悲劇の宰相秀家は元亀三年(1572)備前岡山藩主直家の二男として生まれた。病没のした父の跡をうけ10歳で家督、天正14年(1586)豊臣秀吉養女豪姫(前田利家娘)と結婚。文禄の役などで戦功、秀吉五大老の一人となる。慶長五年(1600)伏見城攻め総大将、関が原戦においては西軍の主力として戦うも壊滅。薩摩を頼って落ち延びたが、島津氏により家康に引き渡された。前田・島津の懇請により死罪は免れ八丈島に流罪、約50年の星霜をこの地で重ね享年83歳で死去した。
細川家家臣寺尾左助(1,500石)は慶長七年細川家に仕官したが、代々の宇喜田家臣(3,000石)であった。左助の子等が宮本武蔵に師事し、兄・孫之允が「五輪の書」「独行行」を、弟・求馬介が「兵法三十五箇条」を伝授された。求馬介の三人の子供、藤次・弁助(野田派二天一流)・郷右衛門(山東流)がそれぞれ二天一流の祖となり後世に伝えた。
細川家家臣寺尾左助(1,500石)は慶長七年細川家に仕官したが、代々の宇喜田家臣(3,000石)であった。左助の子等が宮本武蔵に師事し、兄・孫之允が「五輪の書」「独行行」を、弟・求馬介が「兵法三十五箇条」を伝授された。求馬介の三人の子供、藤次・弁助(野田派二天一流)・郷右衛門(山東流)がそれぞれ二天一流の祖となり後世に伝えた。