興津景一、井門亀右衛門の旧主が赤松氏である。但馬竹田城主22,000石で、細川幽齋が田邊城に籠城したさい討手の一将として加わった。後東軍に転じるが、無益に城下に火を放ったことを家康に咎められて、切腹を仰せ付けられ赤松家は絶家する。
さて、田邊城攻撃に当たっての二人の行動は、森鴎外の「興津彌五右衛門の遺書」に詳しい。忠興が田邊城へ送った使者・森三左衛門は興津景一の縁類であったが、景一は井門亀右衛門と謀り、三左衛門を城内に入れる事に尽力したという。赤松家の改易後、景一は森三左衛門の紹介によって忠興に召し出された。忠興の死に伴い、息・彌五右衛門景吉の殉死の模様を森鴎外が著した名作が「興津彌五右衛門の遺書」である。
井戸亀右衛門の働きは、別途「北村甚太郎覚書」に詳細がある。其の働きぶりによって細川家に召し寄せられた。忠興の側近くにあって、後宇土細川家の家老職となる。(名君と称えられた宇土細川家六代藩主興文は、一時期井門家に養子として入っている)一族数家が細川家家臣となっているが、赤松氏家臣であったかどうかはよく分からない。
二人の細川家の内通は、左兵衛は承知の上のことで有ったのだろうか。藤原惺窩に私淑援助するなど、文人の一面もあった。
さて、田邊城攻撃に当たっての二人の行動は、森鴎外の「興津彌五右衛門の遺書」に詳しい。忠興が田邊城へ送った使者・森三左衛門は興津景一の縁類であったが、景一は井門亀右衛門と謀り、三左衛門を城内に入れる事に尽力したという。赤松家の改易後、景一は森三左衛門の紹介によって忠興に召し出された。忠興の死に伴い、息・彌五右衛門景吉の殉死の模様を森鴎外が著した名作が「興津彌五右衛門の遺書」である。
井戸亀右衛門の働きは、別途「北村甚太郎覚書」に詳細がある。其の働きぶりによって細川家に召し寄せられた。忠興の側近くにあって、後宇土細川家の家老職となる。(名君と称えられた宇土細川家六代藩主興文は、一時期井門家に養子として入っている)一族数家が細川家家臣となっているが、赤松氏家臣であったかどうかはよく分からない。
二人の細川家の内通は、左兵衛は承知の上のことで有ったのだろうか。藤原惺窩に私淑援助するなど、文人の一面もあった。