津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

只今読書中

2007-09-16 13:21:59 | 書籍・読書
 佐高信著「西郷隆盛伝説」を読んでいる。幕末の庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち事件は、西郷の相楽総三らを使っての陽動作戦であるが、この事件により戦端が開けたともいえる。会津にたいしての過酷な扱いに対し、西郷はこの庄内藩に対しては温情をもって遇した。著者佐高はその庄内の出身である。西南の役において庄内から二人の若い元藩士が西郷軍に参加して早々に戦死している。庄内の人たちは西郷を尊敬したというが、そんな切り口からさまざまな西郷像が浮かび上がってきて、興味深い著作ではある。

 山田風太郎の「エドの舞踏会」は、功なり名を遂げた元勲といわれる人たちと、その夫人達の悲喜劇である。泉下の西郷が見ればさぞかし眉をひそめた事であろう。いつの時代も勝者のいかがわしい振る舞いは共通のものらしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

めぐり合わせ

2007-09-16 11:00:08 | 歴史
 或る方から「狩野直喜」他について、お尋ねをいただいたので資料つくりをしている。直喜は祖母の叔父に当たるという事も有り、些かの資料は持っているが、その著作その他をこの際まとめようと思い、インターネットでサーフィンしていると、義和団事件にたどり着いた。なんと言うことだろうか、先日まで読んでいた石光真人著の「ある明治人の記録・会津人柴五郎の遺書」の主人公柴五郎が、あの時籠城の指揮をしていた事は承知していたが、その中に「狩野直喜」が共に篭城していた事実を知った。柴五郎と狩野との間に接点があるとも思えないが、不思議な巡りあわせではある。事件後外務省には文化事業部が創設され、中国に関係する諸団体へ補助を行ったりしている。その一つに京都大学人文科学研究所東方部が含まれている。狩野は東方文化学院京都研究所の初代所長となった。吾が祖父は狩野の姪を妻にして、ちょうどその時期、平壌日(本)語学校の校長を務めたりしているが、どうも狩野の影がちらつく。国立教育研究所紀要(第115集)の「旧韓末・日語学校の日本人教師」の中で、稲葉継雄先生は吾が祖父をして「膨張主義の国士」とされる。どうも血の気の多い人だったらしい。私が二歳の時に亡くなった祖父の、僅かに覗える足跡である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする