プラスチックばかりではないが…)そうした状況にあって、提言されたように一人一人が今より少しでも不必要なプラスチックの使用を減らし、プラスチックごみの出し方に留意すること。それを先進国といわれる国々から始め、そのことが世界に伝番していく世の中の創っていくことが必要ということなのだろう。それがSDGsの理念を広めていくことに繋がるのだと信じたい。


北大奇術研 マジックフェスティバル

2022-12-14 16:16:27 | ステージ & エンターテイメント

 10月のマジックパーティーに続いて、今度は「マジックフェスティバル」である。前回は1年生会員、今回は2・3年生会員のステージだという。はたして1年生会員より熟練の技を見せてくれたのだろうか??

            

 雑食性の私である。さまざまなところに顔を出し、拙いレポを書き綴っているが、今度はマジックショーに顔を出した。

 マジックの謎(種)など何一つ見破ることのできない私だが、マジックを見て、その不思議さを単純に楽しんでいる自分である。10月のマジックパーティーで楽しめた思いをもう一度味わいたいと、12月11日(日)夕刻、教育文化会館小ホールで開催された北大奇術研究会マジックフェスティバルに足を運んだ。

   

 お客さんは小ホール(キャパ360名)がほぼ満員と北大ブランドを裏付けるお客さんの入りだった。開幕前に幕前のステージでお客さんを呼び小ネタのマジックを披露するサービスがあり、その後時間通りに開演した。プログラムが配布されたのでそれを転写するが、文字が小さいために読みにくいかもしれない。その上、プログラムを見てもどのようなマジックなのかは分からないと思われる。私も一つ一つは説明できないが、ともかくステージマジック、カードマジック、ロープマジックと多彩な内容で、さらにはジャグリングを披露する会員もいた。

     

 1年生会員が主体だったマジックパーティーに比べると、マジックの内容自体にそれほどの違いは感じられなかったが、さすがに舞台慣れしているからだろうか?演技のぎこちなさが消えて見えたところは年の功だろう。特徴的と思えたところは、女性会員の姿が目立ったように思われた。ステージに立った数からいうと、女性会員が多かったようだ。マジックは女性にとっても取り組みやすい分野ということだろうか?

     

 前回のマジックパーティーの時にも触れたが、北大の奇術研究会は3年生を終えた段階で卒団だそうである。4年目は卒論や就職活動に専念してほしいという奇術研究会の伝統のようだ。はたしてこの日フェスティバルには卒団した4年生は駆け付けていたのだろうか?

   

 マジックの種明かしなど考えることなく、マジックの不思議さを単純に楽しむという私のスタイルで、今後も機会があればマジックを観る方で楽しみたいと思う。

 ※ ステージの写真撮影は禁止だったが、最後に出演者全員が揃うところは許されるのではと考え、一枚だけ撮らせていただいた。


IST社長の稲川氏、宇宙開発を語る

2022-12-13 16:20:44 | 講演・講義・フォーラム等

 北海道・大樹町に本社を置くインターステラテクノロジズ社長の稲川貴大氏は民間ロケットとして初めて宇宙空間に到達したMOMO3号を製作した会社の社長として一躍名を上げた方である。その稲川氏が宇宙開発について熱く、能弁に語った。(稲川氏は経営者であり、ロケット開発の科学者でもある)

        

 12月10日(土)午後、紀伊國屋書店札幌本店のインナーガーデンにおいて「室蘭工業大学テクノカフェ」が開催され参加した。今回のカフェのテーマは「日本のものづくりと宇宙開発の未来」であったが、ゲストとしてインターステラテクノロジズ(IST)社長の稲川貴大氏が招請され、室工大教授の清水一道氏が聞き手となってISTの現在、そして未来を語る対談だった。ここでは対談において稲川氏が語った印象的な言葉について紹介していくことにする。

   

 稲川氏はまず、民間がロケットを開発するということは、「輸送業を始める」ことであると語った。であるから、ISTが目指すロケットは「速く、安く、どこでも」飛ばせることが目標だという。そしてまず、到達距離上空100kmを目指した観測ロケット「MOMO」を2度の失敗の後、3度目に目標の100kmに到達し、目標を成し遂げた。

 現在は、地球の周りを周遊する超小型衛星打ち上げ用ロケット「ZERO」の開発中だということだ。衛星を打ち上げる為には地球の重力を振り切るために時速28,000km以上の速度を求められ、この速度を獲得することが最大の課題であるとも語った。

 「ZERO」の製作には部品数が4万点ほど必要になるというが、日本で製作されている高級乗用車の部品数が同じくらいだそうだ。つまり日本の工業製品の製作能力は “凄い!” と稲川氏は表現した。彼の言葉によると「日本の自動車製造能力をぜひインストールしたい」と述べた。それはすでに製品化されている市販品を利用すればロケット製作の低価格化が実現できるから、という。もっともなことである。

 さて、民間ロケット活用という面について、例えば「宇宙牛(うちゅうぎゅう)という考え方があるという。これは牛を放牧して宇宙から監視し、管理することだという。そうすると日本の各地に点在する無人島でも牛を飼うことができ、そのことが日本防衛にも役立てることができるはずだと強調された。

   

 稲川氏はDX(デジタルトランスフォーメーション)についても言及されたが、私自身がDXについての理解が十分ではないためこの部分についての説明は省きたい。ただ、DXの考え方を応用して、宇宙をも視野に入れて開発することにより、先述の「宇宙牛」のような農業とテクノロジーの融合など、新しい可能性が開けてくると予言された。

 また、ISTが本拠地を置く大樹町は、ロケット打ち上げにはベストな場所であると言い、世界の企業が大樹町に目を付けているとも話された。それは緯度的にも、周囲の環境においても、太平洋に開けているという点においても、地球軌道を回るロケット打ち上げの場所としてはベストであると断言された。

 最後に、稲川氏は将来的に有望なロケット打ち上げ産業について「オールジャパン型の連携」を目指したいとした。そして今、ISTは「ZERO」の開発に注力したいと語り、対談を締め括った。

 科学の粋であるロケット開発について、私が理解できた範囲はかなり狭いものである。私は稲川氏の話を伺いながら、先日BSテレビで「空飛ぶ自動車」開発に取り組む二人の若い起業家(技術者)の話を聞いた。その二人と稲川氏がダブって見えた。日本の若い人たちが元気なことに心強さを感じた私だった…。


札響の第九 XⅣ 

2022-12-12 16:37:12 | ステージ & エンターテイメント

 実に14年連続である。今年もまた「札響の第九」の季節がやってきた。友人と共に聴き始めて14年。今年もまた札幌交響楽団の「交響曲第9番ニ短調『合唱付き』」楽しみ、そして細やかな忘年の宴を楽しんだ4人だった…。

       

 コンサート三連発である。この後も今月はコンサートの予定が目白押しである。私の年末はコンサートシーズンの様相を呈している。

 今年の「札響の第九」は12月10日(土)と12月11日(日)の二日間の日程で開催された。私たちはいつもの通り第1日目(12/10)の17時開演のチケットを札響会員のN氏を通じて最安値(3,000円)の席を確保していただいた。

 陽が落ちるのがすっかり早くなった。私が会場のKitaraに着いたのは16時半前だったのだが、辺りはすっかり黄昏れてKitaraの前のイルミネーションやKitaraの屋内の照明が鮮やかだった。

             

 座席は昨年同様ちょうどステージを横から眺めるRA席だったが、この席がやはり昨年同様私には気に入った席となった。というのも、指揮者もまた昨年同様に広上淳一氏だった。広上氏の指揮ぶりはたいへん特徴があり、非常に軽やかであり表情も豊かなのだ。広上氏の指揮を見ていると、まるで踊るがごとく軽やかに体を動かし、顔の表情まで豊かに変え、時には親指を立てて演奏者たちにgoodサインを送ったり、満足そうに頷いたり、本当に広上氏の表情を見ているだけでも楽しい指揮ぶりなのだ。それが最も良く見られるのがRA席だったのだ。

           

 コンサートはまず第九の前にR.ワーグナー作曲の「ジークフリート牧歌」という約15分の小曲が披露された。私にとってこの曲は聞き慣れない曲であったが、やや盛り上がりに欠ける凡庸な曲と映ったが、私の音楽的な理解力不足なのかもしれない。

      

 休憩の15分を挟んで、本番のベートーヴェンの「交響曲第9番ニ短調『合唱付き』」である。こちらは約70分の長丁場で4楽章に分かれている。昨年私は楽章ごとにその特徴を聴き分けてみようと試みた。私にとっては精一杯の試みだったが、それなりに満足感を覚えていた。そこで今回も昨年のメモをスマホにメモして、楽章ごとに確認しながら聴くことにした。そのメモとは、次のとおりである。

 第1楽章~起伏があり、打楽器が多用され、力強い印象が残った楽章だった。

 第2楽章~全体に静かな印象に終始した楽章だった。

 第3楽章~この楽章も終始穏やかな感じで、爆発するのをぐっと抑えている感じだった。

 第4楽章~いきなり打楽器を中心とした重厚な出だしで、そこから徐々に徐々に盛り上がっていき、最後に抑えていたものを爆発させるようなエネルギーに満ちた大合唱が繰り広げられてフィナーレを迎える。

 メモを確認しながら各楽章を聴いたのだが、そんなに間違ってはいないな、との思いを持ちながら今年の「第九」を聴いた。実際には70分の長丁場の曲である。上記のような数行で片づけられるものではないが、まあごく簡単に表現してみたということでである。

 いずれにしても、最後の大合唱が会場に満ち溢れてフィナーレを迎え、会場内が大拍手に包まれると、演奏者たちも観客も一年のフィナーレを迎えたという気分に満ちているようだった。もちろん私も…。

 高揚した気分でKitaraを後にした私たちは、Kitaraからほど近いホテルのレストランで忘年会と一応名を付けた忘年の宴を持った。昨年は自粛してアルコールも控えめにしたが、今回はアルコールが苦手な方も飲み放題に付き合ってくれたこともあり、大いに話が弾み各人が今年一年を振り返る報告をし合ったりして大いに盛り上がった。

 いつまで続くか分からない私たちの「札響の第九」だが、お互いが自らの健康に気づかい一年でも長くこの催しを続けたいと思っている。