津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

気になる記事

2007-09-27 21:05:19 | memo
 歴研の歴史論文集「在野史論」の記事目録を見ると、ちょっと気がかりな論文が見える。
■第9集 平成13年8月刊 肥後細川家に仕えた我が先祖 (跡部真)
    同上      西南の役異聞 (松本茂)
■第12集 平成18年刊  山名氏の光芒 (井田敏子)
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田邊籠城衆カ・・・

2007-09-27 16:52:36 | 歴史
 細川家の筆頭家老松井家の、「御給人先祖附」(八代市史・近世資料編Ⅳ)によると、堀口庄右衛門の祖は山名藤広入道一雲齋とある。一雲斎は三淵(渕)伊賀入道宗賢(細川藤孝父)の同姓親類で、将軍義輝に仕えた。義輝(義藤)の一字を拝領して藤広と名乗った。泰勝院(細川藤孝=幽齋)の薩摩行きにお供したが旅の途中で病死した。
 その子喜六光広は改姓して堀口氏、丹後久美で御切米二十石、宮津屋敷御留守居の時幽齋が田邊城に籠城、宮津屋敷から武具兵糧を船で搬入したという。当然のことながら、籠城に加わったと考えるのが妥当であろう。
松井家の堀口庄右衛門は鉄炮頭で150石である。

 このことは山名氏を調べている内に分かった事だ。細川藤孝は三渕氏である。細川家に養子となるが、三渕の末弟好重は異母弟で山名氏を名乗っていた事がある。その生母は山名民部少輔一雲斎と記されている。(ここで堀口氏と繋がった)その故であろうが、その後も三渕家では山名氏を名乗る人が数人いる。(家督前のことだろうか)
 何度か目にした資料にもかかわらず、こんな事もある。籠城衆に加えるべきであろうかと思案中である。
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旧主を考える-16 加藤嘉明

2007-09-27 11:08:11 | 歴史
 加藤嘉明は秀吉代伊予松山藩主(20万石)をへて、秀吉没後は家康の下で働き会津40万石の藩主となる。

肥後藩士梅原七兵衛は、父十助が会津藩士であった。加藤家は家中のいざこざで二万石に格下げになったから、その折離れたのだろうか。七兵衛は長曾我部の一門のようだ。柳生宗矩の高弟で請われて細川家臣となり、江戸にて光尚附きとなった。光尚死去後の細川家存続問題に当たっては、松井寄之等と共に奔走、懐中に短刀を忍ばせ幕府重役の袖にすがったりして困難な交渉に臨み、その活躍を以って「袖引き梅原」と渾名される。300石
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旧主を考える-15 石田三成

2007-09-27 08:24:17 | 歴史
 續亀之助は、初め明智光秀に仕え、後石田三成に仕え関が原で活躍の処を忠興に目撃されている。細川家に仕え大阪の陣でも活躍している。

 余談だが、石田三成の軍師島左近は慶長五年に亡くなったとされるが、一方生き伸びたとされる異説もある。7/26熊本日日新聞の「くまもと地名あらかると-83」によると、西岸寺町の名の由来である「西岸寺」は、創建は安貞二年(1222)という古刹だが、寛永十年(1633)僧・泰岩びよって中興されたという。この泰岩こそが島左近で、細川忠興に招かれたという。細川氏の肥後入国直前、加藤改易後の肥後内偵の命を受け「西岸寺」に入寺したという。(藤吉洸氏・熊本地名研究会)京都立本寺他数箇所にお墓があるらしいが、有名人はいくつ身体が有っても足りないという事か・・・
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