津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ねた切れ状態

2007-09-06 16:30:43 | 徒然
 わが侍帳は毎日更新をモットーにやってきたが、いよいよねた切れ状態になってきた。あらゆるデーターを打ち込んできたが、新たな情報もそう望めないようだ。そろそろ年貢を納めようかとも思うのだが、何かないかと七転八倒している。かつてある方から、文政期位のものではないかと思われる屋敷図を頂戴した。この図には左右のお宅の名前が入っており、この場所が何処なのかを特定したいと思ってきたが、未だ判明しない。「新熊本市史」にある「地図編」は、ゼンリン並で、二つの時代について屋敷跡を確認する事が出来る。数年前来熊された方に、屋敷跡をお教えしたらいたく感激された事を思い出して、侍帳に屋敷跡の表示できないかと思いついた。寝床の中で、ああすれば、こうしようと考えていたら今朝ほどは些か睡眠不足気味である。これはやりだしたら二三年は覚悟しなければならない。どうする津々堂・・・・
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旧主を考える-6 森長可・忠政&右京大夫

2007-09-06 08:00:11 | 歴史
 長可・忠政は、本能寺に於いて信長に殉じた蘭丸・坊丸・力丸の兄と弟である。兄長可は美濃金山城主、長久手の戦いの際別働隊として岳父池田勝入とともに奮戦するが戦死、12歳年下の弟・忠政が家督することとなる。長可室(池田勝入女)は中村一氏に再嫁。忠政室は豊臣秀次養女である。

 細川家家臣大洞杢右衛門は、細川忠利の懇請により召し寄せられた北条流の軍学者である。時は将に島原一揆が勃発したばかりで、杢右衛門は戦場に駆けつけ忠利にお目見えを果たしている。この杢右衛門の先主が森右京大夫(忠廣)である。忠政の継嗣であろうと思われるが、父忠政より早死にした(30歳)正室は将軍家養女だが、三年ほど早く亡くなっている。忠政の跡は右京大夫の弟・長継が継いだ。この時杢左衛門は牢人し、軍学を北条氏長に学んだらしい。祖父五左衛門は、森長可に従い戦死している。父弥次右衛門は何故か森家を離れている。
 又、讃岐18万石尾藤知宣(秀吉により殺害された)の子・金左衛門は、福島正則の元にあったが、正則改易後一時期森忠政の元にあったようだ。その後細川家が召し寄せる事になった。
 
 森家については、「森家史料研究会」の素晴らしいサイトがある。
私はその主宰者S氏から、「森家大系図」というS氏の一著をご寄贈いただいた。この一文もその史料がなければ書き得なかった。感謝。
 
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