津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

旧主を考える-10 黒田長政

2007-09-20 22:53:05 | 歴史
 黒田長政については、特段の説明も必要なかろう。 
細川家家臣弓削家の祖、弓削左衛門尉清重は藩主長政の岳父である。初代清左衛門は蕃頭となって2,000石、後長政と不和になり豊前国に移居、元和五年三齋公に仕えた。

 六代・清左衛門は山本文右衛門の弟・一學、五代清右衛門には実子が有ったが一學の才能に着目し家運隆盛ならしめんと養嗣子とする。父子の功名利達の心を藩庁が採用することなくその想いは蹉跌する。一學(清左衛門)不本心体につき、一類より御知行家屋敷差し上げを奉願し、御番方仰せ付けられる。その後も国老に対し堀平太左衛門を讒訴するなど頑迷な行動を労した。

 上記の事を書くのには些かの勇気を要した。実は中学時代の恩師が弓削先生。弓削家は三流あって、清左衛門家とは限らないのだけれど・・・・(どうもすみません)

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飯河豊前、長岡肥後父子誅伐に関して

2007-09-20 21:03:52 | 歴史
 慶長十一年七月二十七日の飯岡豊前・長岡肥後誅伐事件はその原因は定かではないが、細川興秋に係わりがあることは間違いなかろう。肥後等は「悪逆数箇条」が有ったなどと伝えられるが真相は闇の中である。この事件をよく理解する為に沼田家の系図を元に相関図を造った。約四時間ほどを費やしてしまった。

 豊前の元には日頃無音の女婿・麻生吉右衛門が駆けつけた。二男岩徳らと共々戦い、仕手河喜多石見の手により討ち果たされる。石見は、豊前の元にあった幼い家臣により不幸の死を遂げる。(この石見はガラシャ夫人に殉死した石見の息である)
 一方肥後の元には数年不仲であった室が、死を共にすべく帰ってきた。室は米田是政の長女で、二人の間の子は未だ五歳の女子である。忠興は是政の未亡人雲仙院を通じ、肥後の室(是政女)の説得に当たらせた。これに応じない為、弟貞政を再度当たらせるがこれにも応ぜず、肥後と共に死す事となる。肥後を恩人とする検使益田蔵人がその死に立ち会った。

 豊前(宗祐)の父飯河山城守信堅は沼田光兼の女婿、米田是政の父壱岐守求政室(後妻)は光兼女の娘(細川幽齋養女)である。幽齋室麝香も又光兼のむすめであり、細川忠興、飯河豊前、米田求政は沼田家の血を以って繋がる従兄弟である。
 飯河肥後の義弟、米田貞政と嫡子・是長は翌年忠興の元を離れた。この事件がその因であるとするものも有る。細川家の歴史に残る消し難い汚点ともいえる。
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日本談義から

2007-09-20 12:05:21 | memo
昭和26年・29年日本談義掲載記事からコピーを採る 
 ■清正と虎と片鎌槍 轟一郎氏(有明高専校長)
  加藤清正の虎退治におけるその頭骨は、清正の孫顕珠院(忠弘息女)
  の嫁ぎ先・阿部家に伝えられてきたその経緯など
 ■小笠原少齋の墓について 宇野廉太郎氏
  昭和26年10月に発見されたという毎日新聞記事についての論評
 ■立岡堤の傳承 富樫卯三郎氏
  加藤清正の築造と伝えられる、宇土立岡堤についての研究
 ■島原の役に於ける・山本五左衛門覺書 齋藤俊三氏
  松井家家臣山本氏の島原の役における働きについて
 ■美少年の切腹 宇野廉太郎氏
  過日ブログ(7/30・あっぱれ14歳)に書いた、十四歳「横田九郎兵衛」の
  見事な切腹についての一連の検証
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徳富蘆花「灰燼」 再UP

2007-09-20 10:37:39 | 徒然
 西南の役に西郷軍に味方して負け戦となり、我が家に逃げ帰った名家の次男坊が、家名を重んじる家族により死を強要される話である。

 蘆花は、熊本郊外の豪農弥富家で実際にあった話を題材にして書いている。
私たちは「熊本史談会」において、弥富家の「日光道中記」を勉強し、お金持ちならではの道中話を楽しんだが、後にこの様な不幸が訪れていたのである。「神風連の挙」に於いても、残された家族の悲しい話を随分多く知らされた。
明治という時代は、今はもう顧みられる事もないこの様な悲劇の上にある。
お読みいただければ幸いである。
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