日本談義の膨大な索引目録に目を通していたら、上記のようなものに出くわした。昭和29年6月号に掲載されている。約7ページに及んでいるが、気になってしょうがない。「天保時代の一事件」とあって、著者は宮本謙吾氏。図書館に走らねば・・・
ご存知明智光秀についての説明は必要なかろう。その娘が細川忠興室ガラシャ夫人である事はご存知の通りである。
■三宅藤兵衛・三兄弟 ガラシャは死に臨むに当たり甥藤兵衛の事につき遺言している。「三宅藤兵へ事を頼候也、此上にいはれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に」明智左馬助光春の子・与平次重利(藤兵衛)の事であるが、細川家を退身後寺沢家に仕えた。島原一揆の当時天草富岡城の城代を務めて戦死する。三宅藤右衛門・新兵衛・左京の三兄弟は、寛永十九年十二月の「御合力米被下候留書覚」にあるように、この年召し出されたのだろうと、綿孝輯録は記している。
■麻生吉右衛門 阿波の三好氏に仕えた後、明智家に仕えたとされる。細川家への仕官が何時の時期であるのか判然としない。飯岡豊前の娘壻である麻生は、「飯岡豊前・長岡肥後誅伐事件」に際し、日頃無音であることを詫び舅と共に戦い討ち死にする。慶長十一年七月二十七日のことである。
■三宅藤兵衛・三兄弟 ガラシャは死に臨むに当たり甥藤兵衛の事につき遺言している。「三宅藤兵へ事を頼候也、此上にいはれさる事なから、藤を御上へ御直し不被成様に」明智左馬助光春の子・与平次重利(藤兵衛)の事であるが、細川家を退身後寺沢家に仕えた。島原一揆の当時天草富岡城の城代を務めて戦死する。三宅藤右衛門・新兵衛・左京の三兄弟は、寛永十九年十二月の「御合力米被下候留書覚」にあるように、この年召し出されたのだろうと、綿孝輯録は記している。
■麻生吉右衛門 阿波の三好氏に仕えた後、明智家に仕えたとされる。細川家への仕官が何時の時期であるのか判然としない。飯岡豊前の娘壻である麻生は、「飯岡豊前・長岡肥後誅伐事件」に際し、日頃無音であることを詫び舅と共に戦い討ち死にする。慶長十一年七月二十七日のことである。