津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家と公卿衆-Ⅲ

2007-09-02 18:09:16 | 歴史
 侍帳を覗いてみよう。
「妙解院忠利公御代於豊前・御侍衆併軽輩末々共ニ」には、忠興息女萬の知行として「二千石八斗一升四合五勺 右三齋様御姫烏丸中納言藤原光賢卿北ノ方 御末女也」とある。烏丸家は、ある資料によると知行は954石とあり、萬への知行の大きさに忠興の溺愛振りが伺われる。

「御侍帳・元禄五年頃カ」には、御上衆として、
  千石        烏丸宰相様
     内
    四百五十石   裏松宰相様
    二百石     七条侍従様
    二百石     勘解由小路様
    五十石     春宵院様
    百石      栄春院様
  百石        久世三位中将様御息女 久姫様
  三十人扶持     下冷泉中将様     等とある。
 
 この烏丸宰相とは誰なのか、12代光雄(光賢の孫)は元禄3年に亡くなっているので、13代・宣定であろうか。裏松宰相、七条侍従、勘解由小路等の細川家との係わりは分からない。春宵院・栄春院も不明である。
 久世三位中将とは、細川忠隆女トクが嫁した久世家であろうと思われる。忠隆はトクの為に自らの知行の分知を願って亡くなっているが、これがそうであろうか。「真源院様御代御侍名附」には、休無様御息女達として九百廿石とあるが・・・
 下冷泉家と細川家の関係は、私の知識の範囲では皆目見当がつかない。
いずれにしろ、藩主の手許から合力されたものであろう。
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細川家と公卿衆-Ⅱ

2007-09-02 08:41:12 | 歴史
 京都大学附属図書館所蔵の中院文庫にある『中院家略系図』によると、中院通勝の子は孝以、通村、女子、親賢(北畠)、周芳とあり、生母は全て細川兵部大輔藤孝入道幽齋女・實一色左京大夫義次女幽齋孫とある。通村が継嗣となっているのは、長男孝以が若くして亡くなったせいであろう。通勝は正親町天皇の勅勘をこうむり、天正八年(1580)から慶長四年(1599)まで、丹後国舞鶴に配流されている。そこで生まれた子供たちであろう。
さて、慶長五年(1600年)細川幽齋は田邊城に籠城する事と成るが、幽齋の歌道や古典学の学識の絶える事を恐れ、朝廷から和議の使者が再三送られた。最後の使者となったのが、中院中納言通勝・三条西大納言実条・烏丸中将光広等である。
この三人は、幽齋と歌道等においては師弟の間柄であると共に、三家は親戚関係でもある。時に通勝44歳、実条25歳、光広21歳であるが、通勝は実条の大叔父に当たると共に上記の如く幽齋の壻である。光広は息光賢に忠興息女が嫁している。

 数度の使者を送り不調に終わった斡旋も、19年間幽齋の側にあった通勝を始め、親しい間柄の公卿を派遣して最後の望みを託したのであろう。交渉はようやく成立して、幽齋は城を出ることになるのである。

 後日談
慶長14年、いわゆる猪熊事件と呼ばれる公卿の乱行事件が勃発、烏丸光弘も連座して二年間の勅勘を受けている。この事件は後陽成天皇の怒りを買ったが、幕府の不当な介入により処断が成された。天皇の退位へと繋がって行く。
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